塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

JR北海道のレール異常放置問題雑感

2013年09月28日 | 政治
    
 JR北海道で、260を超える箇所で、レール異常を30年弱にわたって放置していたことが判明し、大きな問題となっています。旅客輸送の根幹である安全性にかかわる問題であるだけに、世間では大きな驚きと怒りの声が上がっています。しかし、私はこの報道を聞いても大して驚きはせず、さもありなんといった感じで受け止めていました。

 JRの旅客鉄道部門は、全国を6つの管区に分割した6社に分かれていますが、そのうち北海道だけを管轄するJR北海道は、どうみても直感的に他の5社に比べて人口に対する路線距離のバランスが取れていないように思われます。北海道の大都市といえば、札幌のほか函館、旭川あたりが想起されます。ですが、JR東日本、西日本、東海、九州の4社がそれぞれ1つずつ抱える東京・大阪・名古屋・福岡の四大都市圏に比べれば、はるかに見劣りするといわざるを得ません。都市圏を離れれば、無人の野が広がるのみ、というイメージが北海道にはあります。したがって、線路の維持という点にかんして、住人1人当たりが背負うレールの長さは、他の5社に比べて格段に長くなってしまうのではないかと推測されるのです。

 ためしに、wikipediaに載っているJR北海道の総路線距離を、北海道統計課のHPに掲載されている北海道の人口で割ってみると、約0.46mという数字が出てきます。JR東日本と西日本、東海の管区区分は都道府県に準拠しておらず、人口統計ができないので、比較対象としてJR九州を取り上げてみると、この値が約0.17mとなり、およそ2.7倍の差があることになります。おそらく、JR東日本や西日本、東海と比べれば、この差はもっと広がるものと思われます。

 加えて、今挙げたJR4社には、ドル箱の新幹線が通っています。対して、JR北海道には、新幹線延伸の予定はありますが、実現は当分先です。稼ぎ頭といえば、寝台特急カシオベア&北斗星ぐらいのものでしょう。

 また、車社会化した今日、とりわけ北海道では人も物資も車での輸送がメインとなっています。鉄道がなければ移動は困難という時代は、もはや過去のものとなっています。

 つまり、あくまで直感ですが、JR北海道はそもそも鉄軌道部門で収益をあげることが非常に難しくなっていると考えらえます。地方の赤字路線は、新幹線ができてしまえばいそいそと第三セクター化して分離されてしまうことから分かる通り、民営会社からすればお荷物でしかありません。民間の論理にしたがえば明日にでも廃止になるような路線をいくつも抱えたJR北海道が、線路の点検・補修を行わずにいたとしても、そこまで吃驚仰天するようなことではないように感じてしまうのです。

 もちろん、人命にかかわることですから、怠っても仕方がないと許容しているのではありません。現実に事故も起こっているわけですから、不作為の罪は免れません。ですが、そのような過失が黙認されてしまう体質をつくったのは、経営陣の心構えというよりは、JRの分割のされ方にあるのではないかと考えられるのです。
 
 今までの話の流れから漏れていたJR四国も、JR北海道と同様に新幹線は走っておらず、四国には札幌に匹敵するような大都市もありません。先ほどの人口1人当たりの路線距離数を算出すると、約0.22mとなり、この点では北海道よりもだいぶマシであるといえます。それでも、新幹線や都市圏といった収入源を持っていない以上、JR北海道に次ぐ厳しい環境にあることは、間違いないものと思われます。JR四国についても、ちょっと調べてみれば、今回のJR北海道と似たような話が出てくるような気がしてなりません。

 今回のJR北海道の問題について、JR東海の山田佳臣社長が「同じ鉄道屋として非常に悲しい」と発言されたと聞きます。もし私がその場にいたとしたら、おそらく「そんな風に言うなら代わってあげたら?」と言っていたでしょう。

 今回のJR北海道のレール異常放置問題は、企業の体質云々以前に、JR各社の間の地域格差にあるものといえます。この格差は国鉄の民営化後に徐々に顕在化するようになったというものではなく、分割時点である程度予想できたことだといえます。したがって、JR北海道の経営陣を挿げ替えて、「ルールを守れ。命を守れ」とお題目を唱えたところで、根本的な解決にはなり得ず、また同種の問題が形を変えて発生する可能性はぬぐえません。

