塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

組曲『矮小惑星』

2006年08月27日 | 徒然
 やや時機を逸した感がありますが、先日冥王星が惑星から外されたそうですね。朝から猫も杓子もこの話題ばかり取り上げて大ニュース扱いしています。
 
 しかし、マスコミかお祭り状態にかき立てるほどの重大事には僕にはどうも見えないのです。



 別に冥王星が惑星でなくなるからといって、消えてなくなる訳でも他の小惑星みたいに名前が記号になる訳でもないのに、マスコミ(特にテレビ報道)はどこか手の届かない彼方へでも行ってしまったかのように扱っています。

 僕の捉え方としては、単に立場が変わっただけで別に降格したとか除け者にされたというようには感じていません。天体を構成する其々の星は、其々が必然の構成要素なのだから恒星が偉いとか、矮小惑星は格下だとかいう差別化した見方自体が問題だと思っています。

 特に盛んに言われていたのは教科書業界が今から刷り直すのに大困惑して云々という話題ですが、これこそ馬鹿馬鹿しさここに極まれりという感じです。これだけ大騒ぎすれば子供だって大抵は冥王星についてのトピックはある程度理解できるだろうし、単に現場がこれこれの経緯で教科書には載っているが今は外されているという旨を説明すればそれで済む問題でしょう。現場の苦労をどれだけ汲んだところで然程の大事が起こったようには見えません。

 とまれ僕としては、冥王星が矮小惑星にというのは、「あ、そーなの」という程度の感慨しか沸きません。むしろ面白いのは、この話は当初アメリカが自分の見つけたUB何とかいう星を惑星にしようと強引に働きかけたのに、逆にアメリカが見つけた唯一の惑星が外れてしまったという、とんだヤブヘビな結果に終わった点ではないかと思っております。

くりはら田園鉄道の旅

2006年08月25日 | 旅行
 お盆ということで仙台の田舎に帰ってました。
 東北の夏は涼しいでしょうとよく言われますが、東北だって暑いものは暑いです。宮城といえば日本酒は勿論ですが、こうも暑くなったせいか鳴子ビールや仙台ビールなど新しい地ビールが次々登場し喉を潤してくれます。

 さて宮城県には県北の栗原市と登米市にまたがってくりはら田園鉄道という第三セクターのローカル電車が走っています。

 元々は細倉鉱山という千百年の歴史を持つ鉛や亜鉛などの一大鉱山と国鉄を結ぶ重要な産業路線でしたが、昭和62年に鉱山が閉鎖されると地元自治体に譲渡され第三セクターとして運営されてきました。しかし経営状態は芳しくなく来年春で廃線となることが決定しました。

 今迄乗ったことはないのですが地元県の廃線ということで一度は乗ってみるべと足を運んでみました。


 このくりはら田園鉄道、合併前の諸町村の中心部をつないでいるので実際はもう少しマシかと思ったのですが成程廃線になるというだけあってとんでもローカルな鉄道です。

 まず駅が全部で16あるのですが、そのうち有人駅はたったの3駅しかありません。終点の両端駅さえともに無人駅です。僕は残り2駅を残して降りたのですが、その14駅に関して僕の見た限り駅前に何らかの商店がある確立0%でした。また線路が古い上にディーゼルなので直線な場所でも寝られないほどガタガタとゆれます。

 そんな”くりでん”(愛称)ですが、勿論傍から見れば非常に風情ある田舎の電車なわけで、見渡す限りの田圃のなかを豆電車が走る姿はとてものどかで見るものの目を和ませます。

 廃線後はバスによる代替輸送ということですが、大抵バスになると運賃コストが上がってしまい余計利用しにくくなるのが常です。コストカットという点ではこれ以上不可能ではないかという域に達している”くりでん”ですが、何とか残せないものかという議論も手遅れながら上がっているようです。なくなると分かって改めて地元の足として、そして原風景の一部としてその大切さが認識される、切ないものです。



 くりでんや 窓いっぱいの 稲穂かな



 写真はこちらにまとめておきます。上の文章と見比べてみてください。
 

日本人の美意識 《5》

2006年08月14日 | カテゴリ無し
序にかえて

 さて四回にわたって前置きもなく文章を連載させてきましたが、いい加減ここでこの一連の目的とするところを明らかにしなければならないでしょう。
 まず何でこんなものを書き始めたかといえば、単に何かまとまった文章を書き続けることの必要性を感じたからに過ぎません。最近はブログ、あるいはそれに順ずるオンラインの平面上での意見や議論がある程度の影響力を持つようになってきました。その様な場での論説では、従前の小説や論文調の長文は好まれなくなり、むしろ端的簡潔であることが求められるようになりました。おそらくこの傾向は時代の流れとともにさらに強まっていくでしょう。その中で、いつ機会を得られるとも分かりませんが、自分としても手頃な関心事を取りあげて慣れておいたほうが良いだろうと思い立った訳です。そんな身勝手な理由で読まされる方はたまらないでしょうから、もちろんその都度何か新しいものを提供できるよう努めるつもりではあります。

 それでは『日本人の美意識』などと銘打って何を問題とするのか。それは単刀直入に申しまして、日本的芸術の底流の再発見です。

 我々は今や急激なグローバル化の時代を迎え、望むならば世界のありとあらゆる文化と即座に触れ合うことが可能になりつつあります。その一方で、文化芸術に限らず情報の大量迅速化や交流障壁の薄弱化のスピードに人々の側の理解が追いつけなくなってきています。大抵の場合は、次々と押し寄せる新しい情報を前に安易な接触と表層的な理解のみで極めて流動的に対処しているように思います。

