塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

日本三大がっかり名所筆頭「札幌時計台」

2014年06月30日 | 旅行

 突然ですが、「三大がっかり名所」というものを耳にされたことはあるでしょうか。その名の通り、有名だけど訪れてみるとつまらなくてがっかりする名所ベスト3ということですが、「世界三大がっかり」とそれに倣った「日本三大がっかり」があるそうです。

 面白いのは、どちらもトップ2は不動ながら、最後の3つ目についてはいくつか候補があって決まっていないようです。「世界三大がっかり名所」の場合は、シンガポールのマーライオンとコペンハーゲンの人魚姫像が固定で、あとはブリュッセルの小便小僧やシドニーのオペラハウス、ドイツ・ライン渓谷のローレライの岩などが入るそうです。「日本三大」の場合は、札幌の時計台と高知のはりまや橋が不動のツートップで、3つ目には沖縄の守礼門、長崎のオランダ坂に京都タワーなどの説があるそうです。

 先月の道南旅行で札幌に行き、高知も人生で2度訪れたことがあるので、3つ目を自分が見たなかから勝手に選定させてもらえるならば、これで日本三大がっかり名所を制覇したことになるようです。で、達成したうえでの感想なのですが、札幌時計台をがっかり名所の筆頭に入れることには、個人的に違和感を覚えました。どれくらいがっかりするのだろうと期待して行ったのに、思ったよりがっかりしなくてがっかり、といった感じでした^^;

 札幌時計台は札幌市街の中心部にあり、周囲は高層ビルに囲まれているため、確かに今現在の風景のなかにあってはかなりこじんまりとして見えるかもしれません。前評判でも、あまりの小ささにびっくりするよ!と散々教え込まれていたので、身長170cm未満の私が天井に頭をぶつけてしまうくらいなのかとすら思っていたのですが、全然そんなことはありませんでした。
 
 

 時計台というくらいですから、二階家の上に突き出ている時計塔がシンボルなわけですが、今も時を刻み続けている時計そのものが、何といっても個人的に興味深く感じました。この時計は振り子式の自動打刻なのですが、動力は150㎏ものおもりをぶら下げて引っ張る力のみです。4日に1度おもりを上まで巻き上げなければならないそうですが、それ以外は全自動です。毎時、付属の鐘が時刻の数だけ鳴るですが、これもおもりの動力のみで自動で撞かれます。時計が針を進める仕組みは館内に展示されているミニチュア版模型で理解できたのですが、連動して鐘が時刻の分だけ撞かれるという方の仕組みは、館内のビデオを2、3度見直しても複雑すぎて分かりませんでした。

 時計台が建設されたのは明治十一年(1878)、当初は札幌農学校の演武場でした。当然ながら、当時北海道はまだ開拓の始まったばかりで、幕末時代にすでに和人が入植しはじめていた札幌は、その拠点となりました。館内には明治年間と思われる札幌のようすを写した写真が展示されていましたが、拠点とはいっても、荒野に人家が身を寄せ合って何とか生活しているといった感じに見受けられました。とても、暮らしに何の不自由もない今の大都会札幌とは似ても似つきません。もちろん、家屋のほとんどが粗末な平屋建てですが、そのなかに1つだけ突出した建物として目立っていたのが、今の札幌時計台である札幌農学校演舞場でした。つまり、今でこそ高層ビル群のなかに取り残されたみすぼらしい木造建築かもしれませんが、開拓時代の札幌においては唯一の高層建築だったのだろうと拝察されます。

 したがって、札幌時計台はいわば北海道開拓の生き証人であり、現在の札幌の繁栄の礎であり、日本の近代発展の語り部であると言えると、私は思うのです。これをちっこくてがっかりだなどと嗤う人は、今からでも北海道の未開拓地で『北の国から』のような生活をしてみれば良いと思います。また、これががっかり名所の筆頭だというのであれば、次席に富岡製糸場を新たに加えなければならないでしょう。

 他方で、高知のはりまや橋ががっかり名所のトップに来るというのは、まったくもって妥当だと思っています。はりまや橋と札幌時計台で決定的に違うのは、後者はモノが残っているのに対し、前者は残っていないという点です。私が初めて高知を訪れたのは20年前の家族旅行でした。当時の私はよさこい節の唄の意味もろくに分からない小学生でしたが、「はりまや橋」というのに橋もなければ下を流れているはずの川すらなく、大通りの車道脇になぜか赤い欄干だけがある様を目にして、「なんじゃこりゃ」と思ったのはしっかり覚えています。

