塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

東日本大震災:自粛を自粛せよ?

2011年04月22日 | 東日本大震災
  
 日曜の朝早くに起きてテレビをつけたら、局に寄せられた意見を紹介し、真摯に受け止めて今後のコンテンツ作りに生かすという趣旨の番組をやっていました。メールや電話、投書などで寄せられた意見を司会者が紹介し、その局の倫理委員だか何だかが答えるというものです。震災報道を受けた特番かと思ったら、そういうわけでもないようです。なかなか良い番組もやっているんじゃないかと思って見てみたら、これがとんだ期待はずれでした。

 「それはですねぇ」「そうはおっしゃられてもですねぇ」とのらりくらりと逐一反論し、間違っても「検討します」「参考にさせていただきます」とは言いません。しまいには、「どの番組を見るかは視聴者の自由」「番組を選ぶ権利は視聴者にある」と、まるで視聴者の見方が悪いとばかりに指南しだす始末です。テレビ局内部の人間の生の反応だけに、視聴者をどのような目で見ているのか、こちらが大変参考になりました。

 さて、震災直後から続く自粛ムードは今なお多方面に影響を及ぼしています。他方で、自粛はただでさえ不況かつ震災のダブルパンチの状況下で、復興を遅らせるだけだという意見もあります。自粛をするより、むしろガンガン消費し、経済を回す方がよほど被災地の為だという考え方です。こうした「自粛を自粛すべきだ」という考え方の人たちは、何かと自粛を呼びかける人たちを強く批判しています。

 「自粛を自粛すべき」というのは、現実の復興を見据えたもっともな意見だと思います。ただ、だからといって自粛ムードそのものが悪だということもできないでしょう。「自粛の自粛」が経済的な観点からの対応とすれば、自粛ムードは感情的な反応です。どちらも災害に対する態度としてありうべきものであると同時に、両者は出どころの異なる噛み合わない文脈に身を置いた行動といえます。結局のところ、どちらが正しいも間違っているもないはずです。「こんな時だからこそ経済活動を活発にして復興に寄与したい」と思えば営利活動に勤しめば良いわけですし、「しばらくは被災地の人たちと苦しみや悲しみを共有したい」と思えば自粛に傾けば良いでしょう。

 より重要なことは、どちらにせよそれが悩んだ末の結論であるということです。自粛を選ぶにしても、「周りがみんな自粛しているから自分もしておいた方がよさそうだ」といった付和雷同では何の意味もありません。また「自粛の自粛」を選ぶにしても、「俺たちゃ稼いだ金を寄付しているんだから、いつも通り稼いで何が悪い」と短絡的・利己的な理由からでは困ります。いずれに転ぶにせよ、今このような状況にあって自分はどう振る舞えばよいのか考え抜いた先の行動であるからこそ尊いのであって、どちらをとった方が良かったかなどというのは副次的な問題だと思います。私自身は、東北の産品はガンガン購入して支援し、他方で無駄なものは買わないように自粛しようというスタンスで目下のところやっております。

 政府は、過度の自粛は控えるようにとステレオタイプで訴えかけ、どこからが過度かの判断は人任せときています。これは、何も考えずに付和雷同でもっともらしいことを言った気になっている悪い例です。自粛するにせよしないにせよ、自分はどうしたいのかを一度じっくり自問することが、まずは大切だと思います。

 ここからは余談&私見ですが、東北では桜の見ごろを迎えています。首都圏ではお花見自粛のムードが漂い、桜の名所では経済に大きな影響が出たようです。たしかに、満開の明るい桜を楽しみつつ酒に酔いしれるというのは、被災者の心情を想えば不謹慎かもしれません。しかし私は、とりわけ桜を愛でるという行為については、日本特有の別な意味があると考えています。

 梶井基次郎は、小説『桜の樹の下には』で「桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。」と書き始めています。日本では、いつのころからか桜のピンク=死体の血がイメージされることがしばしばあります。平安時代に西行法師が「願はくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ」と詠んだのも、自らの死体が桜に吸われその花となることを望んだからなのかもしれません。

 桜は死体の血を吸い、魂を吸い、美しいピンク色の無数の花となって散る。こう考えれば、満開の桜を愛で慈しむことは被災して死亡した人たちの供養となり、また被災者にとって心の区切りをつける1つの契機となると考えられます。また酒に酔うという行為も、日本の古来的な考え方にしたがえば、それは天地にあまねく存在する八百万の神を、酒を媒体に我が身に降ろすことです。酩酊状態とは、古代的には神が人の身に宿った状態なのです。上野公園で無様に酔いつぶれる花見客のイメージとは異なり、桜の下での酒宴というのは、もともとはこのように霊的神的な意味をもつものといえます。

