塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

マーフィーの法則…というか個人的な不都合の経験則

2011年07月29日 | 徒然
  
 今週火曜に、遅めの土用午の日の鰻を食べてきました。静かに落ち着いたシチュエーションで、鰻を賞味することができました。

 さて、今日は駄文です。世の中にはマーフィーの法則と呼ばれるものがあるそうですね。不都合な経験則とでもいうのでしょうか。誰しも「こんな時に限って、あんなことが起こる」といった経験はお持ちでしょう。そんな経験則の中から、私が最近気になっているものを2つほどご紹介しようと思います。ただ、皆様の共感を呼ぶことができるかは分かりませんし、また私はマーフィーの法則の書籍を読んでいないので、本に既出のものだったら申し訳ありません。

①エレベーターはいつも同じ方向に動いている。
 人間というのは、普段通りのことはとくに記憶に留めず、存外に嫌なことがあったときに強く印象に残るものです。ですから、10回のうち7~8回は普段通りであっても2~3回同じ不幸が起これば、その人は「こんな時に限って、いつもあんなことが起こる」と思いがちになります。したがって、このような経験則を語るときには、本当にそれが頻繁に起こっているのかどうか考える必要があります。

 で、それを考慮しても気になるのが、人の出入りの多い大きなビルでは「2つ以上あるエレベーターがどれも同じ方向のだいたい同じ階にいる」というものです。たとえば上に行きたいときに複数あるエレベーターがどれも十数階のほとんど同じ階にいてなかなか降りてこないとか、急いで降りたいのにすべてのエレベーターが少し下の階で並んでちんたら下っていくなんてことは、皆さん経験があるのではないでしょうか。

 これは、少し考えれば起きるメカニズムは容易に想像がつきます。はじめは相互方向に運転していたとしても、それぞれの進み方は乗降客の具合で違いますから、いつかは何かの拍子で横一列に並んでしまいます。で、一度並んでしまうと、それぞれのカゴが各階で乗り降りする客を抱えているため、追いつけ追い越せのいたちごっこが始まります。この併走レースは、よほど乗客の降りる階に偏りがでないかぎり、安定してしまいいつまでも続くことになります。

 つまり、そもそもエレベーター同士が並ぶ状態を作らないようにしなければなりません。この手の試みは、たとえば大きなデパートやオフィスビルなどにある、それぞれ異なる階に限定して止まるエレベーターに見られます。ですがこれも、結局自分が行きたい階に止まるエレベーターが限られることになるので、お望みのラインが来ないとイライラが溜まることに違いはありません。並んでしまわないように後続のカゴがいくらか速度制限する等のプログラム上の工夫を考える必要があるように思います。

②押しボタン式信号は押しても変わらない。
 これは法則というか、単にそう設定されているのでしょうが、いつもいつもイラつかせられます。「押せば青に変わるよ、押して下さい」というのが押しボタン式信号だと思うのですが、私の経験上押して1分以内に信号が変わったためしがありません。

 どういう理由でそのような仕様になっているのか皆目見当もつきません。そのうち諦めて独断で横断する人が続出するでしょうから、かえって危険といわざるを得ません。

 もちろん、少し前に人が渡ったばかりだからしばらく待って下さいというのなら話は分かります。ところが、ぐるり見回して誰も歩いていないような田舎道の場合でも、押しボタン式信号は安定して押す意味がないくらいに変わりません。

 これも、いっそのこと押しボタン式信号は押したら何十秒で変わりますと全国一律で設定してもらいたいものです。あるいは、せめていつ変わるのかカウントダウン的に分かるような機能を付けてもらいたいものです。

 とまぁ、段々マーフィーの法則とか関係なくなってしまいましたが、私が普段感じている「いつもあんなことが起こる」という不都合の経験則を2つほど紹介しました。こういった類の話題は酒の肴にはもってこいですね。私もひとつ本を買ってみようかとも思いました。

  



『ハガネの女』と『兎の眼』:発達障害児多数決投票

2011年07月19日 | 社会考
  
 二言目には憑りつかれたように東京五輪招致と叫ぶ石原都知事が、正式に立候補を表明したそうですね。ただ、前回と違い、震災復興でそれどころではないという意見が強くなっているようです。そんな中、2018年冬季五輪が韓国の平昌に決定したことは、同じアジアである東京にはかなりの逆風とか。東京招致反対の立場の私としては、平昌決定は喜ばしい限りです。

