塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

IS日本人人質事件:政府批判とテロ批判

2015年02月12日 | 政治
   
IS(Islamic State:イスラム国)によって日本人の人質2人が殺害されたとする動画が発信されてから、10日ほどが経ちました。交渉の余地があるのかも分からないテロリスト集団に対し、政府の措置は適正だったのか、人質を救出することはできなかったのか、また今後日本や日本国民はどう対応するべきかなど、多くの議論が喚起されています。しかし、これまでのテロリストとはさらに一線を画すISについて、我々が知り得る情報はあまりに少ないうえに正誤の判断のしようがなく、私ももちろん個人的には意見をもってはいますが、とても責任をもって主張できるというものではありません。

ただ、どの意見が正しいとか正しくないなどという以前に、事件発生以来国内でしばしば見受けられるある「議論の進め方」について、明らかにおかしいだろうと感じていることがあります。

それは、日本政府(安倍内閣)の責任を追及する意見に対して、「テロリストに味方するのか」とか「悪いのはISなのだから、そちらを責めるべきだろう」といった反論が、世論だけでなく政府側からも噴出しているという点です。今回の場合、「政府を批判すること」と「ISを非難すること」は、別に両立しないものではないと考えています。ISが非道であることは当然ながら、政府の対応もまずかったと双方を責めることは、論理的にも道義的にも何もおかしいことではありません。

あらかじめ申し上げておきますが、現下このような政府批判をもっとも声高に行っているのは民主党や共産党などの国会野党ですが、決して彼らを擁護しようというわけではなく、彼らの主張と私の意見が同じであるというものでもありません。ただ、悪いのはISなのだから政府批判はお門違いであるというのは、私からみれば論点のすり替えに他なりません。

このような、「政府批判はお門違い」という論調は、私の知るかぎりでは基本的にネットでの議論において勢いをもっているようにみえます。そうした論調が流行っているのがネット界だけであれば、(おそらく)実際の政治への影響は限定的なのだろうと思われます。ですが、ネットの議論を参考にでもされているのか、安倍総理大臣自らがまったく同じ論法を使っていることに、失望と危機感を覚えています。

今月に入っての予算委員会で、2億ドルの支援表明に際して昨年1月17日に安倍首相がエジプトで行った演説について、共産党の小池晃氏が「(人質の)2人に身の危険が及ぶとの認識がなかったのか」との質問をしました。演説時、日本政府は2人が人質に取られていることをすでに知っていたといわれ、そうであれば、演説が2人の身に及ぼす影響について首相が考えていなかったはずはないので、小池氏の質問は私の最大の関心事でもありました。これに対し、安倍首相は人質の2人について言及することはなく、「小池氏の質問はまるで、ISILを批判してはならないという印象を受ける」と反論しました。自身に向けられた質問に答えていないばかりか、「政府批判はお門違い」論ではぐらかしてしまっています。

ネットの議論であれば、それこそ誰も責任を負わない世界ですからいたって自由ですが、国会における総理大臣となれば、そうはいきません。少なくとも、首相が国会論戦で論理のすり替えを行ったとなれば、訊かれてはまずい質問をされてしまったと感じたのだという印象を与えてしまいます。お答えになっていない以上、安倍総理の真意が奈辺にあったのかは分かりませんが、しっかりと意見をお持ちだったのであれば、論理のすり替えなどせず、小池氏の質問を真っ向から受け止めるべきだったでしょう。

繰り返しますが、私は別に小池氏の肩をもっているわけではありません。というより、前述のとおり私の一番知りたいことを質問して下さってはいますが、はぐらかされて引き下がってしまっており、肝心の言質は得られず仕舞いでまったく意味がありません。はぐらかされたことに対してツッコむことすらできず、こちらはこちらで質問よりも揚げ足取りが目的と揶揄されても仕方のない有様です。

冷戦の終結まで、基本的に戦争は国家間で行われるものとされてきました。その固定観念が根幹から覆されたのが、いわゆる9.11でした。当時の同時多発テロを主導したタリバーンは、ISと同じようにみえますが、彼らは冷戦後に空白地帯となったアフガニスタンの権を「奪取」した集団であり、まだギリギリ国家間闘争の枠組みに収まっていました。これに対し、ISは国際社会の枠組みを真っ向から否定し、主義主張もはっきりせず、ただただ残虐性のみが際立っています。明らかに、戦争・紛争の手法やプレイヤーが、新たなステージに移行しているといえるでしょう。

このように 今までに経験したことのない新しい局面にあって、どのような対応が正しいか間違っているかなどということは、結果を見なければわからない部分も多いでしょう。そのようななかで、片方を責めるならもう片方は責めてはいけないとか、まして一方が悪ならもう一方は無条件で批判を免れるなどということはあり得ません。また、歴史の常ですが、今は正しいといわれても、後世の判定では間違っているとされることも(その逆も勿論然り)少なくありません。今回の件でいえば、我々一人一人が、ISへの非難の目と、政府への検証の目を、並立してしっかりと光らせることが重要なのではないかと考えています。

  



ヤマト運輸のクロネコメール便廃止: 国が後押しする日本郵便の市場独占

2015年02月01日 | 政治
   
先月22日、宅急便でおなじみのヤマト運輸がメール便事業を3月31日をもって廃止すると発表した。ヤマト運輸の説明によれば、郵便法に規定される「信書」の定義が曖昧であり、利用者が違法状態となるリスクを避けられないためとされる。これに対し、高市総務相は「信書は郵便法で明確に定義されており、(中略)個別の照会には丁寧に回答している」と反論した。しかし、定義が明確であれば、事業者や利用者が丁寧な回答を必要とするほど困ることはないはずで、総務相の発言は矛盾している。