 だとすれば、お花見祭りはむしろ大々的に行って然るべきものと個人的には考えています。現在は仙台近辺が満開らくし、これから5月に入ればサクラ前線は青森に達し、桜の公園として有名な弘前城址公園が見ごろを迎えることになります。そして、今月25日には東北新幹線が全線復旧します。震災以来苦しい状況が続く中、久方ぶりに悲しみや辛さを一時的に忘れて、犠牲者の魂とともに全国の人々が東北の桜に酔いしれることができればと思っています。
  

おまけ:我が家に咲いたフジザクラ


  



東日本大震災:裸の政府様

2011年04月16日 | 東日本大震災
   
 震災から1か月が過ぎました。徐々に復興に向けた道筋の話題も出てきましたが、なお万を超える不明者がおり、リセットしようにもその出発点にまだ立てない方も多数いらっしゃいます。

 復興に向けた活動や支援が各方面から広がりつつあるのに対し、もっとも動きが鈍いのが政府とマスコミでしょう。とくに、震災発生以来これほど民主党政権・菅内閣であることに不安を覚えたことはありませんでしたが、この不安は的中してしまったといわざるを得ません。

 政府・民主党に対する不満や怒りは、皆さん並べ立てたらきりがないと思いますが、私がもっとも許せないのは「何もしていない」という不作為に対してです。それどころか、菅内閣には今回の震災を政権浮揚や内閣延命に利用しようとしているフシがあります。さらには、そのようなパフォーマンスが覚られずに罷り通ると思っていることに、怒りを禁じ得ません。

 これを最初に感じたのは、菅総理が各方面からの情報を自分の記者会見までストップさせていたと聞いたときです。震災直後は当然情報が交錯し、マグニチュードでさえ2度発表された数値は修正されました。そのような中で、専門家でもその方面に精通しているわけでもない菅総理がお勉強して情報を整理して自分の口で説明できるようになるまで待っていたら、日が暮れてしまうのは明々白々です。誰もが何でもいいから情報が欲しいという状況にあって、誰の口から説明されるかなどは二の次です。むしろ、矢継ぎ早に飛ぶであろう質問には専門家でなければその場で答えられないのですから、緊急の会見は専門家に任せておけば良かったはずです。そこを「発表は自分がやるから、自分が理解するまで情報は出すな」というのは、劇場型演説か何かと勘違いしているのではないかと疑ってしまいます。

 発表と判断はすべて首相およびその下でやるというやり方は、原発問題で如実に弊害となって表れたと思います。福島第一原発の状況が悪化すると、政府は「放射能は問題ないレベル」「周辺産品を摂取しても大丈夫」と片方で言っておきながら、出荷制限をかけたり自主避難を呼びかけ、被災地や首都圏をさんざんに混乱させました。自分の言っていることの矛盾に政府は気づいていないのかと思うと、もはや呆れかえります。この矛盾からわかるのは、菅内閣の人たちが少なくとも放射能に関して平均以下の理解力しかもっていないということです。もし平均並みの理解力と判断力をもっていれば、良し悪しは別として「近寄るな!出荷するな!」か「大丈夫だ!うろたえるな!」かのどちらか一方のスタンスをとるはずです。理解力・判断力ともに欠けていなければ、両方のスタンスで発言をするということは考えられません。

 ではなぜこうなったか。推測ですが、「判断は自分がするから情報だけ寄越せ」と専門家や学者に詰め寄ったのでしょう。学者連中というのは、口は出すが責任は負いたくないという人種が多いように思います。そんな人たちに一蓮托生を求めたって、思い切った献策などしてくれようもありません。「危険なレベルなのか?」「おそらく大丈夫です。」「では規制はかけなくていいのか?」「そりゃあ、かけておくに越したことはないでしょう。」といったやり取りがあったのでしょう。責任は負いたくない学者ののらりくらりとした応答を真に受けて、何も考えずに発表してしまったとするのが真相ではないかと考えています。