 さて、先月の話題なんですが、今月頭に終了したドラマ「ハガネの女」の1シーンをめぐって視聴者や原作者が反発するという事件がありました。問題のシーンは、転校してきた発達障害の男児を特別支援学級のある学校に移すべきかどうか、クラスで投票を行うというものだそうです。「そうです」というのは、私自身は問題のドラマを観ていないからです。障害児がクラスに残るか否かを投票で決めるという内容に対して、批判の声が多数寄せられ、原作者の深谷かほるさんも抗議のためにクレジットから降りるという措置に出ました。

 この問題の争点は、2つのポイントに分けられると思います。1つは、生徒の受け入れを同じ生徒が投票で決めるということが果たして許されるのかという点。もう1つは、障害児を招かれざる腫れ物のように扱っている感がぬぐえないという点です。大方の批判は、おそらく後者の立場に立つものと思われます。

 ですが、私はむしろ前者の方が大問題だと考えています。推測するに、当の発達障害児童はこの投票について何も解っていないことが前提になっているのでしょう。もしこれが、みなさん自身がそこにいて、クラスメイトに投票にかけられているとしたらどうでしょう?これは完全にイジメです。重大な人権侵害行為です。こんな投票を許す教師が教団に立っていて良いはずがありません。どんな理由があろうと、生徒を村八分にするかどうかを同じクラスメイトに投票で決めさせるなどということは認められません。ただ繰り返しますが、私は当該シーンを観ていないので、推測が外れていたら申し訳ありません。

 次に第二の点ですが、このような投票をするしないという話が持ち上がる時点で、当該障害児は基本的にお荷物という位置づけにあるということになります。たしかに、発達障害児は社会生活をおくることが困難であり、そのために特別学級が設けられているわけで、そもそも障害児を普通学級に入れることが問題だとする意見もあるようです。言い換えれば、それでも障害児を普通学級に入れることに意義があるのか?ということなのでしょう。こう提起すると、おそらく返ってくるのが「思いやりのこころを学ぶことができる」とか「弱者に対する優しさを育むことができる」とかいった教科書的な道徳心の面での効果でしょう。

 ただし私は、このような発言は偽善に過ぎない唾棄すべきものと考えています。一見、慈愛の心に満ちた模範的な答えのように思われます。しかし、そこにあるのは優しさではなく、自分が上にいて手を差し伸べてあげるのだという同情と憐みの心です。これは、障害者も健常者も同じ目線に立とうというバリアフリーの精神からは大きく外れたものです。

 バリアフリーに対する私の持論はいずれまたの機会に披瀝するとして、なぜ今になってこのような話題を持ち出したかというと、つい先日灰谷健次郎さんの『兎の眼』をこの歳になって初めて読みました。その中に、非常に似たシーンがあったので驚いたのです。

 やはり発達障害の女児が転入してくる。その子は、隣の子のノートを破る、給食は勝手に人の皿に手を伸ばす、そこいらで小便を漏らしてしまうなど、集団社会生活や勉学環境の場にとっては迷惑な存在でしかありません。保護者からもクレームが寄せられ、担任の先生は窮地に立たされます。ところが、当の迷惑かけられ放題のクラスメイトがこぞって女児との別れを嫌がったため、女児はクラスに残ることになります。

 ここで、ドラマとおそらく違っているのは、生徒たちは女児に対する憐れみや責任感といった理由で引きとどめようとしたのではないということです。そこにあるのは、クラスメイトを失いたくないという純粋に対等な仲間意識であり、テレビ朝日的な偽善的同情の類は一切ありません。生徒たちは当番制でその女児の面倒を見ることにしますが、彼らは進んで迷惑をかけられに行くように当番の順番を争います。それは、障害児をクラスに残すか否か投票で決めようなどという思考からはおよそかけ離れた感情といえるでしょう。

 発達障害に限らず、障害者と生活を共にするとはどういうことか、各人が自身に問いかけ考え直すことが大切であると思います。今回例として挙げたのはたかだかドラマや小説の1シーンですが、同様の状況に自分が置かれた場合に自分はどのような言動に出るのか、またその行動はどのような感情によるものなのか。考えれば考えるほど、なかなか難しい問題です。ちなみに、『兎の眼』は素晴らしい小説です。ただ、中学生のときに読んでおきたかったな~とも感じました。

  



車道は自転車のもの?自動車のもの?