 今までの連載では、中国と欧州という二つの文明圏を取り上げてきましたが、決して諸地域と日本の比較を以降も続けていこうということではありません。その意図するところは、先述べた理解という点について、日本に最も多大な影響を与えたこの両地域についてすら十分に有しているか怪しいということの確認にあります。中国との関係は非常に古く、日本の歴史の根幹に深く関わっていますが、比較的早い段階で両者は互いに独自の道を辿るようになり、その影響は次第に風化していきました。そして欧州との関係は非常に強い依存を伴っていますが、その接触量に比して150年足らずの浅く短い歴史しか持っていません。

 私はこうした不十分な理解の上に膨大な情報だけが行き交い、表層的なやり取りに終始するに過ぎない現代を、芸術にとっては暗黒時代だと感じています。もちろんこの先グローバル化の流れが停滞するということは最早ないでしょう。

 そこで現代美術が今後取り得る道は、この世界に共有しうるユニバーサルな芸術的底流の存在を信じて異文化間の相互融和を図っていくか、あるいは様々な対比の試みの中で、それぞれの特徴をより顕かにしてゆくことで自らを取り巻く文化を再確認し研磨していくかのどちらかであろうと思います。このうち前者を採るには私は到底経験不足知識不足なので、まずは後者に従い私なりに日本芸術の現代的解釈を試みてみようと考えた次第です。

 この現代的解釈とはグローバルの中の個々という見地に立って、自己に他者を対比させることで自己を確立する作業です。

 とは言っても私の芸術観など高が知れたものですし、そう易々と話がまとまるものでもないので、ひとまずここまで書いたところで一区切りして、今後は今迄通り下らない四方山話の合間に載せていくことになるでしょう。一世人の駄文として軽くお付き合いいただければと願っております。

日本人の美意識 《4》

2006年08月12日 | カテゴリ無し
日本と中国②

 平安後期に始まる日本の独自文化の開鑿は建築、絵画、武芸等々あらゆる方面で漸次的に現れていった。

 たとえば文学では、和音をあらわすためにカタカナついでひらがなが発明され、漢字との混合という今日まで続く文書形態が生まれ、日本人の性向に即した新しい文章表現が可能となった。

 また洛陽に倣って碁盤目状に整備された京都と対を成すように平等院や宇治上神社を中心とした宇治が離宮として建設され、なかんずく鎌倉が新たな政治の中心として建設されるに至って、日本の都市設計は完全に大陸とは異なる方向に進むこととなった。結局今日に至るまで日本の都市設計に包括的な特徴を見出すことは出来ないが、少なくとも大陸様の都城制や西洋のリングを廃していることは間違いない。
 平安期の文化育成の主な担い手は勿論貴族であったが、このころ貴族から派生した武士階級の登場によって日本文化の発展に重要な潮流が生まれることになった。地位や権限において殆ど貴族と同様でありながら、正反対ともいえる生き様や信条を掲げる武士は、新たな文化の思想的実践的擁護者として、以後の国風化の流れの重要な担い手となった。簡単な例としては、大陸文明の色合いが強い梅に代わって、武士の間ではその散り様から西行法師以降桜がもてはやされるようになり、日本の花として定着していった。

 鎌倉開府による新たな為政者としての武士階級の台頭は、一般において宗教思想の面で最も強く影響を与えた。大陸伝来の仏教は、大なり小なり日本の風土に沿うように解釈されなおしていき、鎌倉期にかけて現在に至る主な宗派の原型がほぼ出揃った。とりわけ思想面では無常観に基づく禅宗の解釈が広く受け入れられ、以後茶道や能をはじめ多くの日本芸術の底流を構築していった。武士を中心とする芸術の時代は江戸初期まで続き、明日死ぬことをも是とする彼らの極限的な無常観は他に類を見ない一会の美として大成されていった。

 では大陸文化の影響は国風文化の形成以降途絶えてしまったのだろうか。大抵は国風文化の発達の過程で陰に陽に溶け込んでいったのだろうが、一部は高位の教養としての意味合いで姿をとどめていたのだろうと私は考えている。江戸期において俳諧や和歌が大衆化していく中で、漢詩は文学としてよりも高度な素養としてあり続けた。地方の村落レヴェルでも、その最も教養あるものの地位は多くの場合仏典や漢学に通じる寺の住職であった。また施政の学である朱子学も大陸起源の漢学であり、藤原惺窩や林羅山らによって武家政治の基本理念として再編された。維新後も、大戦前後までは漢詩や漢学の素養はその人の学の指標の一つであった。

 しかし、生活文化や芸術の分野において大陸の影響が風化して久しいことに疑いはあるまい。日本と中国の文化は似て非なるものではなく、非なるが似たところを持つというものに過ぎないまでに長い時間相互に独立して発展してきたのである。

 中近世以降の中国と日本のつながりを「教養としての漢文化」として括ってみたが、大戦後の経済発展と高度大衆化の中で、その要素すら殆ど失われてしまったように思われる。今日では時々思い出したように孫子や孔子などが流行する程度である。「社会」の語源がどこにあるかを知る人は最早稀であろう。