 菅総理以下はこれを政治主導と勘違いしているのでしょうが、政治主導は何でも間でも自分で決断することではないということは、以前から指摘されてきたことでした。すべてを1人で判断することは人間の能力を軽く超えています。政治主導とは、政治的方向性を示し、あとはそれに沿って適材適所。専門家や実行部隊をうまく使いこなすことが求められているわけですが、またしても逆にうまく丸め込まれてしまった結果が現下の福島県の悲惨な状況でしょう。

 また、震災後の一連の判断がなべて密室で行われてきたことも、すでに方々で指摘されている通り大問題だったでしょう。先のパフォーマンス会見を指弾されて逆ギレ…かは分かりませんが、国のトップが何をしているか分からないという状況は、国民にいらぬ不安を与えることになります。かといって、突然一民間企業に乗り込んで怒鳴りつけるというのも、非常時にこそ冷静さを求められる立場の人間とは思えない振る舞いです。この場合首相に求められていたのは、緊急性を要する会見は専門家に任せ、自身は粛々と情報収集に努めるなり被災地入りの準備を進めるなりする落ち着いた態度と行動でしょう。

 菅内閣が震災を延命策に利用しているとはっきり指摘できるのは、仙谷由人氏の内閣官房副長官起用と自民党への大連立の打診です。とくに仙谷氏の起用は、菅内閣の旧体制への回帰を狙っているとしか思えない人選です。もちろん、災害緊急時に官邸機能を強化したいというのは理解できます。しかし、あれだけ世論の反発を買い、問責決議案まで可決された人物を持ってくることは、普通に考えればあり得ません。しかも仙谷氏に出された問責決議案の問責理由には、尖閣諸島沖中国漁船衝突事件や韓国延坪島砲撃事件に対する危機管理能力の欠如が挙げられています。危機管理能力に問題ありと国会で議決された人物を震災対応のブレーンとして起用するなど、本気で対策に乗り出す気があるのかを疑いたくなります。震災のどさくさに紛れて、以前のやり易い体制に戻そうという腹が透けて見えるようです。

 大連立に関しては、それ自体は震災対応として有力な方策の1つでしょうし、自民党内でも賛成意見が多いと聞きます。復興のためには、二大政党には協力して政策を進めてほしいとは思いますし、何より民主党だけに任せるのは不安でなりません。ただ、大連立打診の経緯をみるに、どうも菅総理本人は東北・関東の危機打開以上に自身の政権の危機打開のチャンスと考えているように感じられます。それが一番滲み出ているのが「私と責任分担をするのが嫌なのか」と迫ったとされる頼み方と、谷垣総裁が拒否した際に怒ったとされる反応です。もし本当に事態を憂えて申し入れをするのならば、突然の電話一本で、しかも高圧的に迫ることなどありえません。さらに、断られても「国のためにお願いします」と食い下がるのが憂国の為政者の反応ではないでしょうか。それをキレるというのは、何かしら自分の思惑通りに事が進まなかったからであり、「大連立は必要だ」というのとは別の理由があったからとみることができます。なかには、わざと拒否させて「こんな緊急時に協力しないとは何事か」と自民党を非難する材料にしようと考えていたとする見方まであるようです。

 このように、民主党・菅政権には災害時にあって災害対策を第一に考えていない、それどころか政権浮揚のチャンスと考えているようすがあちらこちらに透けて見えています。何より許せない、というより呆れ果ててしまうのは、そんな小手先の奸策や思惑が国民にバレていないと思っている(ように思われる)ところです。政権を浮揚させたいというのなら、慢心を捨ててこの危機に臨むより他ないというのに、牌のすり替えのようなくだらない策を弄することばかりに勤しんでいては、最後の一葉まで自らかなぐり捨てるようなものです。先日、今さら感全開で菅総理が石巻を訪れましたが、総理サイドが集まってくれとお願いしても被災者は総理のもとへは集まらなかったそうです。もはや、分かっていないのは本人のみの裸の王様と化しています。

 さて最後に、だからといって俄かに活き活きとしだした鳩山元首相や小沢元代表に代わってほしいかといえば、それはまたNOです。鳩山氏が小沢氏が菅総理を再び攻撃し始めたようですが、これはこれで震災を機に自身の復権を狙っているわけで、菅総理同様唾棄すべき態度です。事ここに至っては、ある程度事態が落ち着くまでは菅内閣でいってもらうしかありません。その上で、個人的な意見ですが、震災復興担当大臣あるいは復興庁創設などの案が出ているようなので、その長に小沢氏を起用してはいかがかと思います。小沢氏の辣腕は震災という非常時にあっては大いに役立つと思われます。小沢氏にとっても、残りの政治生命を賭すに値する役どころと思いますし、国政時と異なり後ろ指をさされることなく思うさま腕を振るうことができます。国にとっても被災地にとっても、また小沢氏にとっても死に花を咲かせるにはもってこいの妙案だと思うのですが、いかがでしょうか。
  
