塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

敷島のスポーツマンシップを人問わば

2005年11月19日 | 社会考
巷では解禁以来至る街角にボジョレ・ヌーヴォーが山積みに売られています。
普段ワインなんか飲む習慣ないのに、解禁の文句に踊らされて買っても味の違いが分かるんでしょうか。
僕は飲んだことはありませんが、赤ならボルドーが好きだしそれで充分です。

さて今日は、珍しく野球について思ったことがあります。

先日、明治神宮野球大会高校の部で駒大苫小牧高校が初優勝した。
駒大苫小牧といえば、今年史上6校目の夏の甲子園連覇を果たしたことで記憶に新しいが、同時に今期大会での暴力発覚問題でも騒がれている。

これは大会前に野球部部長が部員に暴力を振るっていた事実を校長・教頭らが確認していながら、日本高校野球連盟(以下高野連)などに報告せず隠していたことが大会後に発覚した問題だ。

この問題への対処として、高校側も高野連も大いに問題があると思う。

高野連は重大な事件隠匿に対して優勝取り消しもせず、今後の大会への出場も認めた。これがもし自分が校長などの立場にあったらどう考えるだろう。僕なら、「実際上の処分は何等行われないのなら、何か問題が起こったところで隠し通すに越したことはない」と間違いなく考える。折角連覇優勝した話題性もある強豪校を手放したくはないなどと考えたのであれば、まったく大義と名分を取り違えているのではないか。

高校の対応も僕には甚だ理解しがたい。

高知県の明徳義塾高校は、同じく夏の大会に際して部員の不祥事が発覚し、開会直前にも関わらず出場を辞退した。勿論、明徳義塾の場合は部員の不祥事であり、苦しい戦いの末に優勝した選手の栄誉を奪うのは流石に不憫との意見もあろう。折角温情で手元に残された優勝を捨てろとまでは僕も言うまい。しかし、その栄誉を守る上でも、また全体のけじめをつけるためにもせめて次回大会への出場は辞退すべきだったのではないだろうか。部長の期限付き謹慎と部への警告という処分だけでうやむやに済まされてしまった後では、選手のどんな汗や笑顔もむなしく映るだけである。

今回の大会での優勝も、並々ならぬ努力の賜物ではあったのだろう。しかし、自分たちの身に招いた汚点に背を向け、社会に対する反省もけじめもないまま美点ばかりを掲げようとするなら、僕は彼らが今後どんなに輝かしい功績を残そうとも、いかなる敬賛も送ることは出来ない。


来年の小河ドラマ

2005年11月02日 | 歴史
最近電車の広告で見かける「Gaba マンツーマン英会話」が公序良俗に反しているとしか思えません。。

 さて、今日は歴史の話をしたいと思います。というのも、先日来年と再来年の大河ドラマが「功名が辻」と「山本勘助」と知って愕然としたからです。
 別に元々過去十年大河ドラマが僕を満足させてくれたことはないので、今更期待もしていないのですが、この先二年は輪にかけてつまらないものになるだろうと今から既にげんなりしています。原作者はそれぞれ司馬遼太郎、井上靖と一流の歴史小説家ですが、近年の大河ドラマの傾向から、どのような意図でこれらの作品が選ばれたのか良く分かるので恐らく原作の大要とはおよそ異なるものが出来上がることでしょう。
 山本勘助については「実在が近年やっと確認されたが、軍師などは務めていなかったようだ」というよく知られた見解をここに挙げれば十分と思いますが、「功名が辻」についてはいくらか説明を要すると思うので、以下その主人公山内一豊と妻見性院について述べていきます。
 
 山内一豊とその妻千代(この方が知られているので以下同)の話として広く知られているのは、信長の馬揃えに際して鏡台の裏かなんかに妻が隠しておいた持参金を夫に渡し、最も良い馬を買わせて一躍有名にさせたというものであろう。幕末に山内容堂を生む土佐20万石の礎となった逸話として、千代の賢妻のイメージとともに語り継がれている。
 大河ドラマのプロデューサーは社会党員なのか、しばしばこういった良妻賢母女性にスポットを当てた題材を選びたがる傾向がある。この場合も、仲睦まじい夫婦が順調に出世していく様がだらだらと描かれていくのだろう。女性の権限など極端に制限されていた、資料すらまともに残っていないこの時代を取り上げるのに、そこまでして男女平等を謳うことに何か意味があるのかと常々疑問に思うのだが、そこは敢えて問うまい。
 ここで重要なのはむしろ旦那の方である。先に出した幕末のこともあり、小身から大大名に出世したこともあり、後年評価に尾ひれがつくことは世の常である。しかし、この山内一豊という人物はどうやらお世辞にも人柄に優れているとはいえなかったようである。
 現代に至るまで、仕える相手が二転三転する人物は皮肉を込めて世渡り上手と呼ばれるものだが、この時代の代表人物としては藤堂高虎が良く挙げられる。しかし一豊も実は高虎に負けず劣らず主君を変えている。それ自体は生き残るすべとして間違ってはいないのだが、彼は自分の世渡り出世を鼻にかける節があった点で高虎とは異なっていた。
 とりわけ関が原の戦いでは、友人が「戦になれば家康様に自分の城をお貸しする」と息巻いたのを、先んじて家康や諸大名の前で真っ先に口にし、その功で掛川6万石から一気に土佐20万石に出世した。一豊はその友人に「他人の良いところを自分に取り込むのが出世のツボなのだ」と平気で言ってのけたという。
 普通こういった立身出世を成し遂げた人物には幾つか美談がつくものですが、一豊には全くといって良いほどこの類の逸話がない。唯一ともいえるのは、彼が土佐に入った際に前領主であった長宗我部氏の旧臣が懐かなかったため、特に反抗的な者を誘い集めて討伐した下りである。通常は汚点として残りそうな話だが、彼についてはこれが手柄話として語り継がれている。

 
 僕は「信長の野望」で捕虜なんかにすると、いつもためらうことなく斬り捨てていたほど山内一豊が嫌いなので書き方が偏りすぎているかもしれませんが、大河ドラマの一豊役が上川隆也ということで一体どんな好漢に描かれるんだろうとある意味興味津々です。