 解決策としては、たとえばJR北海道をJR東日本に、四国を西日本に吸収合併させるか子会社化させるというのが、1つの手ではないかと思います。東日本も西日本も、お国からプレゼントされた巨大資本で好き放題やっているわけですから、それくらいのお荷物を背負っても罰は当たらないでしょう。とにかく、赤字路線の維持という公益事業を任せたいのなら、それに見合った骨格と体力を備えさせてあげないことには、サボり気が出てしまうことを防ぐのは難しいでしょう。

  



勝手に九州十五景

2013年09月22日 | 旅行
  
 昨日、小生のお城のページに、ようやく今春に行った九州のものをアップし終わりました。もう旅行から半年が経ってしまいましたが、数えてみると全部で63城!一般の方からみれば、むしろ城なんてそんなにあるの?といった感じでしょう(笑)。

これだと、わざわざ九州まで行ってお城しか見てこなかったんかい!と言われてしまいそうなので、今回はその他の写真を絞りに絞って15枚ピックアップして(最初は10選にしようと思ったんですが、足りませんでした^^;)、勝手に十五景と題してお送りします。当然ながら、お城関連(城下町や武家屋敷なども含む)は入っておりません。また、すでに別の記事で紹介したものも省いてあります(関連記事については最後にリンクを載せます)。


<長崎の夜景(長崎県長崎市)>

世界新三大夜景の1つだそうです。当然周囲はカップルだらけです(笑)。何枚も撮ったのに、これ以外は全部ボケてしまっていました(泣)。


<寺院と教会の見える風景(長崎県平戸市)>

奥にみえる白い塔が教会です。長崎と並ぶ南蛮貿易の港町で、周辺の島々には隠れキリシタンが明治維新後に次々と建設した教会群があります。そうした独特の風土が醸し得る風景として、売出し中の景色です。


<阿蘇山(熊本県阿蘇市等)>

世界でも有数のカルデラ火山。火口のボコボコいっているところまで丸見えです。裾野から外輪山に至るまで、飽きることのない雄大な景観が続きます。湧水や温泉が至るとこにあるので、車で訪れるならポリタンクは必須です。


<水前寺公園(熊本県熊本市)>

正式名称は水前寺成趣園。今回訪れた庭園のなかでは、もっとも整備され、趣がありました。園内でいただける「望月」というお菓子には感動しました。卵白を使ったつるふわっとした何ともいえない食感の饅頭のようなお菓子です。


<虹ノ松原(佐賀県唐津市)>

およそ5㎞にわたってクロマツ林が続く日本三大松原の1つ。残念ながら上から眺めただけですが、松林の緑に砂浜の白と海の青のコントラストが映えます。


<知覧特攻平和会館の復元三角兵舎>

風景…というのとは違いますが、載せずにはいられませんでした。特攻隊に選ばれた兵士はこのような半地下の薄暗い木造兵舎で、自分の番がいつ来るかと毎晩を過ごしていたそうです。


<山川天然砂むし温泉(鹿児島県指宿市)>

鹿児島の飲み屋で、砂むしなら指宿温泉よりこっちの方がいいよ!と教わったところです。指宿温泉より南にあります。たしかに、昔からある地元の施設といった感じで、下手に観光地化されておらず、雰囲気も最高でした^^


<喜入石油備蓄基地(鹿児島県鹿児島市)>

ここにきて何故?という感じですが、個人的にとても思い入れがありまして、中学時代の社会科の資料集に載っていたナニコレワードの1つでした。中坊のころからの謎を間近に見られて、まったくもって個人的に感動でしたw


<都井岬の野生馬(宮崎県串間市)>

車も恐れずもしゃもしゃと草を食み続ける野生化した馬たちです。車道も我が物顔で闊歩するので、運転中は馬のお尻からの落し物に要注意!都井岬に来るまでの道路がヒドくて、岬に数軒あったホテルは全部廃墟となっていました。元宮崎県知事さんはどげんかしてくれんかったんでしょうかねぇ。


