趣味でやっている城跡めぐりのページが、とうとう掲載数800城を越えました。記念すべき800城目が、誰も知らないようなどマイナー城であるというのは、私のマニアとしての密かなこだわりです(笑)。そんな無理やりな導入から、今回は久しぶりに歴史の話題です。
少々古い情報源だが、先月5月6日の宮城県の地方紙河北新報に、米沢市の舘山(たてやま)城の本格的調査が始められるとの記事があった。といっても、舘山城なる城について知っている人などほとんどいないだろう。伊達政宗が一時的に居城として使っていたと考えられている城跡である。
米沢といえば、江戸時代には上杉家の米沢藩があったところだ。しかし、戦国時代には伊達氏の領地であり、伊達政宗も米沢の出身であるということはどのくらい知られているだろうか。米沢城は米沢盆地の南端付近にあるが、舘山城は米沢城からほどない西の山際にある。
当時の米沢城は、城とはいっても屋敷に毛が生えたような程度のもので、とても大きな戦闘に耐えられるようなものではなかった。そこで、有事の際に立て籠もるための戦闘用の城が山際に設けられた。これが舘山城とされる。このように、住むための城と立て籠もるための城が分かれているという例は戦国時代には珍しくなく、たとえば躑躅ヶ崎館を居館としていた武田信玄も、要害城という戦闘用の城をもっていた。
しかし、舘山城にかんしては、単なる控えの城ではなかった可能性が近年取り沙汰されている。近年、発掘調査により、家臣団の屋敷跡や庭園跡と推測される遺構が検出された。もし臨時の戦闘用の城であれば、このような施設は必要のないものである。したがって、舘山城は緊急時用の城ではなく、れっきとした居城だったのではないかという見方が出てきたのだ。
史料の上からは、これまで政宗の父輝宗が隠居城として使っていたことや、天正十九年(1591)に豊臣秀吉に所領移転を命じられた際に取り壊されたことぐらいしか明らかになっていなかった。また、伝承では天正十五年(1587)ごろから政宗による改修工事が始まったとされている。これまでは、こうした事実は周辺との緊張が高まるなかで戦闘用の城の強化を図ったものと捉えられてきたが、前段の見方に立てば、天正十三年(1585)の輝宗の死後に政宗が居城の移転を図って改修工事を始めたものと考えることもできる。
こうして、地元や専門家の間で「本拠地論争」なるものが勃発した。なかには、政宗が生まれたのも、この舘山城だったのではないかとする極端な説まである。この「本拠地論争」を前進させるような発掘結果が、先月から始まった本格調査によって期待されているというわけだ。
ところで、この記事にはひとつ気になる点がある。米沢市教育委員会が、「二つの川に挟まれ、城下を一望できる丘陵に城が立地するという仙台城との酷似点に着眼」し、同文化課のコメントとして「舘山城が仙台城の原型になったことを裏付けたい」とあることだ。さらに、市教委は仙台城の前の政宗の居城である岩出山城についても「共通」点があると指摘している。
これだけ読むと、いかにも政宗が似たり寄ったりなところに住み続けていたように思われる。しかし、以下に挙げる3つの城の周辺地図をご覧いただきたい。
舘山城の位置
岩出山城の位置
仙台城の位置
(3枚とも国土地理院2万5千分の1地図より改変)
どうだろう。これら3つの城の立地が「酷似」しているなどと感じる方がどれほどおられるだろうか。たしかに、3つとも小山の上にあり、麓には川が流れている。だが、こうした点は城のセオリーからいえばまったく珍しいものではない。目と鼻と口がついているという点で人類と鳥類は「酷似」している、などといっているようなものだ。市教委の発言は、あまりにも飛躍しすぎているといわねばなるまい。
このような飛躍や大風呂敷は、実は歴史の話題ではよくあることだ。自分たちの発見を、できるだけ広く歴史上の出来事と結び付けようとする。それがただの名誉欲や顕示欲から来るのか、あるいは最初にできるだけ大風呂敷を広げておいて段々と縮小化・精緻化していくのが史学の常道なのか。それは私には分からないが、いずれにせよ、直感的にもそれは誇大に言いすぎじゃないかと思うようなことを開けっ広げに公言されてしまうと、「興奮しているのは分かりますが、ちょっと落ち着きましょうか」と言いたくなってしまう。史学関連の職業の人たちと世間一般の間にこうしたズレがある状態を、私はどうも憂慮してしまう。
さて、最後に原題に戻って、「本拠地論争」に対する私見を述べて〆としたいと思う。私は、少なくとも輝宗死去までの伊達氏の居城は、現在の米沢城と同じ位置にあったと考えている。現在の米沢城は上杉氏によって築かれたものだが、その下には戦国時代の城跡が眠っていることが発掘調査により明らかになっている。米沢城は、政宗の母義姫の実家最上氏の居城山形城などとそれこそ立地が類似しており、伊達氏が居城とすることに何も不都合はない。
父輝宗の死去後、政宗はそれまで以上に戦いの日々を送ることになる。そのような緊張状態のなかで、有事の際の城であった舘山城を新たな居城として整備しようとしたのではないだろうか。そして、父の死から4年後、政宗は会津の大名蘆名氏を滅ぼし、現在の山形県米沢盆地と福島県の西3分の2、そして宮城県の南部にまで及ぶ最大版図を築きあげた。地図を広げれば、今挙げた地域を治めるには米沢では不便であることが分かるだろう。したがって、蘆名氏を滅ぼした時点で政宗には米沢に居城する理由がなくなることになる。舘山城がそれまで政宗の居城であったとするならば、蘆名氏滅亡と同時にその使命を終えて一地方拠点に格下げとなったものと推測される。すなわち、館山城が伊達氏の居城であったとしても、その期間は長くても天正十三年から十七年(1585~89)までのわずか4年間であろうと考えている。
とまぁ、やや小難しいことを書きましたが、一般的にみれば戦国時代を代表する大名の1人である伊達政宗が若いころどこに住んでいたのかよく分かっていない、というのは意外に思われるのではないでしょうか。その点が、もしかしたら明らかになるかもしれない発掘調査が始まったということで、結果を期待している次第であります。