2011年07月14日 | 徒然
      
 火曜の朝、足の親指付け根下の盛り上がったところが突然腫れて痛くなり、歩けなくなりました。知り合いには痛風じゃないかと脅かされましたが、関節痛ではないので違うとは思います。何というか、骨が痛む感じです。ぶつけた記憶もないので、困り果てました。医者は嫌いなので、とりあえず様子をみようと登山用のステッキをつきながら何とか移動してました。一応治まってきたようで、今日ようやくステッキなしで歩けるようになりました。おかげさまで更新の方もだいぶ滞ってしまいました。

 そんなわけで、本日は愚痴ついでの四方山話です。最近車で出かけると、至る所で競技自転車を見かけるようになりました。以前は郊外の山道のようなところでしか出くわさなかったような気がするのですが、このところは市街地でも普通に走っています。また、以前は団体が多かったと思うのですが、近ごろは個人も多く見受けられます。気のせいではなく、確実に競技自転車は増えていて、しかも人里に活動範囲を広げています。

 山間部の主要幹線道路などであれば、自転車が車道を走っていても簡単に追い抜くことができ、それほど気になることはありません。ところが、市街部の道路をワガモノ顔でマイペース走行されると、抜くにも抜けず、自転車の速度に合わせて後ろをトロトロついて行かなくてはならなくなるので非常に気に障るようになります。これが交通量の多い道路だったりするとさらに大事で、自転車の後ろに渋滞ができてしまっている状況も何度も経験しています。ある時など、対向車線を走っている自転車の真後ろにバス(当然追い抜けるわけがありません)がぴったりくっつき、その後ろには延々と大渋滞ができているということがありました。

 私は競技自転車に乗ったことがないので分かりませんが、後ろにイライラした車を何台も連ねてなお、避けもせず速度も上げず、自分勝手なペースで走り続けて何とも感じないものなのでしょうか?私は「自分が迷惑になっているかもしれない」状況には耐えられない性格なので、とても真似できません。ハッキリ言って迷惑以外の何物でもありません。何度クラクションを鳴らしてやろうと思ったか分かりません。

 たしかに、本来原則的に自転車は車道を走るものとされています。ですが、それは決して自転車優先、自動車劣後ということではないでしょう。そこは、自動車であろうが自転車であろうが、車道を走る車両は等しく全体の円滑な走行に注意して然るべきだと思われます。

 私の周囲にも自転車競技のやっている人がいないので、実際詳しいことは分かりません。もしこの記事をご覧になっていて自転車競技経験者の方がいらっしゃれば、ぜひご意見賜りたいと思います。勝手に推測するに、近年競技自転車はブームかは分かりませんが人気が上がってきているのでしょう。で、古くからやっていたり、伝統ある団体で教育を受けた人たちは、ちゃんと走っても大丈夫な道を心得ていて、迷惑にならない道を選んでいる。ところが、一部のにわかプレイヤーが所構わずワガモノ顔で走り出したので、急に迷惑走行が目につきだしたということなのではないかと、個人的には考えています。要は、「一部」の鉄道ファンなんかの迷惑行為がメディアで紹介される度に言われる「まっとうなファンも誤解される」というやつですね。

 結局、迷惑な自転車競技者というのは、人の迷惑を顧みることのできない人たちということなのだと思います。ですから、たまたま競技自転車という形をとって顕現していますが、彼らは普段の生活でもさぞかし人に迷惑をかけながら自己中心的に暮らしていることでしょう。そんな彼らのために、次回からは迷惑競技自転車を見かけたらちゃんとクラクションを鳴らしてあげようと記事を書きながら改めて思いました。

追伸:たしか、自民党の谷垣総裁も競技自転車がご趣味とかおっしゃっていたように記憶しています。記事を書いていて、ひょっとして菅総理も競技自転車がご趣味なのかしら?と考えてしまいました。

  



しっかり選ぼう扇風機

2011年07月08日 | 徒然
    
 なかなか梅雨が明けそうで明けない蒸し暑い天気が続いています。毎年豪雨に襲われる九州では、土砂災害が心配です。

 さて、震災以来節電が叫ばれて久しいですが、猛暑対策として我が家でも扇風機を2台購入しました。扇風機なんてどれを選んでも一緒だろうと、適当に日本の大手メーカーのものと、聞いたことのないメーカーのものを買いました。前者を仮に甲機、後者を乙機としましょう。甲機は気温センサー付き、乙機はPCに向かっているときにも使えるよう首が長いものという理由で選びました。

