塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

駒大苫小牧三度目の不祥事

2006年11月16日 | 社会考
 明日から一週間ほど、中山道を旅してきます。その間の音信はおそらく携帯を除いて不通になると思います。

 さて、駒大苫小牧高校で三度目の不祥事が起きたとのことです。三年生野球部員3人が寮で喫煙していたことが発覚したのだとか。自分は以前当ブログで同校の不祥事について取り上げたことがありましたが、そのときの結論を踏襲して言わせていただければ、「ああ。やっぱりな」という感じです。
 
 何処からか圧力があったのか、三度目というのにマスコミの報道は皆無に等しい状況です。校長はいつもの如く平謝りし、今回は監督の辞任も避けられないだろうとしていますが、自分としては校長の首も監督の首もとうにインフレしてしまっており、むしろ「またその程度で済ませるつもりなの?」と訊きたくなります。
 
 北海道民(東北もおそらくそうだが)の大部分は、甲子園の優勝旗を初めて白河関の向こう側へ持ってきた高校として、同校に対して過度に同情的に反応しているように思われます。そのことが結局のところ現役生に良い方向での影響を与えていない事実が、今回の件で再び明らかになったことを、いい加減野球関係者は勿論のこと周囲の全員が自覚すべきでしょう。何より市民の同情は、校長(或いは学校上層部)をして、名誉や特に現物としての優勝旗を取り上げられることはないという甘え、思い上がりを抱かせてしまいました。
 
 同校そして高野連は、最早三度目であるという事実をとみに重く受け止め、優勝の返上を含めた断固としたけじめをつけなければなりません。さもなくば、昨今の他のスポーツに続き、とうとう高校野球までもが単なるエンターテインメントと成り下がってしまうでしょう。

 最後に、喫煙していた部員に他の部員が「みんなに迷惑がかかるから」と注意を促したといいますが、もし自分が喫煙している側であれば、畢竟こう答えたでしょう。
「別に言うほど迷惑かかってないじゃん。」



石田衣良氏とサイレントマジョリティ

2006年11月04日 | 社会考
≪中国、韓国と仲良くした方がいい?しなくてもいい?今回のこたえは数字のうえでは「しなくていい」派が圧倒的だったけれど、応募しなかった多数のサイレントマジョリティを考慮にいれて決定させてもらいます。中国・韓国とは仲良くしたほうがいい。あたりまえの話だよね。≫
毎日新聞で石田衣良氏

 『サイレントマジョリティを考慮に入れて』、ってこれ最高!!これさえあればあらゆる社会科学に天下御免の印籠を叩きつけることができます。というか、これで日々より精度の高い調査方法を模索する統計学者や、それを用いて分析・研究を進める広い意味でのあらゆる科学者(政治・社会・経済等々)を敵に回しかねないのではないかと心配です。

 サイレントマジョリティについてはあちこちでお祭りになっているようですが、ここではひとまず置いておくとして、僕が注目したいのは、これを発言したのが(一応)文学者であるということです。
 
 金沢大教授で社会思想史を専攻する仲正昌樹氏は、著書でドイツのギュンター・グラス、日本の大江健三郎(ともにノーベル文学賞作家)のように、政治的発言をして大きな影響力を発揮する文学者は多数いるが、それは通常とても「分かりやすく」、「単純」であると述べています。僕もこの意見には非常に共感を覚えます。文学者が政治的発言を行う場合、当然ながら基本的に文学的なロジックでなされるので、政治学の側から見ると右寄りの主張にしろ左寄りにしろ、どこかユートピア的に響くところがあります。

 その原因は、理想が彼岸の彼方にあるというわけではなく、その「方法」が極端に「分かりやすく」「単純」である点にあるのではないかと思います。通常、文学は自己や自分を含める何らかのカテゴリーと対峙することに重きを成します。つまり、人間あるいは人間集団の内面と向かい合う作業を主とするために、このロジックを政治に当て嵌めることで一対一対応のような構図が出来るのだと思います。
 
 逆に僕がやっている政治史(に限らず歴史科学全般)の分野は、どんどん細分化する傾向にあるので、僕としてはそうした研究・主張の蓄積を才能ある人が整理して単純化・定式化してくれることを願っているのですが、どうも文壇やその周辺の人達は最初から単純な図式を追及しているように見えるので、どうしてもユートピア的に映ってしまいます。

 しかし、石田氏の発言はそれ以前に方法論そのものを全く放棄している、つまり最早論じるにも値しないレヴェルに墜ちています。上記の文脈に属する文学者であれば、というよりも常識的に、統計の結果は結果として受け止め、自分の理想と方法に照らした上で分析・解釈し主張を進める、といのが求められる姿といえるでしょう。――おそらくは方法論など考えたこともないために――ロジックもレトリックもばっさり切り落として、自分にとって気持ちの良い主張だけを言い逃げしているという、凡そ論壇に立つものが最も恥ずべき行為をやってのけてしまっているように思います。

 石田衣良氏と言えば、日本の同時代小説を代表する一人であると記憶しています。文筆を生業とする者がこのような論説を公にして悦に入っているとは、日本文壇の堕落を痛感せずにはいられません。この話はもっと思うところがあるのですが、ネタが一発突発的なものだったのでとりあえず走り書き程度に留めます(これが出来るのがブログのいいところ?)。

 因みに、一年以上遡りますが、堀江氏逮捕以前のライブドアの記事に関して石田氏と立花隆氏を批判したITジャーナリスト佐々木俊尚氏のブログをふと思い出したので、参考までに紹介します。


※仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想』光文社新書、2005年