塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

いまごろスキー

2014年04月10日 | カテゴリ無し
  
 関東では桜もほぼ終わりましたね。今年も天気が何とも読めず、近所の桜を愛でることはしましたが、花見に遠出することは、結局しませんでした。

 代わりに、というわけではないですが、いまさらながら今シーズン1回だけ行ったスキーの話を。年甲斐もなく夜行バスで行ったのですが、当然ながら周囲は瑞々しい学生ばかり(笑)しかも、我が習性としてマイナーなスキー場を選んだので、早朝から私独り放り出されるという始末でした。

 訪れたのは新潟県と長野県の県境にある妙高高原。といっても、リゾートらしい赤倉温泉や池の平温泉ではなく、杉野沢といういかにもな感じのところです。ここには子供の時に2度ほど来たことがあるのですが、それ以来20年弱ぶりの再訪でした。もともとマイナーなうえに、月日は残酷に流れ、リフトの数は往時の半分くらいになっていました。

 それでも私がここを選んだのは、コースがとても素晴らしいと記憶していたからです。とくにメインのパノラマゲレンデは、長さはあるのはもちろんのこと、幅も200mはあります。他人とぶつかる方が難しいくらいです。コースのはじに張られるネットもないので、日が昇り切らない時分に滑ると、一面の白世界でコースはおろか傾斜すら見失うほどです。

 眺望も素晴らしく、晴れていれば眼前に黒姫山や野尻湖が望めます。百聞は一見にしかずで、そのあたりの写真を何枚か。

 
パノラマゲレンデ(笑)


 
黒姫山を望む


 
同上


 
野尻湖方面の眺望


 突き抜けるような青空…とはなりませんでしたが、気分は爽快そのものでした^^

 3枚目の写真をご覧いただければ、もしかしたらお分かりになるかと思いますが、前の夜にしんしんと雪が降り、ふっかふっかのパウダースノーがほぼ非圧雪の状態でした。登るときに、上の方は圧雪していません!とあらかじめアナウンスされていたので、はじめは「きっぱりとした経費削減宣言だな」と思いましたが、別の理由があることが後ほど分かりました。

 何はともあれと頂上を目指すと、私の目の前には轍ひとつないまっさらな雪の平原が!頂上にたどり着いたのは私が一番乗りというわけではなかったのですが、私の前にいた人たちは別のコースに回ったらしく、このコースにその日最初に足をつけたのが私だったようです。誰かに先を越されては勿体ないと、写真を撮るのも忘れて滑り出すとと、ひざ下まで新雪に埋もれながらも、あまりに軽い雪なので躓いたり足を取られたりすることなく、かといってそれほどスピードも出ず、もそもそと進んでいきます。今までにない新感覚でした。

 途中で一息ついて、ただ一筋だけついた轍を振り返って満足していると、ちらほらと後続がやってきました。やがて、私を颯爽と抜いていった彼らは、みんなスノーボーダーでした。当然ですが、新雪の上ではボードの方が圧倒的に有利です。そして、下まで降りでもう一度あの感触をと思い、リフトでまた頂上まで登ると、なんとすでにコースは適度に圧雪された状態になっていました。

 そうです!もはやわざわざ重機で時間と経費をかけて圧雪する必要はなく、ボーダーがひと通り滑ってしまえば、スキーヤーも納得の最高のゲレンデができてしまうのです。先のスキー場の「非圧雪」宣言は、単にお金をケチっているのではなく、圧雪にかかる手間も時間も節約でき、かつボーダーにはパラダイスを提供できて一石三鳥というわけだったのです。スノーボードが流行り始めてから20年以上、初めて実感としてボードの存在をありがたいと思いました^^;

 ボードについてもう1つ感じたのが、もはやスキーヤーの天敵であった時代は過去のものになったということです。そもそも全体のプレイ人口自体が減っているというのもありますが、今のボーダーはみんな上手です。流行り始めの頃は、誰もかれもゲレンデのあちこちに座り込んで動かないので、やれ馬糞だ芋の煮っ転がしだと揶揄されたり、ひどいときには最初に教わるべき転び方も知らないのか、キャーキャー喚きながら真横から激突して来たり、それはそれは酷かったように記憶しています。ですが、今回完全にスキーヤーよりボーダーの方が多かったにもかかわらず、どちらがどうと気になることもなく快適に滑ることができました。

 これは、単にボーダー全体のレヴェルが上がったということだけではないように思います。ボードが「流行」として爆発的に広がったとき、多くの若者は「カッコいいから・モテたいから」という一心で手を出していたはずです。ところが、努力をするには動機が弱いですし、ちょうど骨が固まった年頃で新たな動きのスポーツを始めるわけですから、そう簡単に上達するはずもなく、ただただスキーヤーに邪魔者扱いされる結果になっていました。

 あれから20年以上。今のゲレンデを闊歩する若者プレイヤーは、ほとんど全員物心ついたころには、すでにスキーもボードもどちらも好きに始められる状態にあったはずです。すなわち、カッコいいとかモテそうとかではなく、純粋に面白そうな方を選ぶことが(あるいは両方やってみることが)でき、まだ体も形成期で何でも新しくやれる時期に覚えた世代ということになります。そう考えると、ボード黎明期に20代だった先輩方と、今の20代の若者たちとでは、根本的に違うように思います。

 いずれにせよ、若者を邪魔だと感じながら縫うように滑るよりも、「若さ」に雪煙を上げながら抜かれている方が、自然ですし気分はずっと良いものです。などと書いていて、早くも来シーズンが楽しみになってきてしまいました。その前に、まもなくはじまるであろう酷暑を乗り切れるかどうかですが^^;

