塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

読書の秋:漫画家による表紙絵の文学小説について

2008年09月25日 | 書評
   
 日も短くまた涼しくなり、スポーツの秋というには天候がすぐれませんが、読書の秋となってきました。私も先日小説など求めて書店に行ったのですが、店頭に並ぶ文庫新刊に気になる本を見つけました。

 人間失格の表紙を『DEATH NOTE』で知られる漫画家の小畑健が描いたことが話題になったのは知っていましたが、こうした漫画家によって表紙が描かれた著名小説がいつの間にやら結構出ていたようなのです。

 キャッチーな絵で呼び込まないと、日本の代表的な小説すら手に取られないというのも悲しい話ですが、より問題に思えたのは、当の表紙絵がどう見ても内容とマッチしていないことです。

 荒木飛呂彦が描いた『伊豆の踊り子』の表紙絵などは、はっきりいってあまりのリアリティーのなさに「逆にありかな」って思わされてしまいますが、小畑健の絵はそれっぽく見えるだけにより問題な気がします。


ここまで来ると内容との関連とかどーでも良くなります。


 たとえば太宰治の『人間失格』。描かれているのは、確かに文中でもそう書かれている、学生服で椅子にかけるイケメンなのですが、この小説のたとえ冒頭部だけでもちゃんと読んでいればこのような表情や様相、姿勢にはならないように思います。



 さらにひどいのは夏目漱石の『こころ』です。いったい何をどう読んだら髑髏が出てくるんだろうと思います。これでは初めて読む読者にあらぬ誤解を与えかねないし、表紙に惹かれて手に取った人は内容との違いにがっかりすること必至です。



 というよりも、小畑健ははっきり言って両方とも全く読んでいないのではないかという疑念が抱かれて仕方ありません。もしくはあらすじや冒頭部だけ流し読みして描いたのではないでしょうか。

 結局のところ、人気漫画家の表紙絵で読者をキャッチするという試みは斬新で価値のあることだと思いますが、肝心の画家が内容を知らないでは話になりません。あるいはこれらの絵にGOサインを出した担当者の責任かもしれませんが、いずれにせよそれほど表紙絵を重要視するのであれば、きちんと内容を反映させた上で実行に移していただきたいものです。

 ちなみに、『こころ』は髑髏などとは一切関係ありませんし、『人間失格』は冷笑を浮かべる夜神月のような学生の話でもありません。どちらも人間の本質を露わに描こうとした純文学であり華やかさとは無縁の小説です。まだ読んだことのない方は是非この秋を利用して読まれることをお勧めします。



事故米問題:長粒種輸入のススメ

2008年09月17日 | 徒然
  
 このところ、自民党総裁選と並んで事故米食用転用問題が連日大きく取りざたされています。事故米とは、日本のコメ農業保護のための高率関税維持と引き換えに毎年外国からの定量の輸入が義務付けられた政府輸入米のうち、残留農薬やカビ毒により食用として利用できないと判断されたものということです。

 この事故米問題については、そもそも輸入しなくていいじゃないか、という感情が世間に漂っているように見受けられます。しかし、自分としては大いに輸入して良いのではないかと考えています。ただし、現在普通の米食用として輸入している日本種と同様の短粒種ではなく、一昔前の米不足騒動でマズイと一躍有名になった長粒種に限って輸入すべし、というのが僕の意見です。

 というのも、最近ここかしこでエスニックカレーの店が増えてきており、僕も時たま行くのですが、エスニックカレーには日本米は全く合わないと思うところが背景にあります。エスニックカレーのソースそのものは日本にない魅力的な味わいだし、日本米は言わずと食べなれた主食なのですが、この両者はどうも相性が悪いと感じます。

 やはり、日本酒にはわさびの利いた刺身が合うように、エスニックのカレーには現地の米が合うものではないでしょうか。エスニックカレーの水っぽい辛さには、あの長粒種の乾いたプツプツという食感がベストコンビネーションのように思えて仕方ありません。

 「コメ」と聞いて主食用かせいぜい煎餅や餅の材料としか考えないのでは、最早時代遅れではないでしょうか。日本米、そして日本食としてのコメの使い方だけが全てではないのです。

 ですので、政府輸入米は能う限り長粒種を輸入し、国内のエスニック料理屋用に卸せばかなりうまくいくのではないかなぁ、という素人勘定が働くのであります。

 



