塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

関ヶ原考①:小早川秀秋の評価

2007年12月16日 | 歴史
   
 古くは中山道、現在でも新幹線や高速道路で関西に向かうには必ず通らなければならない要衝が関ヶ原です。壬申の乱の舞台ともなったこの戦場を先日横断して、改めて関ヶ原の戦いという天下分け目の合戦が孕むいくつかの問題について考えるようになりました。

 関ヶ原というと、見通しの良い原っぱで大規模かつ縦横無尽に合戦していたように思われますが、実際に歩いてみると野原に陣取っていたのは東軍のみで、西軍は東軍を取り巻く山々の頂上や中腹に陣を張っていたようです。

 また、両軍の間には藤古川という谷川が流れています。この川は深い谷を形成しているため、先に攻撃を仕掛けた東軍は、一度谷底に降りてから山上の敵を目指して攻め上らなければならず、川と谷を天然の濠に防御にまわっていた西軍に比べれば圧倒的に不利な地形条件にあったといえます。つまり立地上も、東軍を包囲する形で敷かれた西軍の布陣からも、東軍は戦う前から苦戦が自明な条件下にありました。


藤古川。写真では分かりませんが、両岸は急斜面が続きます。


 にもかかわらず東軍が勝利できたのは、家康陣の背後を脅かしていた吉川広家と、最高所の松尾山に大軍を擁していた小早川秀秋の二人が内応したからに他なりません。

 逆に言えば、両者の内応の確約がなければ、経験豊かな戦巧者の家康がそんな死に体ともいえる布陣で決戦に臨むはずがないように思います。

 そこで今回は、特に裏切りという汚名のもと評価のとにかく低い小早川秀秋という人物を少々考え直してみたいと思います。

 従来小早川秀秋は、優柔不断でどちらにつこうか散々迷った挙句、家康の威嚇射撃に驚いて寝返りを決意したといわれています。

 しかし、先の逆説から家康の関ヶ原決戦構想が秀秋の内応を所与の前提としていると考えるならば、秀秋の行動もその場の決断ではなくあらかじめ何らか共有の確証があったとするのが自然であると思います。事実家康による松尾山への射撃は、戦場を突破する必要性や山の標高差などから不可能であるとする意見もあるようです。

 また、秀秋にしてみれば、大軍を有していること、あるいは三成が大阪城を出ようとしない豊臣秀頼の代理として秀秋を擁立したこと(秀秋は秀吉の甥にあたる)、そして三成の陣より高所の要地(松尾山には陣どころか城が築かれていた)に陣所を構えていることなどから、自分の参戦が名実ともに勝者を決定打となることくらいは、自覚していて当然なように思います。秀秋は松尾山に陣取る際、先に松尾山に到着していた伊藤盛正などの小大名たちを無理やり追い出して山を占拠しましが、これも自身の決定力としての立場を明確にしようとしたのだと、ポジティヴに捉えられる要素の一つではないでしょうか。



再掲になりますが、松尾山。
大坂進軍を目指す東軍を抑えるため新城が築かれていたという。


 このように実際に戦場を歩いて考えると、暗愚でうろたえるばかりの凡将というより、じっと高みから戦局を見極めつつ、最も自分の功績をアピールできる機会を逃さず勝敗を決する下知をくだしたのだとするほうが、一国一軍の大将の視点や思考からみて妥当なように思われてなりません。

 戦後、秀秋は大幅に加増されて岡山に移封します。そこではなかなかの善政を敷いていたようですが、僅か二年後に21歳の若さで急逝してしまいます。この死も、加藤清正や浅野幸長の末路のように、有力有能な秀吉恩顧の大名に対する疑惑の死の一つに数えるのは、少々突飛に過ぎるでしょうか。

 尤も、当の秀秋が本人も予想だにしようはずもない若さでこの世を去ってしまったために真相は闇の中です。とはいえ、小早川秀秋の裏切りについては、状況証拠を見る限りでも再研究・再評価が必要であるように思うのです。


   


行く秋や 美濃路近江路 中山道

2007年12月05日 | 旅行
 中山道旅から帰ってきて、ようやくまた気力が回復してきました。

 今年の秋は何だかあったかなかった分からないくらい短く感じましたが、ちょうど紅葉が綺麗だったので、風景写真をいくつかアップしようと思います。

 全行程写真は、時間と気力があればコンテンツをつくってまとめようと思います。


 
関ヶ原の戦いで、西軍を裏切った小早川秀秋が陣を敷いた松尾山



美濃垂井宿周辺。背後の真白い山は積雪世界記録を持つ伊吹山



長良川の渡し舟「小紅の渡し」から(現役)



日本ラインこと木曽川の渓谷


 もうちょっと載せたかったのですが、このブログでは画像は一件五枚までのようなので、とりあえずまたの機会ということでこうしてみると余り紅葉の写真撮ってないな・・・)。。