  



東日本大震災:東電社長はベストを尽くしたのだそうです。

2011年04月14日 | 東日本大震災
  
 東電社長の「ベストを尽くした」連呼会見が取りざたされています。「爆発しておいてベストとは何事か」と怒鳴る記者もいました。被災地住民の気持ちを代弁していると自負しているのでしょうが、落ち着きなさいと言いたいところでした。

いつも通り穿った見解をさせてもらえば、「ベストを尽くした」と発言すること自体には、それほど問題はないと思っています。そもそも「ベスト」とは「最良・最高」、すなわちそれ以上は望めない最上級という意味です。では何にとって最上なのかというと、社会的最上と個人的最上の2種類があると思います。社会的最上とは、その社会における最高の人材・資材を最高のタイミングで用いる最上の策を遂行するということです。ここでいう社会とは、国であったり、地域であったり、会社であったりするわけです。

 ただ、社会的最上というのは、それが本当に最上なのかどうか判断しづらいという面があります。もっと究極的に、禅宗や道教・キリスト教のような宗教的な観点からすれば、そもそも社会的な最上など人の手では成し得ないものということになります。神様でもない限りは、それが社会的最上であったか否かを断ずることはできず、「ベストを尽くした」と言ってさえしまえば人間にはそれ以上追及する術はありません。会見に臨んだ記者たちも、会見を見た視聴者も、この意味でのベストと理解したためにはらわたが煮えくり返りながらも、臍を噛んで見ているより他なかったのでしょう。

 ところが、これが個人的最上を指していると解した場合、話が少し変わってきます。個人的最上とは、その人の能力を総動員するということです。つまり、東電社長がこの意味で「ベストを尽くした」と発言したとすると、「私の能力を総動員した結果が現下の状況です」と白状したことになります。とすれば、今なお社長のイスに座り続けていることが異常といえるほど能力に欠けた人物であると自ら吐露していることにもなります。状況を収束させることが責務とおっしゃっているようですが、収束させる能力などないことも自認なさっていることになります。

 自身に事態を打開する能力がないと分かっていながら社長に留まり続けなければならないとすれば、非常に可哀そうな方ということになります。この上は何とか一刻も早く重責から解放して差し上げて、よりレベルの高い「ベスト」を尽くせる能力をもった人物を起用すべきでしょう。もちろん被災地の為が第一ですが、ご本人の為にも。

  



東日本大震災:統一地方選への影響

2011年04月09日 | 東日本大震災
   
 明後日月曜日で震災から1か月となります。そのちょうど前日、10日日曜日には全国統一地方選の前半戦が行われます。私の住むところでも知事選だ市議選だとあるようです。

 しかしながら、私のところに限らず全国的に選挙ムードが盛り上がっていないように見受けられます。知名度だけなら一流揃いの東京都知事選でさえ、ほとんど報じられたり話題に上ったりしていません。その要因はもちろん震災にあるわけですが、影響の仕方には2つのベクトルがあるように思われます。

 1つは、候補者自身の対応にあります。候補者サイドから見れば、今回の震災は最悪のタイミングであったといえます。公約や事務所、運動員など体制を整え、いざ出陣というところに震災が発生し、有権者の目もマスコミの目もすべてそちらに向いてしまいました。もちろん、被災地では選挙どころではありません。ですが、被災していない地域では日程通り選挙が行われるのですから、有権者も候補者も選挙そっちのけで震災のニュースに噛り付いていて良いかというと、難しいところです。

 候補者自身も、当然想定外かつマニュアルにもない事態ですから、どう反応して良いか実際のところかなり悩んだことでしょう。その結果として、ごくごくたまに見かける統一地方選関連の報道では、どの候補者も「災害に強い安心して暮らせる町(あるいは地方)づくり」を鸚鵡のように繰り返しています。

