前々回、安倍閣僚らに対する野党の不毛な攻撃よりも、安倍首相の対応がむしろ問題であり、この点は次回にまわすと書いた。
問題の1つは、安倍氏自身の人事手腕にある。一連の閣僚問題について、総理は早期に辞任させるか断固守り通すかのどちらかを速やかに決断しなければならなかった。私としては後者を、世間的には前者を望んでいただろう。どちらが正しいとは言えないが、どちらもが有効な選択肢である。
しかし総理は、いたずらに明言を避け続けた。これはこと大衆政治においては下の下策である。あまつさえ、柳沢氏の場合のように地方選挙の結果次第で判断するなど、下策どころか無策としか言いようがない。
熱いもの、苦いもの、難しいものは喉元を過ぎてしまえばすぐに忘れられるものである。現に同じ閣僚問題でも、即座に辞任した佐田氏の場合は、マスコミにもほとんど取り上げられず世間も最早忘れてしまっている。政治資金問題という、柳沢氏や本間氏よりもはるかに重要な問題であったにもかかわらず、である。
もう1つの問題点は、小泉政権の負の遺産といえるのだが、安倍氏と同様小泉政権下で名を上げた人たちが、大きな顔をしすぎていることである。
小泉前首相は、人の扱いが病的に上手い人だった。目をつけた人物に自分が選んだ台詞と衣装を与え、注目される場面々々に立たせて、小泉劇場の名俳優に仕立て上げた。安倍首相もその一例で、小泉政権下で外交における対中朝韓強硬姿勢の旗頭を演じていた。しかし安倍氏は、首相に就任してすぐに外交方針を自身の軌道に修正し、アジア諸国との対話路線を明確にした。武部氏のような、毒にも薬にもなりそうにない人でさえ、対対抗勢力の切り込み隊長のような役にありついていた。
他方で田中真紀子元外相の更迭のように、自分の劇団の不安分子と見るや否や、小泉前首相は世間に先んじてさっさと切り捨てに転じた。彼がそこいらのポピュリストと異なる点は、世間の顔色を伺うのではなく、世間に息つく暇も与えず自分の劇に目を惹きつけ続ける能力にあったのだと思う。
そしてポスト小泉の現在、安倍総理が人事に指導力を発揮できていないことも相乗してか、小泉時代の劇団員たちが思うさま勝手に振舞っているようにみえる。中川氏の閣議についての発言に「学級崩壊だ」と茶々を入れる議員がいたが、私はむしろ幕末の無秩序のようなもっと深刻な事態に陥りかねないのではないかと心配している。
背景には、小泉政権でそれぞれマスコットの役を与えられた人たちにとって、自分の姿が分相応以上に大きく見えてしまっていることがあるのだろう。たとえば、武部氏が一年生議員を集めて作った新会派の意義も、森氏の側近だったはずの中川幹事長が改革派の旗頭のように大きな顔をしている理由も、私には全く不可解である。中川氏に至っては、造反議員の復党問題を不毛なダダをこねて先延ばしにしたり、閣議前の控え室での私語などというどうでもいい話をネタとして野党やマスコミに振りまいたりして、支持率を続落させている張本人ではないだろうか。
小泉前首相と安倍首相を見比べると、三国志の劉備玄徳と諸葛孔明の関係に似ているように思われる。一般的な聖人君主のイメージではなく、実際には仁義あふれる兄貴肌で人を見抜く目に優れていた劉備と、最近の研究では政治や戦略には優れていたが、実戦と人物眼には不得手であったといわれている諸葛亮。この2人ががっちり組んだことで、劉備軍は一国を建てるまでに成長した。しかし、劉備亡き後の蜀は人材が枯渇するようになり、その末路は知られている通りである。
結局、上記の2つの問題点に共通するキーワードは「人事」、すなわち人の扱いである。小泉政権下で自分がとても大きな存在に見えてしまっている人たちをどう抑え、また野党の攻撃をよそにいかに断固たる措置をとるかが、今後の政権運営の課題ではないだろうか。そのためには、人事感覚に優れた助言者を得ることである。最も手っ取り早いのは小泉前首相に師事することかもしれない。