<青島神社の鬼の洗濯板(宮崎県宮崎市)>

鬼の洗濯板自体はあちこちの海岸で見かけますが、ここの洗濯板は規模も形状も他を圧倒しています。小さな青島のほぼ全周が洗濯板に囲まれています。神社の社叢も、日本の神社にいるとは思えない南国ムードの漂う素敵な森です。


<高千穂峡(宮崎県高千穂町)>

まさに神々の造形と呼ぶべき美しさ。写真は浸食が織りなす数多の景色の1つに過ぎません。高千穂峡だけで別コーナーを作れば10枚は掲載できます。個人的には、こんな美しい渓谷に貸しボートを浮かべるのはやめていただきたいと思っています(苦笑)。


<別府温泉の湯けむり(大分県別府市)>

日本一の湯量を誇る別府温泉。工業地帯のように町中から湯けむりが上がっています。ちょっとは我慢できないの?といいたいくらい、お湯も蒸気もあふれ出ています。それでいて場所によってちゃんと泉質も異なるというのが、なんともニクいところ(笑)。


<羅漢寺(大分県中津市)>

耶馬溪の一画にあります。耶馬溪というと青の洞門が有名ですが、今日では当時の洞門は埋まり、車道が通され、川も水量が減って、逸話通りの厳しい渓谷と洞門の風景とは異なってしまっています。むしろ、この羅漢寺や奥耶馬溪の方が、深山幽谷のイメージに合っているように思います。


<長浜の屋台(福岡県福岡市)>

市は整備された中洲などの屋台に観光客を誘導したいようですが、汲み置きじゃない屋台なんて屋台じゃない!と卸売市場の西の通りへ出かけました。ここの屋台で食べたラーメンは、とんこつでは今までで一番美味かったです。


<門司港駅(福岡県北九州市)>

大正三年完成の日本では珍しい行き止まり駅。こちらでは焼酎二階堂のCMに登場する夜景が知られていますが、残念ながらこのときは改修中で、夜間のライトアップはされていませんでした。門司は、他にも近代の建造物を並べて門司港レトロとして売り出しています。

最後に、すでに別記事でご紹介した分については、以下をご参照ください。

非効率官営テーマパークの代表選手「吉野ヶ里遺跡」
旧蹟の早慶戦:大隈重信旧宅vs. 福沢諭吉旧居
アクロス福岡:建築から自然への歩み寄り
雲仙・普賢岳火砕流から22年
雲仙・島原被災地支援観光ブログ

  



悪ふざけ写真のツイッター投稿による「バイトテロ」雑感

2013年09月13日 | 社会考
  
 アルバイト店員や客が飲食店で悪ふざけをし、その写真をツイッターに投稿して発覚するという事件が連日ニュースになっています。最近ではバイトテロなどと呼ばれているそうですが、たしかにたった1枚の写真でいきなり閉店にまで追い込まれてしまうのでは、経営者側からすればまさにテロでしょう。

 なぜ今になってこんな話題を持ち出したかというと、バイトテロによってとうとう個人経営店まで閉店になったというニュースを今週見かけましたが、その店を私は知っていたからです。知っているとはいっても、入ったことはなく、高速道路に乗るときなどによく前を車で通ったというだけですが。小田急線と京王線の永山駅から徒歩で15分の有名そば屋ということでしたが、その圏内にそば屋は数えるほどしかなく、特定は容易でした。そもそも永山を含むいわゆる多摩ニュータウンには、個人経営店が極端に少なく、そのそば屋は有名という以上に古くから地元で親しまれてきた店だったようです。

 このそば屋の件も含め、バイトテロの内容はどれも似たり寄ったりの幼稚なものです。私ならやれといわれてもとても恥ずかしくてできません。私の知人友人にもやりそうな人間はいません。ですが、この手の話題が出たときによく言われる「最近はバカな奴が増えた」という反応には、私は無条件には賛同できません。

 また、飲み屋などで人生の諸先輩方とお話ししていると、「俺らの頃にはそんなバカはいなかったよ~」などいう意見が必ず出るのですが、私はこれにも疑問です。昔は悪ふざけが「なかった」ということを、証明しようがないからです。悪ふざけが世に知られるようになったのはツイッターが普及したからで、以前は厨房で何が行われていようと、それを赤の他人が知る術はありませんでした。

