塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

池袋暴走事故で疑問に思ったこと

2019年04月27日 | 社会考
 
今月19日に発生した池袋の暴走事故。87歳の老人の運転する車が幼児とその母親の命を奪うという痛ましい惨劇は、日本中に大きな衝撃を与えました。ただでさえ高齢ドライバーが社会問題となっているなか、加害者の社会的地位の高さや事故前後の行動の不自然さなども相まって、大きな議論を呼んでいます。

事故直後、加害者の男性は息子に電話をし、「アクセルが戻らなくて、人をいっぱいひいちゃった」と話したということです。この発言について、世間ではとくに指摘されていないようなのですが、私には「アクセルが戻らない」の意味が分かりません。

「ギアが戻らない」なら分かります。「ブレーキが戻らない」も、おそらくブレーキがきかなくなったという意味だろうと察せられます。ですが、「アクセルが戻らない」とはどういうことなのでしょうか?もし私以外の世間の皆様には周知のことだとしたら済みません。

言葉だけを解釈すれば、アクセルペダルが踏まれた状態のまま上がらなくなったということでしょうか。ですが、現場は赤信号でしたので、ドライバーが足を置いていなければならないのは、アクセルではなくブレーキペダルです。ペダルが戻ると戻らないとにかかわらず、アクセルに足を置いていることは、正常な運転をしている限りあり得ません。

となると、加害男性が正常に運転できる状態であれば「アクセルが戻らない」というのは意味不明の発言ということになりますし、もし本当にアクセルペダルが戻らなかったのであれば、それを確認していた時点で異常な運転をしていたということになるのではないでしょうか。

少なくとも各種報道を見ている限りでは、この「アクセルが戻らない」発言はスルーされているように思われ、私にはいささか疑問です。もしくは疑問に感じる私の方が間違っているのか、どなたかご意見いただければと思う次第です。
 



医学部入試操作問題雑感②:客観性のない二次試験というそもそもの問題

2018年10月28日 | 社会考
 
前回の記事では、入試の二次試験における点数操作を一律に不当とすることについては、留保が必要ではないかと論じた。リスクとコストを理由に女性排除を目論んでいた東京医科大学と、理論上有利な浪人生に対して現役生に下駄をはかせていた昭和大学医学部とを、同列に論じるのは妥当ではないだろうというのが私の意見だ。

他方で、一連の医学部入試不正のポイントは、一次試験ではなく二次試験で操作が行われているという点にある。一次試験で点数操作が行われていたのなら言語道断だ。しかし二次試験となると、状況は大きく変わる。今回の点数操作と同じことは、この社会で当たり前のように起こっているし、完全に排除することは不可能だろう。

入試では一般的に、一次試験は共通の問題を解かせることで基礎学力を問い、二次試験では面接や小論文、内申書などの調査書類でその他の適性を判断する。一次試験では基本的に答えが1つしかない設問で客観的に点数を比較できるのに対し、二次試験では点数の上下するラインは曖昧だ。共通の採点基準があったとしても、たとえば小論文の良し悪しに点数を付ければ、おそらく採点者によってばらつきが出るだろう。

結局のところ、二次試験というものには常に主観と裁量が入り込む余地がある。同じくらいの力量の現役生と浪人生のどちらを採りたいかと言われれば、普通は前者を選ぶはずだ。わざわざ点数の操作などしなくても、自分が採用したいと思った方に肩入れすれば良いだけのことだ。両大のように二次試験の判定が点数で行われているとなると、一瞬公平性が担保されているように感じられる。だが実際には、二次試験に関しては入れたくない受験生の点数を恣意的に低くつけたとしても、理由は後から何とでもなるのだ。

このことは、とくに入社試験などではより顕著なのではないかと思う。学校受験の一次試験のような客観的に点数の出る筆記試験を、入社試験で行っているところはおそらく多くはないだろう。就活は、企業側が求める人材を選ぶ場なので、必ずしも公平である必要はない。会社のニーズに合うか合わないかで、ある程度自由にふるい落とす権利がある。しかし、たとえ合理的な理由のない選別が行われたとしても、なかなか表沙汰にはなりにくい。