 既述のとおり、扇風機の風などどれも同じだろうと送風機能そのものには無頓着に選んだのですが、これが大きな間違いであったことを後々思い知ることになりました。

 普段は寝るときには甲機をタイマーセットして使っているのですが、あるときPC使用中に睡魔に襲われ、そのままPCを閉じて乙機を当てて寝ました。すると、翌日喉に激しい痛みを覚えました。甲機使用時には喉痛など感じたことはなかったのに、よもや風邪をひいたのかと疑うほどでした。

 そこでようやく気づいたのですが、両者には生み出す風の質と量に大きな違いがあったのです。甲機からは柔らかく穏やかな風が送られてくるのに対し、乙機の風は強力で剛風とさえいえます。外から帰ったときなどは乙機の方が一気に冷えていいでしょうが、寝るときにはあまりに強くて喉にきてしまうというわけです。

 扇風機の風もさまざまであるなど、こうして身をもって比較するまでは気づきもしませんでした。皆さんも、扇風機を選ぶ際には実際に風を浴びてみてから、用途と照らし合わせてじっくりと考える必要があると思います。今では扇風機もだいぶ品薄だそうですから、教訓としては少々遅きに失しているかもしれませんが^^;

  



地方のあり方:思い付きの副首都構想?

2011年07月04日 | 政治
    
 最近、眼鏡がない方がいいといわれることが時たまあります。でも、自分では眼鏡は身体の一部くらいに、むしろ眼鏡が本体で顔が付属品くらいに思っているので、逆にショックだったりします(笑)。

 さて、先月30日付で首都機能移転を担当する、国交省の「首都機能移転企画課」が廃止されました。とはいっても、東日本大震災以降首都機能の東京一極集中に対する不安論が盛り上がっているため、新設される復興省などに場所を移して議論は続けられるようです。

 これを受けてなのかは分かりませんが、今月1日、大阪府の橋下徹知事が大阪の「副首都」構想をにわかに謳い、東京都の石原慎太郎知事が橋下知事と会談してこれに同意したそうです。大阪の地位向上というか、東京に追い着け追い越せばかり考えているような橋下知事にとって、震災はチャンスでしかないのでしょうね。

 そもそも、橋下知事においては首都移転や首都機能分散について基本的なことが分かっていらっしゃらないように思います。今回の副首都構想以前には、知事は東京の国会や行政の機能の一部を大阪へ移転・分散させるということを唱えていました。しかし、ちょっと考えれば分かることですが、霞が関や永田町を2ヶ所・3ヶ所に分けるなど、平時にあっては非効率なことこの上ありません。ふつう、首都機能分散とは1つの機能・分野を数か所に分けることではなく、機能・分野ごとに数か所に分散させることをいいます。

 たとえば、よく引き合いに出されるのがオランダやドイツです。オランダでは、立法・行政や王室はデン・ハーグ、経済の中心はアムステルダム、工業はロッテルダム、交通・学問はユトレヒトといった感じに、分野ごとに中心都市が分かれています。ドイツの場合は、政治がベルリン、金融・交通がフランクフルト、商工業の中心地は各地に点在しています。また、ドイツは連邦憲法裁判所や連邦裁判所がカールスルーエというベルリンから遠く離れた街にあり、司法の中心も首都ではありません。

 東京の一極集中といった場合、政治や経済、交通、工業、学問、文化、人口、情報etc…と様々な機能・分野が東京に集まっている、あるいは東京を一大中心地にしている状態を指しています。ですから、首都機能分散といえば、一般的にはいくつかの機能・分野を東京から他の都市へ移すことをいうものと考えられます。経済や人口の移転は、政府の意志だけで行えるものではありませんので、政治や学問など、移しやすいものから移していくことになるのでしょう。

 したがって、大阪が霞が関や永田町の機能の一部をよこせなどと言うのは、首都機能移転論あるいは分散論を理解していない証左といえます。もし大阪に首都機能を移転させたいというのならば、霞が関や永田町の「全部」をよこせと言うか、工業や商業、学問などの分野ごとに招致するのが道理ということになります。そもそも大阪は、江戸時代には「天下の台所」と呼ばれた商業の中心地であり、京都も文化の中心地であったことを考えれば、何も東京の真似事をして日本の中心地の一画になる必要はなく、大阪の強みである商都や工都としての面を育てる方が現実的ともいえます。