 では、昔から冷蔵庫や食洗機に体を入れたり、食材を顔にかぶったりする行為が日常的に行われていたかというと、それも違うでしょう。ネットの普及とともに、悪ふざけも増えたというのもまた、事実と思われます。まだネットやデジカメがなかったころには、悪ふざけをしたところで「観客」はその場にいる人間だけです。わざわざ悪ふざけをカメラで撮影して現像屋にもっていくなんて労力をかけて友人に見せびらかしても、むしろイタいだけです。したがって、もし隠れて悪ふざけをしていたとしても、その理由の多くはストレス発散といったところでしょう。

 ところが、携帯カメラやツイッターの出現により、悪ふざけに限らず日常のあらゆる場面の、撮影も拡散も至って容易になりました。自分のさまざまな「作品」を全国・全世界に発信する「コスト」が大幅に下がり、自分をアピールするチャンスが劇的に増大しました。悪ふざけ投稿というのは、私からみればそうした「作品」で自分をアピールしようとする人たちのうち、もっとも品もセンスもないグループといったところに分類されるものだと考えています。

 ですから、「最近の若いもん」がバカになったのではなく、昔から一定数いた予備軍にチャンスと手段が与えられたとみるべきなのだろうと、私は思います。私が学生の頃にツイッターがあったとすれば、おそらく私の世代が問題をおこし、槍玉にあげられていたでしょう。人間の行動基準や価値観などは時代とともに変化しますが、本質は10年や20年で変わるものではありません。

 そう考えると、「バイトテロ」対策として被雇用者の教育の徹底というのは、もちろん必要的なことではありますが、効果には限りがあるといえます。むしろ重要なのは、悪ふざけをしづらい環境づくりではないかと思います。たとえば、バイトだけに厨房を任せずに正社員を常駐させるとか、厨房にも監視カメラを設置して周知するとか。要は、アルバイト店員に、悪ふざけにかかる「コスト」が高いと感じさせることが大切です。

 ただ、私にもどうしても理解できない点が1つだけあります。それは、「バイトテロ」に対する損害賠償が請求されたり、わざわざツイッター内で悪ふざけ画像を探して回るような悪趣味な人もいたりと、一連の騒動を通じて悪ふざけの「コスト」は十分に高まっているように思うのですが、それでもなお投稿が後を絶たないということです。飲み屋の諸先輩方のお言葉を借りるならば、「今の若い奴らには学習能力がない」といったところですが、そんなことではとても説明がつきません。

 この点について、子供のころからSNSを日常的に利用してきた若い世代には、SNSは身内のコミュニティであり、赤の他人がそこに干渉する概念がないからだとする意見を目にしたことがあります。しかし、それは最初の数例にはあてはまるかもしれませんが、「これだけ報道を通じてリスクが周知されているのに繰り返されるのはなぜか」という私の疑問の答えにはなり得ません。

 どなたか、有力なご意見をおもちの方がいらっしゃったら、ぜひご教唆いただきたいと思っています。

  



東京五輪開催決定

2013年09月08日 | 社会考
  
 2020年の夏季オリンピック開催地が、東京に決まりました。私は以前から東京での開催には反対していましたが、まずは今回の決定に日本国民としておめでとうございますと申し上げます。決まった以上はもはや反対も賛成もなく、ただ「成功」を期待するのみです。

 私のいう「成功」とは、出場されるアスリートの方々の成果云々ということではなく(それは開催地がどこかにかかわらず常に願っていますが)、特需ではない継続的な「五輪効果」が得られることです。具体的には、最低でも次の3点が実現されなければならないと考えています。すなわち、①福島第一原発の汚染漏れの完全な封じ込めと廃炉に向けた具体的プロセスの策定、②首都圏の交通改善や水害対策といった都市インフラの整備(とくに老朽化した首都高速の抜本的な造り直しは必須)、③被雇用者層の雇用環境および所得環境の改善 です。不思議なことに、どれも東京都ごときがどうこうできる問題ではなく、国家が対処すべき案件ですが。そして、3つとも現在のところ具体的で効果的なアイデアがでているようにはみえないので、7年後までに達成されている可能性は、残念ながら低いように思います。