「総合的に判断した結果、残念ながら…」という通知を受け取った経験のある人は少なくないはずだ。この「総合的に判断して」というのは、私がこの世で最も嫌いな言葉の1つだ。一見客観的に公正に判定したかのように聞こえるが、実のところは「主観的に好き勝手決めさせていただきました」と言っているに等しい。「女性は妊娠するし使いづらい」「親が外国の出身だから」「見た目が何となく気に入らない」などというのが本当の理由だったとしても、「総合的に判断して」とさえ言ってしまえば、それ以上の説明が不要な魔法のフレーズのように扱われている。

今回の医学部不正についても、たとえば女性を故意に落としたいなら、最初から小論文の点数を合格ラインより下につけるよう指示すれば良い。女子の合格率が低いと指摘を受けても、「総合的に判断した結果」とか「小論文の完成度が不十分だった」などと言えばそれまでだっただろう。わざわざ点数を一律で上げたり下げたりというまどろっこしい手法を使っているのが、私にはむしろ意外にすら感じた。そこは、表向きは公平でなければならない教育機関特有の理由があったということなのだろう。

ところでここ15年ほどは、推薦入試やAO入試など、筆記試験によらない柔軟な入試が重視される傾向にあるように思う。たしかに一律の筆記試験では、「ふるい落とす」ことはできても「拾い上げる」ことは難しい。〇か×かの問題では測れない、キラリと光る「何か」を見つけ出せるのが、これらの入試法の一番のメリットだ。

ただし、その「何か」を見つけるのは、あくまで審査する側の人間なのだ。医師を経営上のコマと考えているような大学が試験に小論文を取り入れたところで、豚に真珠の選別をさせるようなものだろう。あまつさえこうして、恣意的に入学者を操作するための隠れ蓑にされている。これほど便利な隠れ蓑なのだから、使っているところはほかにいくらでもあるはず、というのが私の直感だ。

一連の入試不正は、決して医学部だけの問題ではない。教育機関の倫理と入試試験のあり方について、全体的な議論が必要だろう。客観性の担保できない試験方法について、「ユニークだ」と不用意にもてはやす風潮については警鐘を鳴らしたい。試験は受ける側だけでなく、課す側の資質やセンスも問われるものだ。

 



医学部入試操作問題雑感①:東京医科大学と昭和大学医学部の入試操作は同列に語れる問題か。

2018年10月21日 | 社会考
 
文部科学省の幹部が息子を不正入試させたという個人の親バカに端を発し、いつしか医学教育全体の問題に発展している。東京医科大学が女子受験者の点数を一律減点し、男子受験者を優遇していたと認め、次いで昭和大学医学部でも、現役と1浪の受験生に加算していた事実が明らかとなった。

どちらも入試二次試験における点数操作という点では同じであるが、私は両者を同列に語ることはできないと考えている。結論から言えば、東京医科大の女子減点は許されるべきではないが、昭和大の方は批判のポイントが違うのではないかと感じている。

まず、東京医科大学の女性一律減点が問題なのは、憲法や教育基本法を持ち出すまでもなかろうと思う。腕力で女性が男性に劣ることや、妊娠・産休のリスクを理由に擁護する意見もあるらしいが、それは女子受験者を「一律」に不利に扱って良い理由にはならない。男性よりたくましい女性もいくらでもいるだろうし、欧米に大きく立ち遅れているとはいえ男性が育休を取る風潮も少しずつ広がっている。そもそも人命を扱う専門職の人間が出産・養育に不寛容というのは、医師としての資質に疑問を抱いてしまう。

また小児科や産婦人科などは、むしろ男性より女性の方が向いているだろう。擁護論に則るなら、両科を希望する男性は女性より一律で不利に扱われなければならないはずだ。

さて、東京医科大の方についてはすでに同様の論調のコメントが多数出回っているので一旦置いておくとして、メインテーマは昭和大の方である。東京医科大と昭和大の操作における最大の相違点は、女子というカテゴリが存在しているか否かにある。浪人生に対する点数操作は、どちらの大学も行っている。では、女性の点数操作はダメで浪人生ならいいのかというと、私はあくまで許容範囲ではあると思っている。

1浪しているということは、1回その大学の試験を実際に体験しているうえに1年余分に勉強する時間があったのだから、現役生に対して「一律」にアドバンテージを有しているはずだ(ここでいう~浪というのは同じ大学を受験した回数だと理解しているのだが、合っているだろうか)。そのぶん「一律」のハンデを要求されたとしても、さほど理不尽なことではないように思うのだ。