 



小保方氏のSTAP細胞論文騒動雑感

2014年04月04日 | 社会考
  
 わざわざエイプリルフールで平日の中日で、消費増税がスタートして入学式や入社式に湧いている4月1日に、小保方晴子氏のSTAP細胞論文の不正疑惑についての理化学研究所(以下理研)による「最終報告」が出されました。理研も、これで幕引きにできるとは考えてはいないでしょうが、あまりにも不自然な発表の日取り設定に、何か隠したい事実があるのではないかとどうしても邪推してしまいます。

 この騒動については、当初は百家争鳴状態でしたが、疑惑の発覚からだいぶ時間が経ち、論点もいくらかまとまってきたように思います。ですが、理研の会見における記者らの質問を聞いていると、どうもまだポイントがずれているように感じました。
 
 その原因は、理系と文系で論文に求められるものが違うという点にあると思われます。まず文系の論文では、全体としての完成度が重要な意味をもちます。これは、文系(とくに人文科学)のほとんどの分野では、提唱された理論を実験によって実証することができないというところに起因しています。

 たとえば、極端な例ですが、「世界恐慌が起きるメカニズム」というテーマを選んである仮説を立てたとして、その仮説が正しいかどうか、実際に実験してみることは不可能です。これは経済学や政治学に限らず、社会学や経営学、法学など、個人や小規模集団の枠を超えなければならい領域すべてについていえることです。

 そこで、文系の論文では、論理的一貫性が保たれているかどうかという点で、説得力の有無が大きく左右されます。すなわち、最初から最後まで首尾一貫していることが、その論文の実証できない分の「正しさ」を担保しているということになります。ただし、この「正しさ」は、その説が論破されない間は、論理的一貫性で劣る他の説よりも「より正しい」というに過ぎません。単純にいえば、キズやツッコミどころの少ない論文ほど、優れた作品ということになります(もちろん内容も重要ですが)。

 文系の学術界において、論文でのコピペ認定は即刻退場を意味します。それは、完成体としての論文そのものに対する知的財産権意識の強さや、完成度の追及をないがしろにする研究者に対する厳しさに由来するのでしょう。もし小保方氏が文系の研究者であれば、すでに学術界の土は二度と踏めない身になっていたでしょう。

 これに対し、理系の場合は、実験データや実際の生成物などの「証拠」をたたきつけることができます。文章が文法的にめちゃくちゃだったり、誤字脱字がひどかったりしたとしても(実際に理系の論文はそのようなものが少なくないと聞きます)、有無をいわさぬ実験成果があれば、論文としては成立します。私自身は理系の論文を書いたことはありませんが、理系の研究者にとっては実験データこそが財産であり、論文はその実験の経緯やデータの解釈を載せる媒体という程度に考えているのではないでしょうか。
 
 メディア関係者の多くは文系の出身でしょうから、このような違いを知らず、小保方論文のコピペ疑惑が持ち上がった途端に、まるでネットの炎上のように責めたてはじめたものと推測されます。ですが、一番の問題は文章や添付画像が捏造されたかではなく、実験成果が捏造であったか否かにあります。小保方論文が出されたときに、STAP細胞とは何ぞやとあちこちきちんと取材していれば、この違いに気付くチャンスはいくらでもあったはずです。小保方氏を「リケジョ」だなんだとオモシロ女性としてしか扱ってこなかったくせに、今回の騒動で急に研究者扱いして非難するメディアの節操のない姿勢には、いつもながら閉口させられます。

 話が少しそれましたが、もちろんコピペが問題ないとはいいません。ただ、小保方論文の場合、コピペされたとされるのは導入部分の記述であったと聞きます。おそらく、実験データに直接の影響はない部分だったものと思われます。先述の通り、文章の合ってる間違ってるは理系の論文にあっては瑣末な問題なので、私としては「コピペなんてけしからん」というよりも、「なんでこんなところでわざわざコピペなんてしたんだろう」という感想を抱きました。どんなにヘタクソでもいいから、自分で適当に文章を書けばいいわけですし。

 もう1つの、作製されたSTAP細胞の写真が小保方氏の過去の論文からの転載と認められた点については、コピペよりも重大な意味を持つと思われます。ただそれも、現段階では「その写真がSTAP細胞ではなかった」という可能性が高いことは指摘できても、「STAP細胞は作成できていなかった」ことは証明できません。この点、小保方氏が「実験成果までが捏造ととられかねない」という不満を表明したことは、(小保方氏がシロかクロかは別として)妥当な反応といえます。

 とはいえ、実験成果を示す重要な証拠品の1つである写真が少なくとも転載であると認められたことは(捏造かどうかは現時点では不明のはず)、実験成果そのものに対する疑念を抱かせるには十分といえます。したがって、今回のSTAP細胞論文が捏造であったか否かは、実験データが本物かどうか、すなわちSTAP細胞が再現できるかどうかの一点にかかっているといえます。

 再現実験の結果が出るには1年ほどかかるということですので、自主的に論文が取り下げられない限り、騒動の決着をみるのは来年ということになります。そして、もしクロということになれば、世間でいわれはじめているように、責任は小保方氏1人だけではなく、最低でもユニットを組んで同じ研究に携わった研究者全員にあるはずです。また、その間に理研の体質改善という問題は、別個に並行して行われなければならないでしょう。