 5年ほど前、再度高知旅行に出かけましたが、その時には新たにはりまや橋が「建造」されていました。わざわざ埋めた川の跡に人工水路を通し、車道の脇にそれっぽい朱塗りの小橋を架け、「がっかり名所」の名をほしいままにしていた車道脇の欄干は、地下歓楽街(おそらく人工水路と一緒に建設された?)にひっそりと遷されていました。

 

 まぁ、「日本三大がっかり名所」とはいっても、アンケートをとったわけでもなければ、どこかの団体が認定した訳でもありません。私のなかのランキングとは大いに異なっていたとしても、どちらも感想の1つにすぎません。個人的には、同じ札幌でも、時計台よりはむしろ羊ヶ丘展望台のクラーク像の方が、お金と時間をかけて行ったわりには「ふ~ん…」といった感じでした^^;

 
おまけのクラーク像


 



ワールドカップ:ドイツの応援歌いろいろ

2014年06月26日 | 徒然
  
 湧きに湧いていたワールドカップ2014ですが、日本は残念ながら0勝で予選リーグ敗退という結果になりました。決勝トーナメントに進めていれば、最低でもあと1週間は特需が期待できたでしょうから、テレビ業界や飲食店などでは別な意味でショックもひとしおといったところでしょう。

 私がドイツ語を教わっているドイツ人の先生とも、このところはワールドカップの話題が筆頭・大部分を占めています。サッカーについてはまったく門外漢の私は、毎回先生の勢いに付いていくのがやっとです(笑)。そのなかで、個人的に面白いと思ったのが、ドイツ人のドイツ人によるドイツのためのドイツチーム応援歌です。といっても、その数は日本のように公式ソングに選ばれて1つ2つというものではなく、いろいろな人がめいめい作って発表する勝手連的なもので、わんさかとあります。

 その多くがYou Tubeにもアップされているようで、しかもどれもオフィシャルなPVのようです。普通ならすぐに差し止めがかかりそうですが、ワールドカップに際してはむしろ積極的に各人が出し合っている感があります。You Tubeに上がったまま削除されていない以上ここにリンクを貼っても問題ないと思うので、以下にいくつかご紹介します。

 Melanie Müller(メラニー・ミュラー)
   "Deutschland schießt ein Tor! "

 Stefan Raab(シュテファン・ラープ)
  "Wir kommen, um ihn zu holen"

 Ois Easy                 
  "Wir Holen Den Pokal"
 
 「優勝杯を獲りに行くぜ!」とか選手名の羅列とか、かなり直な歌詞が売り物っぽくなくて個人的に好感が持てます(笑)。3つとも、iTunesで購入可能なところは確認済みですが、それを惜しげもなくYou Tubeに載せちゃうというあたりが、日本とドイツのワールドカップに対する姿勢の違いなんじゃないかな、とふと感じました。

 日本でこんな応援歌を作ろうものなら、どこかのテレビ局や番組が公式テーマに祭り上げて、しつこく繰り返し流して売り込もうとするのが常道のように思います。それは、上からの応援の押し付けともいえます。対して、ドイツの場合はこうしていろいろなアーティストや業界人が各々曲を作って披露しあい、お互いに楽しみ合おうとしている感じが見て取れます。もちろん売り物にはするのでしょうが、歌詞やPVの撮り方からみて、売り上げはそこまで重要ではないような気がします。つまり、日本ではすぐに商売に結びつけようとするような人々が、採算度外視でワールドカップを楽しもうという意識を共有していて、それが国全体の一体感を生んでいるように思います。

 日本ではどうも、一般の人々が純粋な気持ちで応援に熱くなる一方、それを利用して金や視聴率や社会的露出を得ようとする人々との間に大きな溝を生じているようにみえます。国が一丸となってチームを応援し、育てようという気風が育たない限り、日本がワールドカップの決勝トーナメント常連の強豪国と肩を並べるなどというのは、難しいのではないかなぁと素人目には考えたりするのです。

 上には挙げませんでしたが、もう1つ面白いと思った曲(?)に、終わった試合をラップで総括するというのがありました。なぜ載せなかったかというと、さすがにラップはあまり聞き取れなかったからです^^;ただ、その最後ではっきりと耳にしたのは、「次戦は木曜日18時!」というフレーズでした。日本では今夜ですね。観られるかどうか、眠気や体調・酒量と相談中です(笑)。