ただし、そのハンデの負わせ方についても、東京医科大と昭和大では大きな違いがある。前者では、全員の小論文の点数を0.8倍に減点し、現役〜2浪男子は20点、3浪男子は10点、4浪男子と女子には0点を加点するという仕組みだという。それに対して後者では、現役および1浪の受験生に対して、高等学校調査書の評点に加点をしていたという。小論文や高校調査書の点数評価がどういうものか知らないのだが、仮にどちらにも満点が存在するとする。すると、昭和大では浪人生でも満点なら満点のままだが、東京医科大の場合は100点を満点とすると80点までしか取れない計算となる。

ハンデというものは、一般的には機会の平等を図って課せられる。つまり、ハンデを負っている側もいない側も、トップになるチャンスがどちらにもなければならない。昭和大の方では満点さえ取ればそれが可能だが、東京医科大では全ての現役~2浪男子が75点未満でなければ不可能ということになる。確率は0ではないが、ほぼ0といって良いだろう。したがって、現役生に対するハンデという面でも、東京医科大のやり方は昭和大に比べて不当であると言うことができる。

こうしてそれぞれの操作の内容を比較してみると、同列には論じられない差異があることが分かる。昭和大については、まだ現役生に対するハンデと捉える余地があるのに対し、東京医科大の方は女性と浪人生を明確に排除しようという意図が透けて見える。

このように書くと、昭和大については不問に付しても良いように言っているように思われるかもしれないが、そうではない。点数操作の事実を公表していなかった点については、どちらもやはり問題であろう。大学選択に関する重要な判断材料を提示していなかったのだから、その点では両大学とも同罪といえる。

ただし、東京医科大の女性差別問題は、医学界全体にかかわるイシューとして昭和大の話とは別個に追及されるべきと考えている。他方で昭和大の入試操作については、社会に有形無形の事実としてあまねく存在する「二次試験」というもののデメリットとして捉えられるべきだろうというのが、私の意見だ。この点について、次回に改めて考察したい。

 



レゴランドがなにかと高いといわれる件についての雑感

2017年12月04日 | 社会考
 
名古屋のレゴランドが来年4月にホテルをオープンするというニュースを目にしました。レゴランドって、開園してもう1年以上になるように思っていたんですが、今年の4月に出来たばっかりなんですね。まだ半年ちょいしか経っていないにもかかわらず、開業以来このかた入場料につけパスポートにつけ園内の飲食につけ、何もかもが「高い高い」という話題ばかりのように記憶しています。

私自身は行ったことはありませんし、遊園地が好きではないのでそもそも相場が分からないのですが、これだけ巷間で高い高いといわれている訳ですから、きっと高く感じるに十分な値段設定なのでしょう^^;今度のレゴホテルについても、記事をみると一室3万1000円からということで、やっぱり高いという誹りは免れないような気がします。

なぜこうもいちいちネタになるような値段設定にするのだろうかと考えたところで、私には経営のことについてはさっぱり分かりません。ただ、今年の夏にレゴの故郷デンマークを訪れてみて、ちょっと思ったことがあります。それは、デンマークの人たちは通貨の感覚がズレているのではないかということです。

コペンハーゲンとストックホルムを拠点とするスカンジナビア航空(SAS)でヨーロッパ入りし、コペンハーゲンではドミトリーに3泊したのですが、デンマークの私の印象は「とにかく物価が高い!」の一言に尽きます。SASは、欧州へ直行している飛行機ではもっともリーズナブルでコスパが良いと思っているのですが、一歩デンマーク国内に踏み入れると、すべてが理不尽なほど高い。マックの一番安いセットが千円くらいするし、博物館などの入館料は3千円前後がザラです。ちなみにデンマークはユーロではなく、デンマーク・クローネ(DKK)という独自通貨を使っています。お隣のスウェーデンも物価が高いと聞きますが、首都ストックホルムからは離れたところを訪ねたためか、デンマークほどにはひどく感じませんでした。


