塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

件の二紙

2005年04月27日 | カテゴリ無し
発生直後の事件について意見を書くのはやはりリスキーなものだ。

昨日のブログでは「1分30秒」の遅れを取り戻すために速度超過してしまったが為の事故としてまとめたが、これだけの(といっても数字の上でしか分からないが)大惨事となるには他にも様々な要因が考えられるようだ。

新たな情報として僕が知り得た限りでは、
○「1分30秒」とはいえ、次の駅で乗り継ぎの連絡をしなければならなかった。
○並行して走る私鉄とスピード争いをする形でダイヤが組まれていた。
○運転手は以前100メートルのオーバーランをやらかしていた(ちょっと想像し難い)
○速度向上を図り、衝撃に弱いと指摘されるステンレス製の車両を導入していた。
○ATSは速度を感知できない旧式のものだった
とこのような感じですが、この時点で既にかなりの人為的不備あるいは事故を誘発しかねない要因が見出せる。
そもそも鉄道事故に天災ということは殆ど無いのだろうが、今回は増して多くの過失点が指摘されそうだ。

これ以降はしばらく捜査の行方を見守るとして、今日気になったのはオンラインで読んでいる大手二紙の社説について。
まあ、朝日と読売な訳ですが。んで大体何が言いたいか皆さんお分かりとは思いますが、どうも朝日の文章能力を疑いたくなる。「じゃあお前はどうなんだ」と言われれば全く返す言葉も無いのですが、そんな僕をしても朝日の文章は読んでいて喉に小骨が引っかかるような違和感を覚えるのだ。僕もまだ一応学生ですから、しばしばレポートを書いたり読んだりするわけですが、その経験上から言わせてもらうと、「自分の書いた文章見直しして無いだろ!」ということなのです。内容が二転三転しているとか、論理的一貫性がないなどと批判しているサイトをちらほらと見かけますが、要はそれ以前の問題だと思うのです。

本文の内容・意見と関係の薄い部分から抜粋させていただくと、
読売:50人を超える乗客が死亡し、400人以上が負傷した。
朝日:わかっているだけで60人近い人の命が奪われた。440人にのぼる人々がけがをしている。

この時点で既に僕は非常な違和感を覚える。確かにメモに起すレヴェルなら後者の書き方になるのは至極当然である。ただし、それを提出する際に一度全文を読み直せばその文体は必ず前者からそう違わぬ形に書き換えられるはずなのだ。
読み直しや更訂の時間がなかったのか、見直す習慣がないのか、はたまたこの文章が限界なのかは分からないが、これではたとえて言えば、先生に「言いたいことが沢山あるのは分かる。でも字数が限られているのだから、もう一度読み直して本当に書きたいことを丁寧にまとめてみなさい。」と言われる高校生レヴェルに見えてしまう。

因みに僕はブログを書く際には殆ど見直したりしません。だからたま~に古い日記を流し読んでみると「何か変な文章だな」とは思うのですが、それでも余程致命的でない限りは書き直したりはしません。どうもブログではきちんとした文章を書く気になれないもので。

脱線事故所見

2005年04月26日 | カテゴリ無し
やっと課題が一段落。
息抜きにブログでも書きなむ。



日本では何とも痛ましい事件が起きたようで。
脱線した上にマンションに激突とはとてもショッキングです。

原因はまだ捜査中のようなので断定的なことを言うべきではないのでしょうが、遅れを取り戻そうと普段より加速気味だったのは確かなようで。
今回この事故を取り上げたのは失礼ながら被害の大きさからではない。オーバーランにより「1分30秒」遅れで運行、の下りが非常に目に付いたためである。欧州人からすれば間違いなく「お前は何を言っているんだ」という反応であろう。日本にいる分には何とも感じないだろうが、ここにきて以来兎角ダイヤに関する感覚が麻痺してきている。

「ドイツ人は車が走ってなくても赤信号で待ち続ける」と評されるここドイツでさえ遅滞の表示は5分からだ。それ以内は遅れたうちに入らないということだろう。他の国々なら尚のこと。伊では時刻表が分刻みの時点で驚嘆に値するという。即ち、もし「1分30秒」の遅れを取り戻さんとした速度超過が原因であれば、少なくとも欧州では起こりえない事故だったといえるのではないだろうか。

また踏まえて考えてみると「オーバーラン」というのも少々特異に思えてくる。僕の知る限り、車両がホームから「オーバー」することは滅多に無いように思う。大抵はホーム内の「停車位置」をオーバーした際に数メートル退がる形だ。そこまで厳格に停車位置が決まっていて、ホームにドアの位置まで記されている鉄道など全く日本人故に成せる業ではないだろうか。

