塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

あなたは肉屋体型?魚屋体型?

2007年10月23日 | 徒然
  
 先日新宿にある肉の万世直営のラーメン屋に行ったときのこと。立派な体躯のいかにも肉屋って感じのお兄さんが油罐を提げて入ってきた。
 
 その時ふと思った。この「いかにも肉屋」というイメージはどこから来たのだろう?肉屋といえば何となく脂の乗りのよい巨漢を想像してしまう。逆に魚屋というと、声の通る痩せた職人肌みたいのが頭に浮かぶ。

 この対のイメージは、少なくとも僕の勝手なカテゴライズではないように思う。

 伊丹十三の『スーパーの女』でも、やはり精肉部の主任は太っちょの変節漢で、鮮魚部の方は痩せた頑固一徹親父という配役だった。

 『鋼の錬金術師』に出てくる肉解体業者で殺人鬼のバリー・ザ・チョッパーは、鎧に魂が宿ってるだけの姿の癖にデブで間の抜けた外見だし、『HUNTER×HUNTER』のキメラ・アント編に出てくる給餌係などそのまんま豚だ。

 横山光輝の『三国志』に登場する業の何進も、妹が皇帝のお目にとまるほどの美貌なのに、やはりただの冴えないデブとして描かれている。

 こうして少し考えてみると、どうやら魚屋が痩せているイメージというより、肉屋=デブ体型というイメージが突出しているように見える。商店街などをぶらついてみれば分かることだが、実際には別にそういった肉屋体型が存在する訳ではないだろう。逆にヨーロッパに行けば、肉屋だろうが魚屋だろうが町中にメタボどころではない人々があふれている。

 こんなこと考えたところで埒もないが、おそらくは明治維新以降独立した職種としての精肉小売業が成立する過程で新しくこさえられたイメージなのだろう。結論としては、ドラマでもマンガでも「イケメン肉屋」を描いている作品があれば是非お目にかかりたいという程度であろうか。

 全然関係ないけど、下のエロ画像には笑かされてしまいました。気付いて気付かぬ振りをしているのか、NHK・・。


  




国技の品格②:「稽古」の精神

2007年10月18日 | 社会考
   
 しばらく忙しくて、また大分時間が空いてしまいました。一応前回の続きですが、これだけ間が開いたというのに、全く進展がないように思えて警察も行政も何をやっているんだろうという苛立ちでいっぱいです。

 さて今回は、ガラッと趣向を変えて「そもそも稽古とは何か」という点から観念的に考えて見たいと思います。

 この稽古という言葉、字面だけ見ると分かりにくい熟語ですが、その意は古(いにしえ)を稽(かんがえる)ということだそうです。つまり、先人の境地に思いを致し、自分の修養を高めることを指しています。「稽古をつける」といえば、今では単に練習相手になってやる程度に使われるのでしょうが、本来は自分一人では確かめにくいことを、他人の手を借りて行うことを意味するものだと考えられます。いずれにせよ、稽古とは基本的に個人が自己の研鑽のために、自発的に行うものである。

 そう考えると、「稽古」は「道」に近い概念であると思う。そして両者とも、やはり僕は日本独特の思想であると思う。もちろん同じ儒教という規範をもつ中国や朝鮮にも同様の概念はあるだろう。しかし、日本古来の神道思想(たとえばアニミズム)と、儒教思想や禅思想が混ざり合うことで、大陸にはない日本独自の思想体系が生まれたのだと考えている。

 「道」に身をおく者は、決して辿り着くことのない究極、あるいは完全に少しでも近づこうと終わりのない修練を続ける。終着点は、見えることはあっても辿り着くことはない。そのような「道」を求め実践する形の一つとしてあるのが「稽古」なのではないだろうか。

 僕はいま居合道を習っている。居合いというとマンガなどでは剣閃も見えない抜刀術として描かれるが、実際には一言でいえば実践剣術と考えていただきたい。模造刀を使って最も無駄なく迅速に敵を制し、それでいて敵にも刀にも礼を尽くす動きを目指して型を演舞するものだ。居合道の稽古は、まさに本来の意味の「稽古」に近いと思う。何せ模造刀とはいえ実際に人に切りつけるわけにはいかない。自然敵に対している自分を想定しつつ、完全な型を目指して一人葛藤を続ける。

 居合をはじめる動機は様々だが、緊張と集中を求めてだったり刀に惚れ込むあまりだったり、単に運動不足解消だったり刀を振り回してみたいだけだったりする。ただし、僕の見るところやはり後者の目的に留まっている人は、ある程度以上に昇進することはないように思う。

 本来日本では、剣道にしろ柔道にしろそして相撲道にしろ、強いだけでは地位を得ることはできなかった。強さに溺れず、自らを律して常に道の上に身をおく人間こそが敬意の対象であった。単に強いだけなら、実戦に明け暮れるそこらのチンピラのほうが強いだろうとは、よく言われる話である。日本の国技が国技たる所以は、まさにこの点にあるのではないだろうか。

 柔道は、国際化と同時に日本の国技からは脱落した。ワールドワイドの競技として、普遍性と分かりやすさを求められるまま、見分けが付きやすいよう柔道着を二色に分け、ポイント制にし、国際柔道連盟から完全に日本人が消えた。柔道ははやヨーロッパ色に染め替えられつつある。僕の知り合いによれば、剣道も骨抜きにされつつあるという。一度国際化が進むと、自己の研鑽云々よりも白黒はっきり付けることの方が重要となる。自然日本の独自色は薄めていかなくてはならなくなる。