とっても美しい街だけど…


で、話を日本に戻すと、レゴランド・ジャパンの代表取締役はどうもデンマーク人のようです。すると、日本の料金をDKKに換算したときに、「なんだ、いうほど高くないじゃん。ウチの国ではこのくらい当たり前だYO!」と感じてしまう可能性は、充分ありうると思うのです。もちろんマーケットリサーチとかはしっかりやっているのでしょうから、机上ではちゃんと計算の上で数字をはじき出しているのでしょう。ですが、やっぱりデフレ☆スパイラルな日本と、高負担高福祉で世界最高水準の北欧型福祉国家とでは、物価の捉え方が根本的に違っているような気がしてなりません。あくまで私がコペンハーゲンで体感したことを直感的に当てはめているだけに過ぎませんが。

ちなみに、デンマークでは外で飲食しようとすると、ビール1杯千円くらいしますが、スーパーだと缶ビールなら100円前後で買えます。彼国で物価が高いのは税金が大きな要因なのでしょうが、それでも現地の人は平気で外食しているわけですから、やはり社会・経済の構造そのものが異なっているのだと思われます。

  



イギリスのダンジネス原子力発電所を訪ねて思ったこと。

2017年06月28日 | 社会考

突然ですが、今2週間ほどイギリスの知人宅にお世話になっています。距離的にはロンドン中心部から東京~鎌倉間くらいなのですが、まさにイギリスと聞いて思い浮かべるような森と丘が周辺に連なるエリアの小さな村にいます。

車でいろいろ連れていってもらえるので、普通の観光旅行ではまず行かないようなところもあちこち訪ねています。そのうち、今回ちょっとここで取り上げたいなと思ったのが、ダンジネス原子力発電所です。ロンドンの南東およそ100km、ドーバーの南西30kmほどの岬の先端に位置するこの原発は、日本では考えにくいことに誰でも間近で眺めることができます。


ダンジネス原子力発電所


さらに驚くことに、ハイスという町からほとんどミニチュアサイズの観光SLが走っていて、終点のダンジネス駅を出れば原発は目の前です。かわいらしい列車と機関車なので、当然小さな子供に人気で、幼子を連れたファミリーの姿も多数見かけました。


人の背丈よりも小さな列車が原発まで通じています


また、駅前には古い灯台があり、入館料を払って燈心台まで登れば、これまた誰でも原発を斜め上から俯瞰することができます。これもおそらく日本では不可能なことでしょう。原発の前には小石で形成された礫浜が伸びていて、発電所を背に海を眺めながらのんびり過ごすカップルの姿などもありました。


灯台の上から眺める原発


こうした人たちを見ていて、また連れてきてもらった彼と話をしていて思ったのが、どうもイギリス人は原発を危険なものとは考えていないようだということです。もちろん危険視している人はそもそも近づくことはないわけですが、こうして子連れの家族までがルンルンとやってくるさまを見ると、どうにも日本との意識の差は感じざるを得ません。


原発前の礫浜


ダンジネス原子力発電所は比較的古い原発で、2基あるうち1基はすでに運転を終了し、残る1基も近々稼働を続けるかどうかの判断がなされるそうです。新たな3基目の建設計画もとりあえず白紙になっているということで、それほどコアな原発とはいえないようです。とはいえ、原発は原発。安全性に対する不安はないのだろうかと訝るところですが、イギリスには地震がないことから、日本のような天災のリスクはあまり考えられていないようです。

と、こうしてダンジネスを「観光」した先に思ったのが、「原発は必要かどうか」ではなく「原発は日本に合っているのか」という視点が必要なのではないかということです。福島の場合、現在に至る結果・経過をもたらしたのは人災でしょうが、直接の契機は天災です。すなわち、日本ではどこでも地震・津波によって危険に晒される可能性があるわけなので、原子力が良い悪い以前に日本という気候風土に適しているのかどうかが議論の焦点になるべきだと思うのです。おそらく、福島を受けて原発停止を訴える日本人と、地震のないドイツが「原発全廃」を唱えるのとでは、立脚している観点が異なっているように感じます。

一番良いのは、安全でかつ原子力並みの安定供給が可能な発電方法が開発されることですが、これはそう簡単にはいかないでしょう。現下のところは、各自がそれぞれ自分の環境および日本の気候風土に合った電力ソースについて考え、そしてそれに基づく供給ルートを選択できるようなシステムを作ることが重要なのではないかと思いました。