 今回の決定について、東京のプレゼンの内容が優れていたかのような報道も見受けられますが、投票の内容をみると、一番の理由は強運とそれを生かした作戦勝ちというところにあるように思います。強運というのは、第一回の投票でマドリードとイスタンブールが同立2位になったことです。事前の予測ではまずイスタンブールが脱落すると言われていましたが、ここで決選投票前に最下位決定戦に持ち込まれたことが、東京勝利の最大の勝因であったといえます。もし下馬評通りイスタンブールが先に落ちていれば、以前の猪瀬都知事の「イスラムはいつもけんかしている」失言により、イスタンブール支持票はおおむねマドリードに流れていたはずです。それが分かっていたからこそ、東京支持派は最下位決定戦でマドリードを落とすという戦略的投票を行ったと推測されます。そうすれば、マドリード支持票は、フラットに考えれば東京とイスタンブールに半々となり、それでも東京勝利が確定します。かくて、東京勝利の一番の理由は、マドリードとイスタンブールが同票で最下位決定戦となったという偶然にあるといえるわけです。

 このようなことを書くのは、別にいまさら東京開催にケチをつけようというものではありません。ただ、東京のプレゼンが優れていたようにいわれるのは、「福島は東京から250㎞離れてて無関係だから、東京はセーフです」と切り捨てられた東北の出身者としては、どうにも我慢がならなかっただけです。

 ですので、最後に東京都の五輪担当者の方々にこれだけはお願いします。今後、オリンピックに関して、「被災地を応援する」だとか「被災地に希望を与える」だとか、被災地支援を謳った発言は絶対にしないていただきたい。被災地を切り捨ててまで手にした五輪開催の切符なのですから、被災地復興とはまったく別個のものとして取り組んでいただきたいと思います。もっとも危惧されるのは、被災地支援をダシにして、復興予算が五輪開催費用に転用されてしまうことです。

 7年後、「私は7年前にずいぶんな杞憂にとりつかれたものだ」と、晴れやかな気持ちで東京オリンピックを迎えられることを切に願います。

  



婚外子の相続格差違憲判決所感

2013年09月07日 | 政治
  
 今月4日、結婚関係にない男女間の子(婚外子/非嫡出子)の遺産相続分を、結婚している夫婦の子(婚内子/嫡出子)の相続分の半分とする民法の規定について、憲法の規定する「法の下の平等」に反するとして、違憲とする最高裁の決定が出された。私は法律に関しては門外漢だが、素人目の直感として、この判決には問題があるように思う。ただし、自民党の古くさいロートルたちの言っているような「家庭の一体感の喪失」や「家庭崩壊につながる」といった理由からではない。

 今回の決定について、最高裁は「婚外子の出生数」の増加や、「家族の形態の多様化」を指摘し、民法の規定が時代の変化に即していないと判断したようだ。実際に、欧米諸国で婚外子と婚内子の相続分に格差を設けている国はなく、国連からも是正勧告を受けているとされる。

 しかし、欧米諸国で婚外子が増えているのは、入籍をしない事実婚の形態の家族が増加しているからで、今回の裁判のケースのような、結婚して子供もある男性が不倫をしてさらに婚外子をもうけるというものではない。婚外子と婚内子で差があってはいけないというのは、事実婚の夫婦の子供と入籍した夫婦の子供との間の格差という意味であると思われる。家族の形態の多様化というのも、まさに事実婚か法律婚かという意味であって、1人の男性(ないし女性)がもつ家庭の数が1つか複数かという意味では決してないはずだ。そもそも、不倫に関しては、法律だけでなくキリスト教という宗教理念上の縛りももつヨーロッパの方が厳格なはずなので、今回の裁判のようなケースが、家族の多様化した一形態として容認されているとは考えにくい。