  



北海道新幹線「新函館北斗駅」名称決定雑感:懲りないツギハギ駅名

2014年06月15日 | 社会考
   
 北海道ネタを2本連続で書いていたところ、タイムリーに道南のニュースが入ってきました。函館付近に建設予定の北海道新幹線の新駅の名称が「新函館北斗」駅に決まったというものです。すでに方々で言われていることですが、「新函館」で十分なところなぜ「北斗」の2文字がくっついているのか、余計感がぬぐえません。

 現在の函館駅は、半島状に突き出た函館山の麓にある行き止まり駅であるため、将来的に札幌まで延びる予定の北海道新幹線の駅を作るには不向きです。したがって、函館に近く、在来線ともアクセスできるポイントとしてJR函館本線の渡島大野駅が選ばれました。当然、新幹線利用者にとっては基本的に函館圏の駅ですから、当初から「新函館」駅への改称が企図されていました。ところが、当の渡島大野駅は函館市ではなくお隣の北斗市にあることから、北斗市側から「北斗」の2文字を入れろという要望が出てきたのです。今年の5月に旅行した時にはまだどう決まるかまったく不明だったようで、訪れたお寿司屋さんでどうなることやらとちょうど話題に上ったところでした。

 このような駅名の綱引きは、とくにルートが在来線と大きくずれる可能性の高い新幹線ではよく起こるように思われます。ただ、これまでのところこの問題は、2つの主要都市駅間がかなり離れているために距離的な理由でとりあえず中間駅を建設するという場合に多く見受けられました。たとえば東北新幹線なら、那須塩原駅(宇都宮~新白河駅間)、くりこま高原駅(古川~一関駅間)、水沢江刺駅(一関~北上駅間)、いわて沼宮内駅(盛岡~二戸駅間)、七戸十和田駅(八戸~新青森駅間)がこれに該当するでしょう。

 他方で、今回の新函館北斗駅の場合は、在来線のターミナル駅に新幹線を通すことができず、やむなく在来線とのアクセス用に新駅を建設したパターンです。「新○○駅」と命名されることの多いこのパターンの駅に、別の地名を付加した事例というのはおそらく初めてではないでしょうか。これが吉と出るか悪しき前例となるか、後者となるような気がしてならないのは、私だけではないように思います。

 なかば言わずもがなのような気がしますが、新幹線の駅名におらが町の名を滑り込ませたからといって、好感度や関心が高まるといったプラス効果はほとんど望めないでしょう。知名度はわずかに上がるかもしれませんが、「必死だな~」とか「そんなん言われても、どこそこ?」といった感じで冷めた反応が返ってくるだけでしょうし、むしろ「北斗市」の名前を聞くたびに、(笑)のマークが真っ先に頭に浮かんでしまうようになるかもしれません。名前の刷り込ませに重点を置くあまり、その他のアピールがおろそかになっては、実を捨てて名を取ったに過ぎなくなってしまいます。

 ここで、同じ渡島半島の南西隅っこに、松前町という小さな(といっては失礼かもしれませんが)町があります。旧松前藩の藩府で、藩主の居城松前城には天守も復興されています。この町まで、かつては函館から鉄道が走っていましたが、青函トンネルの開通に伴って廃線となってしまいました。今日では、函館からバスで1時間半ほどかけなければなりません(函館の手前に建設中の新幹線木古内駅からなら、バスで4~50分ほど)。本来なら、新幹線のメインルートに客を取られて寂れるのを待つのみのようなところですが、今でも観光客が多勢訪れています。

 
木古内駅。右奥にチラッと新幹線新駅が…。


 この町のウリは、市街地にある松前温泉と城内に数多く植えられた桜です。私が訪れた時にはピークは過ぎて、八重や葉桜になっていましたが、それでも花見客で大きく賑わっていました。面白いことに、半分くらいはアジア圏からの外国人観光客でした。日本人にも決してメジャーとはいえない松前の名を、外国人が自然に覚えるはずはありません。おそらく、町が積極的に海外にアピールしているのだろうなとは拝察されます。

 
葉桜(残念^^;)と松前城天守


 つまり、重要なのは町そのもののアピールや受け入れ態勢の整備であって、それさえきちんとしていれば、新幹線なんかなくたって、あまつさえ在来線が廃線にされてしまっても、こうして観光地として栄えることは十分に可能だということです。新駅に町名を滑り込ませるために使ってしまったその努力が、私にはとてももったいないように思えてなりません。