だからと言って運行のあり方を今すぐ変えろというわけではない。自分も日本にいれば、1分遅れては舌打ちしオーバーランすれば足を鳴らすだろう。列車がダイヤ通り運行していることは何より安全であろうし、新幹線の安全神話も緻密なダイヤがその一角を担っていると言えよう。また結果的には欧州の方が列車事故の発生率は圧倒的に高いと思われる(投身自殺を除いて)。

ただ結局のところ、目的(鉄軌道においては迅速且つ安全な旅客の輸送)に対して規律が先行してしまったとすれば本末転倒である。乗客としても遅れは取り戻して欲しいところであったろうが、其が為に今回の事故に至ったとすれば全く不幸であり、亡くなられた方々にはただご冥福を祈るのみだ。何事も過ぎたるは及ばざるが如しということでもあろうか。

  

国歌のススメ

2005年04月22日 | カテゴリ無し
先日面白いサイトを発見した。

世界各国の国歌を主にMIDIで集めている。
他にも様々な種類の曲があるようでまだ楽しめそうだ。英語も併記されているので安心。

とりあえずあるのだからと片っ端から落とす。
MIDIなので一曲2、3秒程度しか要さないのだが、これが全世界各国+αとなると結構時間を取られる。
そして落とした曲の数を見て少々唖然。
これをひとつのフォルダにまとめてしまうのは聴くときに骨なので、大まかな地域ごとに分けることにした。
これがまた一苦労。国の名前に関しては結構知っている自身があったのだが、いざ分類し始めてみると、「こんな国あったっけ」ということがままあった。
特にアフリカ、中米に似たような国名や聞いたことのない名が集中していたように思う。
さて、漸く聴ける状態にこぎつけとりあえず欧州、続いてアジア、アラブ、アフリカ、両米、オセアニアと家事をこなしがてら聴いてみる。


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段々、段々全部同じ曲に聞こえてくる!!!
皆似たようなマーチなのだ。欧州ならともかく、マーチでアフリカやアラブは想像できないと思う。
何というか、国歌専門に作曲するマーチ作曲家が何人かいて、余り資金や関心の無い国はそういう職業作曲家にお任せしてしまった結果世界に数シリーズの国歌が出来上がってしまった、とかそんな感じだ。

こうやって聴いていくと、君が代がかなりよく出来た曲に思える。
小中学校の式典で歌わなくなかったときは、「何かオチがなくてしまらない歌だなあ」と感じていたものだが、こうして並べ聴いてみると日本独特の旋律がよく出ている気がする。
ウィキによると、1903年にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、君が代は一等を受賞したそうだが、分からないでもなくなった。

オススメはモロッコやアゼルバイジャン、ウクライナあたりと、概してスラブ系諸国はそうなのだが、何故か国歌に悲壮感が漂っている。
何だか世界で最も重い歴史を背負ってきたかのような曲調なのだが、これで国民の愛国心を果たして啓発できるのだろうか、とちょっと疑問に思った。

あと、旧東独国歌などは日本ではとあるエロゲの主題歌として一部に知られていたりするので、一聴の価値はあるかもしれない。たしかに国歌というより、スーファミ時代のロープレなんかを髣髴とさせる。





僕は新世界の神になる

2005年04月19日 | カテゴリ無し
「新法王選定の初日は進展なし」
ローマ関係の記事がここ最近トップに来ることが珍しくありません。

日本でどの程度扱われたかは詳らかではないのですが、お国柄というかヨハネ・パウロ二世が薨去したときは大喪の礼のごとどのチャンネル、記事も法王一色でした。

僕は宗教には文化基盤以上のものは求めていないので、とにかくつまんねえなあと思ってみていたのですが、ニュースキャスターが真面目な顔で「コンクラーベ」を連呼するのがなんとなく面白くて仕方ありませんでした。
初め聞いたときは、コククラーベって一体何するんだ?コタツにストーブに鍋焼きうどんでもすするのか、と。
勿論それで決めてもらったらそれはそれで面白いのですが、誰かが過半数を得るまで何度も投票を行う、というやり方には疑問があります。

そもそもキリスト教は、この世の全て唯一絶対たる神の手に成らぬものは無い、という考え方のはず。ならば神に仕える者の中で、最も神に近い地位を人間が投票で行うなどとはなんともおこがましいことなのではないのだろうか、と考えてしまう。

いっそのこと「もめたらコインで」とか「ごきげんよう」みたいに大きな賽をサンピエトロ寺院の上から振って「誰になるかな」、とした方が余程神のご意思を体現しているのではないか。ローマらしく「area iacta est」とばかりに。

まあ、投票は人の意思で行うとは言えその結果すらも神の手に成るのもなのだ、と主張すれば問題ないのだろうが。ただ有力枢機卿による票固めも神の意思なのだろうか。

と、全くどうでも良いことを一晩考えてみたり。