敬老の日に寄せて

2008年09月15日 | 徒然
   
 今日は敬老の日です。先週仙台へ遅い帰郷をしていましたが、仙台の地元紙河北新報に興味深いコラムを見つけました。著者には百歳を越えた母親がいて、かなり矍鑠としているそうですが、ある日通院か介護の際に、看護師に「さあ、立ってみようか。」とか何とか言われたがピクリとも動かない。そこで脇にいた著者が「敬語でお願いできますか。」と助言し、看護師が改めて「立っていただけますか。」と言ったところ著者の母親はすっと立ち上がったということでした。

 著者はそこに、百歳を越えた母の年を重ねた者の気高さを感じたということですが、私は年長者への敬意のあり方について考えさせられました。

 我々はともすると老人を小さいもの・弱いものとして扱いがちです。テレビなどでも、老いて小さくなったおばあちゃんを「かわいい」と表現する様がしばしばみられます(この「かわいい」という言葉にはとても違和感を覚えますが)。また介護などの番組を見ても、まるで友達のような軽い口調で接する場面の方が多いように思います。

 しかし、いかにしわを重ねて骨も曲がり小さな存在となったとしても、年長者は年長者であり、決して追い抜くことはできない敬意の対象であるべきではないかと改めて考えるようになりました。

 たとえば学生の時分、先輩は先輩として後輩から敬意をもって対され、先輩も年長者の威徳をもって後輩に接します。社会に出ても、地位による立場の逆転はあれど基本的には同様の関係にあります。先輩は後輩におごったり便宜を図ったりしますが、これは何も後輩からの見返りを求めての行為ではありません。その後輩がいずれ先輩になったときに、そのまた後輩に同じことをしてやる。こうした年長者から年少者への行為の連鎖・年少者から年長者への敬意の連鎖によって社会は連綿として成り立っているのだと思います。

 とすれば、老人を敬うとは人生の大先輩に対しての敬意であり、決して小さいものを慈しむというような精神に基づくものではありません。また、自分がそう接することによって初めて、将来老いたときに同じように尊敬されうるということになります。

 幼いころは、敬老の日といえばおじいちゃんおばあちゃんに久しぶりに電話をかける日という程度だったのですが、この歳になって自分の将来と今の立場との距離を考え直すような機会になってきたようです。こうしてみると、敬老の日や子供の日といった日本のカレンダーは、祝日がキリスト教に由来しているヨーロッパに対して、極めて儒教的であることを改めて感じさせられます。
   



トラックバックって必要なの?

2008年09月08日 | 徒然
   
 お盆以来また長らく間が開いてしまいました。このところ、月初に2・3本記事をあげてしばらく休載というHUNTER×2よりひどい状態が続いているので、そろそろ月に10本くらいのペースで書きたいなとは思っています。

 そんなどうしようもないブログですが、それでも結構見てくれている人はいるようで、時々コメントやトラックバックをいただきます。

 しかしこのトラックバックという機能、いまだに何のためにあるのか分かりません。初めて受けたときは、狼狽してウィキペディアで意味を調べたほどでした。簡単に言えば、他人のブログに自分のブログの記事を紹介するということなのでしょうが、僕には余りに無礼な機能に思えて仕方ありません。

 ブログごとで違いがあるのかは知りませんが、コメントもあいさつもない完全なアドレスの貼り逃げ機能にしか見えないのです。たとえるなら、自分の町内会の掲示板に夏祭りのお知らせを載せたところ、別の町会が無断で自分とこの夏祭りのチラシを便乗して貼って去っていくようなものです。現実にそんなことされたらかなりの問題でしょう。

 他人のブログに自分のブログの紹介を一方的に載せるのですから、その際には最低でも断りのあいさつとコメントぐらいは礼儀として必要でしょう。そもそもコメント欄に自分のアドレスを載せれば良い話だと思うのですが、今までコメント付きでトラックバックを受けたことは一度しかありませんでした。

 実際、トラックバックにおけるマナーについてはさまざまな意見があるようです。中には、「トラックバックを受けたらトラックバックを仕返すのが礼儀」というものまでありましたが、こんなものは礼儀でもなんでもなく、匿名社会を馴れ合いで生きようとする逃げ手にしか見えません。僕の場合は、無言でトラックバックをされたら決してコメント一つたりとも返しません。それは相手の記事の良し悪しや、知っているかいないかということではなく、あくまで礼儀上の反応です。

 逆に、トラックバックの際にいちいち断りやコメントを入れられると面倒だという意見もあるそうです。しかし、礼儀上の手続きが煩わしいなどと言う人には、不特定多数が見ることのできるオンライン上に文章を公開する資格などないように思います。

 ただ、こうして今なお利用され続けている機能ですから、何かしら便利と思われる要素があるにはあるのでしょう。今後の機能の進化、あるいはそれを使うコミュニティーのマナーの充実に期待します。