 他方、首都機能移転論には、欧州の先進国とりわけ日本も列した旧列強各国では首都一極集中解消といった議論は高まっていないという批判もあります。yahooニュースで見つけた大前研一氏の記事では、「一極集中の解消や緩和を目的とした首都移転の例はない」として移転論を一蹴しています。ただし、世界的には意図的に国内の重要都市から首都を外したり、人口的に新首都を建設したりする例は少なくありません。大前氏は、そういった人工的な首都選定は「首都の座を巡って複数の都市が対立したときである」として、カナダのオタワやオーストラリアのキャンベラを例に挙げています。しかし、世界的にみればオタワやキャンベラの方が特殊事例なのであって、これらを例に挙げて首都機能移転論はおかしいというのは的外れといえます。パキスタン(カラチ→イスラマバード)やブラジル(リオデジャネイロ→ブラジリア)など一極集中を避けて首都移転を行った国は存在しますし、南アフリカのように明確に複都制をとっている国もあります。

 ただ一方で、ロンドンやパリなどの欧州の大都市では、一極集中にもかかわらず移転論は出ていないという事実もあります。東京の場合も、民主党政権誕生前に一時期盛り上がった移転論が立ち消えとなったように、何もなければ首都機能移転や分散が具体性を帯びることもなかったでしょう。しかし、今回の震災により直接の被害を受けていない東京がパニックに陥り、今後東京直下での大地震が起きる可能性が示唆されるに及んで、東京一極集中の危険性が叫ばれるようになりました。欧州と異なるのはまさにこの点です。東京は過去に関東大震災を一度経験してもいます。今後、本当に震災が東京直下を襲った場合、首都機能が完全に麻痺する危険性が誰の目にも明らかとなりました。

 橋下知事も、震災による首都機能麻痺の危険性という背景に気付いたのか、首都機能の「バックアップ」という表現を使うようになりました。ただ首都機能をよこせというよりも、震災時のバックアップというトーンを使った方が効果的だと考えたのでしょう。ですが、これこそ私に言わせれば思い付きの極致でありまして、本当にバックアップの為というのであれば、移転先は大阪ではあり得ません。

 たとえば、多くの企業ではコンピューターネットワークのサーバーの予備を沖縄に置いたり、そもそもメインサーバーそのものを移したりしています。これは、沖縄が地震の少ない地域であり、また本土から離れているために連鎖被災のリスクが少ないからです。本当に災害時のバックアップを目的とするならば、同様に被災リスクが少なく、人間によるパニックからも遠い場所を選ばなければなりません。そしてそれは、当然ながら阪神・淡路大震災を経験し、東京以上のパニックに陥る可能性のある大阪では決してあり得ないのです。

 私は、道州制や首都機能分散には賛成です。実際には、大阪は商工業、京都は文化・観光といったように分散化されている面もあるにはあります。ですが、橋下知事のように何でもかでも「俺が俺が」と言い始めると、逆に分散化は停滞します。たとえば交通など、大阪に関空、名古屋に中部、東京に羽田・成田とあって、どれもが自分がハブ空港になろうと相争っているようでは、いつまでたっても韓国などには勝てません。ハブ空港をはじめ、空港へのアクセス、空港からのアクセス、物資輸送網など、空港のみにとどまらない交通網を整備してはじめてそこが交通の中心地となり得ます。個人的には、せっかくリニアモーター計画が始動したのですから、これに空港や鉄道、高速道路などすべて連動させた一大交通集積地を考えてはどうだろうかと思ったりしています。

 閑話休題。要するに、首都機能移転や分散といった場合、政治機能の移転先の条件は「安全であること」と「人里離れていること」の2点にあると思います。橋下知事の「副首都」構想なるものは、こうした基本的議論も押さえずに思い付きでなされていることは間違いないでしょう。また、石原都知事がこれに安易に言質を与えていることも問題です。首都機能が東京を離れて田舎へ行ってしまうことを恐れ、大震災が起こった以上移転論に真正面から反対することは困難になった石原都知事が、「大阪ならまだマシか」とか「大阪ならどうせ上手くいかないだろう」などと打算して考えているようすが透けて見えるようです。

 橋下知事は、関西電力の節電要請に対して「みなさん騙されないでください」と発言しましたが、私はこの言葉をそっくりそのままお返ししたいと思います。「国民の皆さん、パフォーマンスだけの知事に騙されないでください。」