 こうしたツギハギ駅名について肯定的にとる方はおそらく少数派だと思うので、否定派の私がここであれこれ書き足すことはそれほどないように思います。ただ最後に、今回の「新函館北斗」駅が、これまでのツギハギ駅名に輪をかけておかしいように感じられるという点について付け加えて、〆させていただきます。

 これまでのツギハギ駅名に盛り込まれた名称は、どれも歴史ある地名や、観光地・景勝地にちなむものでした。ところが、今回の北斗市は2006年に上磯町と大野町が合併してできた新しい市であり、「北斗」という地名はもともと存在しません。北斗市が故郷という人は、最年長でも今年で満8歳です。そのような、馴染みもなければ特定の地域を指すわけでもない市名を滑り込ませることに、何の意味があるのか私には疑問です。また、こちらも馴染みがあるとはいえませんが、山梨県にも同じ読みで一字違いの「北杜市」があります。首都圏周辺の人であれば、「ほくとし」と聞いて思い浮かべる可能性がより高いのは、むしろこちらの「北杜市」なのではないでしょうか(前出の寿司屋の方は逆にこちらの北杜市をもちろんご存じありませんでしたが^^;)。北海道新幹線に先立つ東北新幹線の青森延伸に際して、当初の予定の「七戸」駅に景勝地・観光地である「十和田」を入れて欲しいという主張はまだ納得できますが、できたてほやほやでその土地とは何のゆかりもない新市名を併記してほしいというのは、私にはどうも理解できません。せめて、旧町名の大野や上磯、あるいは北斗市と函館市の間にある「七飯」町を入れる方が、まだ有意義なように思えてなりません。

 さてさて、そんな新函館北斗駅ですが、ともあれこれが函館地域の振興につながってくれればと願ってなりません。函館といえば夜景で有名ですが、最近はめっきり寂れて明かりが減ってしまい、美しさはかつての半分ほどとまでいわれてしまっているそうです。それでも私は、真っ暗な海に挟まれた細長い砂州に光が集う函館の夜景に、個人的には長崎よりも感動しました。これが全盛の頃ならどれほどだろうと、今後の巻き返しに期待するばかりです。

 
おまけの函館夜景


  



江差観光記

2014年06月10日 | 旅行
   
 前回からの引き続きで、もはや不可能となった江差線に乗っての江差の旅です。そもそも江差ってどこ?という方が大多数かと思いますが、北海道は渡島半島の西側、日本海に面した港町です。江戸時代からニシン漁で栄え、「江差の五月は江戸にもない」と謳われるほど活気があったとされています。江差の南の上ノ国(こちらは室町時代にはじまるより古い町です)と合わせて、いわゆる蝦夷地における和人の歴史を物語る町といえます。

 近年では、漁もかつてほどは盛んではなくなり、鉄道が廃線になるくらいですから、人口流出も深刻なようです。代わって、観光に力を入れ始めてはいるようですが、残念ながらまだまだこなれていないように感じられます。江差線の廃線に当たっては、前回の記事の通り鉄道オタクの人たちが大挙してやってはきましたが、彼らのほとんどは、乗るだけ乗って荒らすだけ荒らして、地元にはお金を落とすことなく帰っていきます。いつも思うのですが、彼らは廃線を悲しんでいるのか喜んでいるのか分かりません。悲しんでいるなら、どんどんローカルラインに乗って、乗った先で金を落として地域振興に貢献するべきでしょうし、喜んでいるなら地方にとってはただの不届者です。

 さて、私が江差で得た一番の収穫は、「なぜ江差が港町として発展したのか」ということでした。普通、良港と呼ばれるところは、船が安全に停泊できる場所、すなわち波が穏やかで深い湾地形が好まれます。ですが、マップを開いていただければ分かるとおり、江差は湾地形とはまるで逆の、外海に直接突き出た鼻のようなところにあります。なぜこのような場所が漁港や北前船の貿易港として栄えたのか、私には疑問でした。ですが、実際に訪れていろいろと見て回って、その理由がよく分かりました。

 

 上の写真は、かなり見づらいですが、上ノ国町の夷王山というところから望んだ江差を撮ったものです。江差をはじめ一帯の日本海沿岸はとにかく風が強く、この海に臨んだ夷王山の頂上などは、誇張ではなく立っているのがやっとという感じでした。近くでお話しした地元の方などは、「上ノ国じゃなくて風ノ国なんて呼んでるよ」などとおっしゃていましたが、まったく同感です。私もよく、出身地の仙台について「冬の間は杜の都じゃなくて風の都だよ~」と周囲に吹聴していますが、とてもかないません。