 相撲道の堕落は、前回の記事の通り上記の問題とは全く別物である。むしろ相撲は閉鎖的に過ぎたのが問題であり、柔道や剣道は無思慮にオープンにしたことで世界に呑まれてしまったのだから、両者は正反対の失敗といえる。しかし問題の根底にあるのは、国技として本当に死守しなければならないものは何なのかを見誤っていたという点で同じなのではないだろうか。それをわきまえていれば、頑なに旧弊ごと殻に閉じこもる必要も、いざ国際化したとて呑まれてしまうこともないはずだ。

 日本の国技とは口にするのは簡単だが、その守るべき一線は何なのか。この機会に今一度考えてみる必要があるだろう。

  



国技の品格:相撲社会の閉鎖性と無教養

2007年10月09日 | 社会考
  
 本当は元時津風親方が逮捕されたら書こうと思っていたのですが、なかなか捕まらないので、協会の解雇を受けて書いてしまうことにしました。

 時津風部屋での事件についての感想としては、稽古と私刑の区別もつかないような人間が指導者を名乗っていることに、ただただ怒りを覚えるばかりです。亡くなった力士と、ご両親の無念は察して余りあります。おそらくは、その死が無駄にされないことを願うよりほかないのではないかと考えると、耐えざる思いに駆られます。

 しかし、相撲協会の反応は、真実を知りたいという遺族の切な思いとは明らかに逆行しているように思われます。政府からも真相の究明、再発の防止を強く求められていながら、その双方とも第三者を交えず、協会の人間だけで話を進めようとしている。そして元親方と兄弟子の証言が食い違っているまま、つまり根本的な部分で真相が明らかになっていないにもかかわらず、元親方の処分だけがさっさと済まされてしまった。

 これでは、事態の沈静化ばかりを気にしてうやむやに終わらせようとしていると非難されても仕方がありません。結局、朝青龍問題のときから何も変わっていない、学んでいないのだろう。とかく近視野的にしか動いていない。

 だが今回は朝青龍の問題とは次元が違う。事は所属力士に対するリンチ死であって、あまつさえ部屋の親方がそれを指示したとされている。協会は「把握していなかった」では済まされない。管理者としてこれ以上ない危機感で望まねばならない事態だ。

 そもそも、何故リンチとしか言いようのない暴力が「稽古」として日常的に行われる環境が出来たのか。これを考えると、システムとして固定化された相撲という世界の問題が浮かび上がってくるように思う。

 一般的に、力士を目指す人は中学卒業と同時に、あるいは遅くとも高校中退ぐらいで部屋の門をくぐる。その後は、もちろん外に出ないというわけではないが、多くの制約を受けながら、相撲という特殊な社会で青年期の身を処すことになる。つまり、非常に閉鎖的な社会で人格形成がされるということである。

 多様性のない閉鎖的な社会、すなわち単一の秩序しかないところで育てば、通常人は自分がされたようにしか後人に接することは出来なくなる。父親と同じ道しか許されなかった古い家父長制社会を引きずったような相撲社会では、自分が親方にされたようにしか弟子に対せない力士が多いと考えてもおかしくはない。つまり、良き悪しきにかかわらず一度習慣として定着すれば、それは「伝統」として連綿と受け継がれてしまう可能性を最初から孕んでいるといえる。
 
 また、力士個人の教養も大きな問題だと思う。協会理事長だろうが名門親方だろうが、頭と心はほとんど中学生程度のまま、ともすれば「体は大人、頭脳は子供」のまま今の地位と財を築いた人たちではないだろうか。野球でさえ、プロとして採用するのは高卒以上である。中卒で社会勉強もしないままの人だけで構成される相撲世界に、一体どれだけの自制を期待できるだろうか。もし中学生の野球チームで先輩がバットで後輩を殴っても、大人が誰も監視していなければ、それが「伝統」として慣習化したところで何ら不思議ではない。

 その好例が、つい先日の武蔵川部屋での一件ではないだろうか。僕はこのニュースを聞いたとき、山分親方の仕置きより何より「30歳にもなってちゃんこ番やってるなんて一体どんな奴だ」というところが気になった。案の定このちゃんこ番の男性は、新入りをいじめては嫌われていたらしい。親方は彼を懲罰したというのが真相のようだ。いじめなどどこでもあるといわれればその通りだが、僕はやはりこの一件も、相撲という社会に閉じこもっていれば何歳になってもおっきな子供でしかないということの証左であるように思う。

 もちろん親方の行為は褒められたものではない。今や暴力で物事を糺すこと自体が、受け入れられる時代ではない。ただいずれにせよ一連の事件は、相撲社会全体の自制と監視が行き届いていれば、そもそも起こることはなかった。

 僕は教養と礼節は不可分だと思っています。教養ある人物が礼儀、作法や心構えを絶えず指導していかない限り、国技だ何だと騒いだところで崇高な精神など浸透するはずがない。あるいは力士自身に高度な教育が施されていなければ、それを理解することはできない。

 伝統を守ることと閉鎖的であることは、全く別である。むしろ閉じこもっていなければ守れない伝統など単なる悪習だと思っています。相撲協会の改革について、既に方々から様々な要望と意見が出されていますが、まずは相撲社会全体をオープンにし各力士への高等教育の道を開くことが肝要ではないかと考えます。