ただ、私が思うに、今回の件の一番のポイントはそこではない。郵便法の内容が時代に合っていないこと、さらにいえば、国が合法的かつ狡猾に民間企業であるはずの日本郵便株式会社(以下「JP(Japan Post)」)の市場独占を後押ししているといわざるを得ない現状が問題であると思われる。

日本の郵便事業は、郵便法によって国の事業として独占することが定められていたが、小泉内閣による郵政民営化により、そのままJPにスライドして適用されている。すなわち、日本における信書の取り扱いはJPが独占するとされている。ここが第一の狡猾な点であるが、一民間企業であるJPの独占と断言しながらも、JP自体は独占禁止法違反とはならない。なぜなら、独占状態は法律によって創出されているのであり、表向きはJPが故意に独占しようと動いたわけではなく、またJP単体では独占状態の解消は不可能だからだ。

かといって、現行法の名のもとに公然と独占状態の存続を明言していては、当然ながらいつかは糾弾されてしまう。日本のビール事業は4大ビール会社に限るとか、日本の鉄道事業はJR各社の独占とするといった法案が検討されるようなもので、もちろん論外だ。そこで第二の狡猾な点として、郵便法でJPの独占が明示されているにもかかわらず、郵政民営化に先立つ公社化の際に施行された信書便法において、民間事業者の信書事業参入は可能とされた。この時点で新しく制定された信書便法と矛盾しているのだから、旧来の郵便法は改正されなければならないはずだが、そうはなっていない。独占の維持と新規参入の門戸開放という本来相反する2つの看板を並べて掲げ、独占の2文字をぼやかしつつ堅持しようとする姿勢がうかがえる。

また、時代の要求に応えたかのようにみえる信書便法にも、大きなまやかしがある。業務開始にあたっては総務省の認可を受けなければならないが、そのためには全国に一定数の集配設備を設置することや、全国へ3日以内に配達できるシステムの構築、事業収支の事前見積もりなどの要件を満たす必要がある。だが、国家事業として整備されたインフラと同様のものを民間会社に前提条件として要求するなど、無茶にもほどがある(3日以内の配達に至っては、JPでも完遂できていない)。「門戸は開いていますよ」といいながら、門前に戸口より大きな番犬を置いて、事実上入れないようにしているのが実態だ。

第三の狡猾な点として、JPと競合する可能性の少ない分野については、信書便事業を認めているものもあるという事実が挙げられる。先の信書便法には、一般の信書便事業のほかに特定信書便事業という別の認可基準が設けられている。こちらは、①対象品の長さ、幅、厚さの合計が90cmを超えるか、重量が4kgを超える②3時間以内に配達する③料金1000円以上、の3つのうちどれかを満たせばよい。これらに該当するもっともメジャーなものは、バイク便や自転車便などであり、おそらくJPがこれらの事業を手掛けることは、将来的にも想起されていないであろう。逆に、重量が4kgに達したり、3時間以内に届けてもらわないと困ったり、1000円分以上の切手を貼る必要のある信書をポストに投函する人はまずいないだろうから、JPの独占的地位は安泰である。

もう1つ、扱いが気になるものが電子メールである。郵便法によれば、信書とは「特定の受取人に対し、差出人の意思を表示し、又は事実を通知する文書」と定義されている。手紙や葉書をはじめ、私信の類はすべて信書にあたるわけだが、私のみたところ、電子メールはどう考えてもこれに該当する。手紙やはがきなどの文書を紙で送るか電子情報で送るかの違いでしかない。したがって、メールソフト提供者やメール事業者、およびメール送信者はすべて摘発されなければならないはずだが、そうはなっていない。当然ながら、郵便法は電子メールなどない時代につくられたものであるから、新しい概念を法律に照らし合わせ、必要であれば法律を改正しなければならないはずだ。だが、どのように判断しているかは知らないが、解釈で切り抜けているのだとすれば、それは定義が曖昧だからこそできる芸当といえる。電子メールも、おそらくJPが参入することはない事業であり、それゆえに法改正ではなく解釈の範囲で簡単に済ませてしまっているのだと考えても、邪推ではないだろう。

以上にみたように、ドラスティックな郵政民営化の裏で、郵便事業全体に関する法律や制度についは、いまだ現状や時代のニーズに応えているとは言い難い。それ以前に、そもそもJPが民間会社であるというのなら、自由な参入による市場競争にさらされなければならない。少なくとも、郵便法から「独占」などという文言は排除されなければならないはずだが、堂々と明記されたままとなっている。こうした姿勢からは、国やJPおよびその親会社である日本郵政が、法律や定義のズレを利用してJPの独占的地位の保全に奔っているとの疑念が生じざるを得ない。

今週月曜に始まった通常国会について、安倍総理大臣は「改革断行国会」にしたいと意気込んだ。改革対象の筆頭に挙げられているのは、JA全中解体を主体とする農協改革といわれる。こちらもとても期待される改革であり、ぜひ成し遂げていただきたいと思う。他方で、安倍氏も小泉内閣のもとで積極的に取り組んだであろう郵政民営化は、残念ながらまだ道半ばといえる。組織の解体という困難を抱えた農協改革に比べて、こちらであれば法律を数本改正するだけで済む。改革姿勢をアピールするのであれば、比較的簡単な郵便法および信書便法の改正を並行して議論しても、罰は当たらないように思われる。