 このように年中風の強い土地柄であるうえに周辺には先に挙げたような良港の条件である深い湾地形が見当たりません。そこで、重要な役割を果たしているのが、上の写真の中央左端にうっすら見える鷗島(かもめじま)です。南北に細長いこの岩の島は、江差の町の目の前にあって、現在は桟橋によって地続きとなっています。この島が、西からの強風を受け止める楯となることで、島の東側は波が穏やかとなり、まるで島の影に隠すように船を停泊させることが可能となっているのです。この奇手ともいえる方法によって、江差はようやく安心して船を停泊させられる港となり、発展することができたということのようです。このことは、下の写真をご覧になれば、納得していただけるのではないでしょうか。

 

 これは鷗島の南端付近を撮ったものですが、右手が外海側、左手が江差側となります。外海側は、風に煽られた高浪が容赦なく押し寄せては白く砕けているのに対し、江差側は格段に穏やかなようすが分かります。また、島の形を見ていただくと、江差側はほぼ直角の崖になっているのに対し、外海側は斜面が緩やかなうえに、波打ち際は千畳敷状の岩礁となっています。これはおそらく、もともとは外海側も江差側と同じく千畳敷の先端付近に直角の崖をもっていたところ、強風と荒波に浸食され、現在のようにガッツリ削られた地形になったものと考えられます。

 鷗島の江差側の波打ち際には、船舶係留のための杭を打ち込んだ穴が残っています。そしてその近くには、瓶子岩(へいしいわ)という、奇岩があります。瓶子とは、徳利を細長くしたような容器のことで、これをひっくり返したような形をしていることから名づけられました。そして、この瓶子岩には、とある老婆が神から瓶子を授かり、その中の水を海に注ぐとニシンの大群が現れ、それを獲ることで江差の人々は苦しい生活から解放されたとする伝説があります。

 
鷗島の係船の杭跡


 
瓶子岩
 

 いうなれば、この老婆は江差発展の基礎を築いた大恩人なわけで、江差の町でもっとも大きい姥神大神宮として今も信仰を集めています。とはいえ、伝説そのものはとても事実とは思えません。そこでふと思ったのは、この瓶子岩が鷗島の係船場のすぐ脇にあることから、姥神伝説とは江差開港の歴史と瓶子岩を絡めてつくられたものなのではないかな、ということです。つまり、ニシン自体は古くから江差沖にうなるほどいたけれども、それを大量に獲ったり輸送したりする船を泊められるような港がなかった。あるとき、老婆かどうかはともかく、鷗島を風除けに使えばいけるんじゃね?と考えた人がいて、これにより江差でニシン漁や貿易ができるようになった。係船場の近くに瓶子のような岩があったので、このいきさつが瓶子と絡んだ伝説となって残ったのではないかな、と。

 鷗島の桟橋には、漁港には似付かない巨大な帆船が1艘停泊しています。戊辰戦争で活躍した旧幕府軍の軍艦開陽丸です。

 

 この開陽丸一隻を有しているだけで、旧幕府軍は海上においては圧倒的に優位だったとさえいわれていますが、ここ江差で座礁・沈没という憂き目をみました。現在のものは平成二年(1990)に復元されたものだそうです。開陽丸がどこで座礁したのか、正確な位置は明らかになっていませんが、錨をおろして停泊しようとしていたとされていることから、鷗島の裏には入れていなかったのではないかと推測されます。江差の風がいかに狂暴であるかを傍証する出来事といえるでしょう。

 さて、ここまで鷗島のことばかり書いてきましたが、では江差の旧市街はというと、旧メインストリートはかなり観光地として整備されています。ただ、前述のとおりまだ観光地としてこなれていない感があり、とくに歴史ある町としての説明の少なさや、全体的な一体感のなさなどが気になりました。一泊してもっとも痛感したのは、夜のお店が全くといってよいほどないことです。せっかくの港町なのだから、ニシンに限らずとも魚介をウリに居酒屋がいくらかあっても良いものなのに、本当にお店がありません。まぁ、観光旅行において私のような人種が多数派だとは思いませんが、夜が寂しすぎるのも残念なので、ぜひとも夜の溜まり場をこさえていただければベターでしょう。ただ、「鰊御殿」といわれた旧家などの観光資源や訪ね歩くにあたってのインフラは十分なので、あとは時間と共に洗練されていくのかな、と期待できます。