 すなわち、問題の一番の根本は、事実婚の夫婦から生まれた婚外子と法律婚の夫婦から生まれた婚内子の格差問題を、婚内子をもつ男性(ないし女性)が配偶者以外の異性との間に婚外子を設けた場合(要は不倫)の両者の立場の区別の問題とごちゃまぜにしてしまっている点にあると思われる。今回の決定に携わった最高裁の裁判官たちは、自分たちが開明的な判断を下したと考えているのだろうが、その判断の拠って立つ前提が、そもそもズレているのだ。ここでは、以後混乱を避けるため、夫婦関係にある男女(事実婚・法律婚を問わず)の間に子がありながら、いわゆる不倫関係をもった異性との間にも子をもうけた今回の裁判のような場合の、前者の子を「嫡子」、後者の子を「庶子」と呼ぶことにする。不倫関係にない事実婚の夫婦の子供も「婚外子」となってしまうこととの混同を避けるためであって、他意はない。

 感覚的に考えてみても、自分の親が亡くなったときに、突然故人の婚外子(庶子)なる人物が現れて遺産は平等に分けてちょうだいなどと言われたら、遺産の額に関係なくとても容認できるものではない。親の面倒をみたわけでもなく、家庭を続けることだって、息をするのと同じというわけにはいかない。「家庭」を維持するための努力という点で明らかに差のでる嫡子と庶子で、受け取る対価たる遺産の額が同じというのは、それこそ不公平というものだ。

制度的な面に戻ると、今回の決定によって危惧されるのは、結婚制度の形骸化である。もっと極端に考えると、これは一夫一婦制の否定ではないかとさえ感じられる。嫡子と庶子の間に区別をもうけないとすることは、1人の男性(ないし女性)が、複数の異性との間に複数の家庭をもったとしても、それは全て平等に認められますよ、ということになる。つまり、事実上の一夫多妻制(および一妻多夫制)の容認につながるといえる。

 また、婚姻によって正統を主張できた配偶者の側にとっても、結婚するメリットは相対的に低下せざるを得ない。結婚することによって、新たな「家庭」を築くこととなった夫婦には、社会的にも制度的にもさまざまな努力が要求される。夫であれば夫として、妻であれば妻として、こなさなければならないイベントが多々あり、それは配偶者が亡くなった時にもついて回る。しかし、そのような努力の必要のない不倫相手との間の庶子と、嫡子との間で遺産相続額に差がないとすれば、いったい何のための結婚なのか。結婚の価値に疑問が生じてしまう。

 誤解のないようにことわっておかなければならないが、私は婚内子と婚外子の間で「差別」をするべきだなどとは、断じて言っていない。とりわけ、受けられる制度などの面で、差が出てはいけないと考えている。しかし、遺産の分配に関しては、きちんと嫡子と庶子の間に区別をもうけなければ、「結婚」という制度を維持した者と破ったものとの間のけじめがつかない。

 今回の裁判で、原告の庶子の方は「出自を選べない子供に何の責任があるのか」とコメントされている。私も、生まれてきた子供には何の「罪」もないと思う。しかし、残念ながら両親には「罪」がある。理由はどうあれ、両親はそれなりの覚悟をもって庶子をもうけるに至ったのだろうから、嫡子と同じようには遺産をあげられないという「罰」を受けるべきなのだ。

 親の方も、もし本当に嫡子と庶子を同等に扱いたいと思っているのなら、元気なうちから遺言をしたためておくなり、あらかじめしっかり生前分与しておけばよいのだ。庶子をもうけていながら、自分の死後のゴタゴタが予測できなかったとするなら、もっとも責任が重いのは庶子の親だろう。

 今回の決定を受けて、国会ではにわかに民法改正の動きが出ているという。前述のとおり、私は法律婚における婚内子と事実婚における婚外子との間の格差は撤廃されるべきだと考えている。しかし、「嫡子」と「庶子」の間の区別は、きっちりと付けられるべきである。すなわち、民法で改められなければならないのは、「婚外子」と「婚内子」の定義のやり直しであり、一番手っ取り早いのは、事実婚の夫婦の子を「婚外子」から分離して「婚内子」と同等に扱うよう規定することであろう。

 抽象的かつ古典的な「家庭」しか想像できない自民党の老人たちに、そのような柔軟な発想ができるかといえば、残念なことに非常に難しいといわざるを得ないが。