塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

4府県知事による大戸川ダム建設凍結の共同見解表明について

2008年11月13日 | 政治
  
 今月11日、瀬田川水系大戸川ダムの建設計画について流域4府県(滋賀・三重・京都・大阪)の知事が、建設凍結を求める共同見解を発表しました。何といっても地元滋賀県が反対しているという点が最も重要だと思われますが、マスコミは最も関係が薄いと思われる橋下大阪府知事のコメントばかりを流しています。

 「いつも問題発言ばかりしている僕から見ても問題発言」とコメントした兵庫県知事の失言問題あたりまでならまだ関連性もあるといえますが、どうして滋賀県のダム問題で流域4府県のうち最も遠い大阪府知事にクローズアップする必要があるのでしょうか。問題の本質を無視して話題性にばかり走る現代のマスコミの姿勢がここにも現れているように感じます。

 さて、今回の共同見解発表ですが、最初に挙げたとおり地元県が反対に回ったことがやはり一番大きいと思われます。いまやダム建設は治水効果というよりも、「国のお金で大口の工事がもらえる、ついでに周辺の道路なんかも整備できる」、という土建屋の利害で動いているものがほとんどでしょう。ですから、治水利水の緊急性さえなければ、下流受益地として水源地域対策特別措置法による費用負担が生じるとはいえ、下流他県に大した損も得もなく、まして河口の大阪府にとっては淀川上流のさらに一支流にダムができようとできまいとほとんど関心事ではないはずです。マスコミも橋下知事もお互いにパフォーマンスということは明らかでしょう。

 逆に、本当に現代のダム建設を考えるということなら、当選から一貫してダム建設には慎重な姿勢を示している嘉田由紀子滋賀県知事にこそ注目すべきだと思います。嘉田知事は、県内に誘致を進めていた新幹線新駅の建設凍結を訴えて2006年に当選し、県内に6つあるダム計画についても凍結または見直しを公約としていました。

 マスコミの間では、これを完全な「脱ダム宣言」ではないとして態度があいまいであると批判する風潮があるようです。しかし、近年の日本の亜熱帯化による豪雨でダムの必要性は再度議論される必要があります。ダムだけに頼らない治水計画を訴え、「ダムの必要性、効果、影響も含めて議論する過程の中にある」とする嘉田知事の姿勢は、むしろ妥当であると思います。

 今回は、ダム建設の受益がある全ての府県が共同で反対に回ったことで大きなニュースとなりましたが、これを機に新幹線新駅凍結やダム見直しに堅実に取り組んできた嘉田知事にもっと焦点をあて、周知させるべきだと思います。少なくとも十把一からげの「脱ダム宣言」の田中前長野県知事や、暴言大言を吐き散らすだけの橋下知事のようなパフォーマンス知事よりは大いに参考になるはずです。

  



麻生首相と庶民感覚

2008年11月02日 | 政治
  
 先月の記録的な円高に、とうとう僕もユーロを買いにいそいそと出かけてしまいました。ただ株は全く触ってもいないので、連日の金融危機報道は対岸の火事のように眺めています。

 こうした金融不安や物価高騰、食料不安などに絡んで、マスコミなどでは最近麻生総理の「庶民感覚」がクローズアップされるようになってきました。一般国民の苦しい生活や先行きの不安をどの程度身をもって理解できているか、という趣旨なのでしょう。しかしマスコミの報道は、お約束どおり論旨がどんどんずれていっているような気がします。

 スーパーの視察に行った後どこでいくらのものを食べただの、夜はどこのバーで飲んだだの、現実に進行する景気悪化にどう対処するのかという大目的に対して余りにも瑣末な話題が先行しすぎています。もちろん私人と公人の境目という点では重要な問題と言えるでしょうが、報道の優先順位や問題の扱い方を見るにバラエティー感覚でいたずらに突っついているだけ、という感じがしてなりません。

 果ては、民主党の議員が国会の委員会質疑で、「このカップめんが市場相場でいくらぐらいか?」という委員会の趣旨と全く関係のない話題を振ってマスコミに話題を提供し政争の具にしようとするという、なんとも次元の低い場面まで出てきました。

 もちろん麻生首相の方も、無防備すぎると言わざるを得ません。ドラマや漫画に出てくるような典型的な御曹司として生まれ育ってきたわけですから、自分が一般大衆からどう見られているかについては人一倍気を使って振舞う必要があるはずです。漫画好きというのはおそらくパフォーマンスでも何でもなく素なんでしょうが、その買い方は余りに大人買いで、いわゆるアキバのオタクたちとも本質的には一線を画しているように思います。

 ただし、ほとんど貴族出身の麻生総理に庶民感覚を体得していろということに、どれほどの意味があるのか大いに疑問です。実際に庶民がどんなカップめんをいくらですすっているのか目の当たりにしたところで、麻生総理が感じるのはカルチャーショックに過ぎません。たとえば『ベルサイユのばら』のオスカルは、パリの庶民が粗末なスープで飢えをしのいでいるのを見て衝撃を受け、フランス革命思想に傾倒していきますが、それは庶民への共感ではなくあくまで同情と憐れみです。マスコミのいう庶民感覚が分かっていないという批判は、国民に対して憐れみと施しの政治を行えという意味なのかと逆に疑問がわいてきます。

 政治は国民全体の利益を考えるものですから、当然庶民の生活を知らないでは済まされません。しかしそれは知っていれば良いものですから、たとえば「庶民生活担当秘書」でも私的に抱えていれば済む話です。つまり誰かが平均的国民生活の相場のようなものを調査してまとめ、首相がそれを「勉強」すれば政策には十分反映されうるはずです。

 結局一番の問題は、総理にも、そしてそれを批判するマスコミの側にも、その先にあるべき総理像がないことにあるように思います。特にマスコミは、揚げ足を取るだけとって「じゃあどういう政治家や政策ならOKなの?」と考えたときに何ら具体的なものを提示できないため、野党と組んでひたすら井戸端会議のネタを提供するだけの状態に陥っています。

 困難な政局や政情にあって、麻生政権になかなかヒットが出てこないのは事実です。だからといって、被害者感情に訴え不安を煽るだけの野党やマスコミに踊らされるのも、賢い姿勢とは言いがたいでしょう。解散総選挙がいつになるか分かりませんが、その際には刹那的近視野的な感情で判断するのではなく、アメリカ大統領選挙のように今後最低4年の代表を選ぶのだという責任をもって我々も政治に参加したいものです。