 
観光メインストリートの街並み


 個人的には、メインストリートの西端から南に直角に折れた先にある旧道の方が、本当に昔のままの、まさに北海道の古き港町といった感じでより感銘を受けました。こちらにもちらほらとお店があるので、時間があれば歩いてみて損はないかと思います。

 

 江差線がなくなった今日、江差へはバスの旅となります。さっそく、江差だけでなく松前や函館など、渡島半島南部をめぐるバスツアーが企画されているようです。前回の記事でも書きましたが、江差から山中へ入った渓谷部は紅葉が素晴らしいとのことで、秋はひとつおすすめの観光シーズンのようです。海の幸を求めるなら6月以降が良いようで、ひとつ夏から秋にかけての旅行先として、江差も候補に入れてみてはいかがでしょうか。

  



江差線のバラード

2014年06月07日 | 旅行

 もう1ヵ月ほど前の話になってしまうのですが、2014年5月12日を以って廃線となった江差線に乗ってきました。一応細かくいうと、函館と江差を結ぶ江差線のうち、西側約半分ほどの区間にあたる江差駅-木古内駅間が廃止となりました。木古内には、現在北海道新幹線の木古内駅が建設中で、新幹線が開通した後は、函館駅-木古内駅間の在来線は第三セクター化される予定だそうです。

 自分は別に鉄道オタクではなく、列車の一番前に行きたがる男児程度の鉄道好きですが、これを奇貨として北海道旅行をすることにしました。行きは寝台特急北斗星で函館へ、すぐに乗り換えて朝イチの江差線に乗り込みました。すると周囲には、どうやら全く同じ旅程だったらしいオタクの方々が…。

 それはさておき、当たり前のように単線を走る列車は、木古内駅を過ぎると深い深い谷のなかに入っていきます。

 
函館駅にて。


 君が空ゆく風なら~ 僕は地に咲く花になる~
 君の笑顔に揺らされて~ やさしい景色をつくろう~

 ってなわけで、列車は建物のまったく見当たらない新緑の渓谷をひた走ります。途中の風景や駅のようすも写真に収めたかったのですが、窓という窓はオタクの方々に占領され、私のような一般観光客の方がお呼びでないとばかりに肩身の狭い思いを強いられます。

 
すれ違いのための駅:湯ノ岱駅


 さて、そんな人たちをよそに、地元の出身で同級生同士という人生の先輩の乗客に出会いました。その方々によれば、かつては通学の生徒で車内は混雑していたそうですが、最近では1便で2~3人程度しか乗っていなかったとのこと。現在は別の町に住んでいるそうですが、廃線を機に故郷の地を訪ねることにしたのだそうです。それでも、秋の紅葉は素晴らしく、その時は人出もあり、もともとディーゼルでそれほど速くない列車もさらに徐行していたのだそうです。たしかに、線路1本道路1筋の他に何もない渓谷ですから、さぞ満面の紅葉が楽しめることでしょう。しばらくしてその方たちが降りられた駅は、ホームと1本の生活道路の他は、建物1つ見当たらないところでした。

 さてさて、ほとんどの乗客は終点の江差駅まで行くわけですが、私はその1つ手前の上ノ国駅で下車しました。理由は単純、私が追い求める城跡のためです(笑)。上ノ国は、戦国時代には和人の蝦夷進出の重要な橋頭堡でした。

 

 

 上ノ国の城館跡については、いずれこちらのページにアップしますので、ご興味のある方は覗いて頂ければと思います^^;ちなみに、上ノ国駅は北海道最西端の駅だったそうですが、廃線によりその座を木古内駅に譲ることになりそうです。

 で、列車はとうとう終点江差駅に。駅はすでに函館へ向かう便を待つ客でにぎわっており、周辺には俄かに設けられたグッズ売り場が並びます。

 

 多くの鉄道オタクの人たちは、駅で切符を買ったり写真を撮ったりしたのち、用は済んだとばかりに帰りの列車の席を確保すべく早くも列をつくります。どっこい、わざわざせっかくやって来た江差の町。次に来ることがあるかすらわかりませんので、私は宿をとって一泊しました。

 江差の町は、観光慣れはまったくしていないようですが、北海道では比較的古い町であり、いわゆる蝦夷地の歴史を知る上では欠かせないところです。思った以上に知ることの多い町でしたので、回を改めて江差レビューを書こうかなぁと思います。