前回は、関ヶ原の戦いでの東軍勝利のキーパーソンとなった小早川秀秋の再評価を試みてみました。実際に戦地を訪れてみると、布陣のみならず地形上でも東軍は不利な状況にあったことが分かるため、家康としては秀秋寝返りの確実性がなければ関ヶ原決戦に持ち込む理由が何もなくなってしまうという疑問が生じたからです。
それでもなお、関ヶ原で両者が決戦を選んだ理由には大きな疑問が残ります。大別すると、
①なぜ関ヶ原を決戦地に選んだか
②なぜ両者とも大垣でのにらみ合いからにわかに短期決戦に転じたのか
の二点にあります。そこで今回は、このうち前者の疑問について考えてみたいと思います。
従来一般的には、家康が大垣の西軍主力を放っておいて石田三成の居城佐和山城(彦根市)を抜き、大坂へ向かうとの情報を流し、実際東山道(今の中山道)を進軍し始めたため、三成は慌てて先回りし関ヶ原に戦陣を張った、といわれています。
しかし、この定説はいくつかの疑問や矛盾を孕んでいるように思われます。
そもそも家康の西進は石田三成の挙兵に対してのものであり、両者とも大坂の豊臣家には他意がないことを前提としています。家康も三成もお互いの排除が目的であり、特に東軍には「三成憎し」の一心で参加している福島正則や加藤清正といった武将もいます。であれば、三成を無視して大坂へ向かうなどという選択肢はそもそも考えづらいように思われます。
また、最も代表的な定説に対する反論としては、もし家康が本当に大坂へ向かったのなら、大津城攻めに当たっていた分隊や西軍の総大将である大坂城の毛利輝元の本隊と挟撃すれば良い訳で、西軍としては万々歳であるはずだ、とするものです。
では西軍は何を恐れて、夜闇にまぎれて南宮山麓の長宗我部軍の篝火だけを頼りに関ヶ原へと進軍を急いだのか。ここからは全くの私見ですが、三成としては小早川秀秋の籠る松尾山が落とされ、更に佐和山城を落とされることを恐れたのではないでしょうか。
小早川秀秋はもともと内応の噂の強かった武将でした。東軍の大軍に松尾山を囲まれれば、そのまま寝返ってしまうことは容易に想像されたはずです。小早川の大軍と松尾山城を手に入れれば、西軍を関ヶ原で足止めしつつ僅か三千の兵で守る佐和山城を落とすことも可能でしょう。
もともと三成は総大将に収まるには家康に比べてはるかに格が不足していた上に、居城の佐和山が落城すれば、西軍の結束に大きなひびが入ると危惧したとしても不思議ではないでしょう。つまり、合理的に考えれば、大坂まで行かずとも三成にとっては東軍の関ヶ原突破は充分脅威であったといえます。
すなわち、関ヶ原は東軍西軍双方にとって当初から決定的な要地であったといえます。この地で野戦決戦が行われたこと自体は、両者ともある程度了解の内であり、おびき出し作戦を思いついた家康と驚いておびき出された三成という、突発的な野戦決戦ではなかったように思われるのです。