 候補者としては、街頭で訴えるにはこれ以外にないといったところなのでしょうが、私としてはむしろこのモノトーンこそが選挙を盛り下げている一主要因ではないかと考えています。今回の震災を受けて、誰もが災害についてもっと真剣に考えなければと思ったことでしょう。それは候補者についても然りで、災害に強い町づくりについて考えていない候補者がいるなどとは、誰も思ってはいないでしょう。わざわざ「災害対策を頑張ります」などとは言われなくてもわかっていることです。

 しかも、震災から選挙まで1か月という短期間で長期的かつ具体的な対策がまとまるはずはありません。自然と「頑張ります。目指します。」を繰り返すのみにならざるを得ず、まったく意味のない演説になることになります。これをどの候補者を杓子定規にやるわけですから、盛り上がるはずもありません。災害対策はこの際「争点」にはならないのですから、当初予定していた通りの演説および選挙戦を展開していただかないと、有権者も選びようがありません。

 さて、2点目としてメディア側の問題があります。震災以来、どのマスコミも被災地や原発の話題一辺倒です。震災直後ならいざ知らず、ひと月たった今になっても震災関連以外の報道はほとんど見られません。それでも何か新しい情報を提供してくれるのなら価値もあるのですが、最近では既知の情報の繰り返しになりつつあります。

 マスコミとしては、ひとつのネタを追い続けるだけで番組はできるし視聴率は確保できるしで、おいしいところなのでしょう。ですが、本当に情報の面で社会を牽引しようという気持ちがあるのなら、統一選挙や中東情勢について時間を割く必要があることを認識するはずです。それをしないのは、報道の怠慢といわれても仕方ないでしょう。

 今回の震災で、テレビがますます役に立っていない現状が改めて浮かび上がったように思われます。そして、即時性という面ではネットが、多様性という面ではやはり新聞が一歩優れているように感じました。結局、ほぼ新聞とネットの情報のみで明日の選挙に臨むわけですが、誰を選んでよいかいまだに決めかねています。


おまけ:東京都でもっとも高いところ
にある選挙ポスター掲示板?
御岳山ビジターセンター脇(標高900m弱)


  



東日本大震災:地震直後の回線状況について

2011年04月08日 | 東日本大震災
  
 昨日また震度6という、余震というにはあまりにも大きな地震がありました。私のところは震度3くらいだったようですが、それでも長くゆっくりと続く揺れに、またしても「これはまずい」と直感しました。

 以前も書いたことですが、震災直後の電話回線状況について、とても不愉快に感じていることがあります。それは、テレビ局とどこかの役場なんかが平気で電話のやり取りをしていることです。

 被災地域に家族や知人をもつ人にとって、なにはともあれまずは身体の安否確認です。私も揺れの収まらぬうちから携帯電話と固定電話で仙台の家にかけまくりました。このような時は、一回つながってとにかく身体の無事が確認されれば良い訳で、それさえ済めば他の同様の方々のために回線を逸早く明け渡すつもりでいます。ですが、それでもなかなかつながりません。東北全般で停電が発生したうえ、携帯電話会社がすぐに規制をかけるからです。

 前にも書いた通り、このような時こそ回線は必要とされるのであって、フル稼働して混雑するのならともかく、規制するというのは本末転倒と考えています。混戦してつながらないのなら、皆覚悟の上です。数十回かけて1回つながればいいくらいに考えていますから。

 そして、そんな緊急時にも、テレビ局は普通にどっかの役場との電話回線をつなげています。これは私にはとても不思議かつ不愉快に感じられます。話すことといえば「どんな揺れでしたか」「すごかったですよ」以上の情報はさしてないわけで、そんなことは分かりきっています。必要性もなく、後日回線が落ち着いてから報道すればいいことです。そんな回線があるのなら、安否確認のために緊急に必要とする人々に譲るべきではないでしょうか?あるいは非常用回線で、民間の電話とは別途の回線なのかもしれません。もしそうだとしても、どうでもいい会話のために使ってよい回線ではありません。もっと他に、いくらでもその回線を役立てられる方法があるはずです。

 今回の震災では、ツイッターやチャットといったインターネットメディアが大いに活躍しているといわれます。しかしそれも、ネットを使いこなせる世代以下に限っての話です。お年寄りだけで住んでいるような世帯については、やはり固定電話以外に連絡手段はないのです。

 後日改めて記事にしますが、今回の震災では政府とマス・メディアがいかに役に立たず、一般の人々や民間の方がよほど頼りになるということがよく分かりました。