塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

マラソン日本代表選考基準についての雑感

2012年03月16日 | 社会考
  
 今週12日、ロンドン五輪マラソン代表の6人が発表されました。全員が初出場ということで、他の競技と比べても非常に珍しい顔ぶれとなったように思います。代表選考の場の1つであるびわ湖毎日マラソンは私もテレビで観ていたのですが、その前に行われた東京マラソンでの川内優輝選手の給水失敗が取り沙汰されて、はじめて給水がマラソンの見どころのひとつだと知りました。

 さて、その渦中の川内選手が選考から漏れたことについて、世間だけでなく日本陸上競技連盟理事会内部でも疑問が湧いていると聞きます。私はマラソンについてはまったくの素人なので、選考の過程についてとやかく言うことはできません。ただ、問題の本質は、選考基準が基準と呼ぶにはあまりにも不明瞭だという点にあるように思います。

 川内選手は、代表選考のひとつである福岡国際マラソンで、日本人ではトップの3位に入りました。しかし、タイムが五輪で要求されるものに及ばなかったため、あらためて東京マラソンに出場して確実なタイムを出そうとしたところ、順位もタイムも代表争いからは程遠い結果となってしまったということだそうです。順位だけでは代表選出には不十分と判断したことが、かえって川内選手にはあだとなってしまいました。

 ここで、もし代表選考基準が簡単明瞭なものであれば、川内選手のこのような逡巡はありえなかったでしょう。別に川内選手のためにどうこうということではなく、選手に無用な苦悩を与え、選考後には決まって不満がくすぶるような選考基準では問題だということです。

 調べてみると、マラソンの選考基準は「各選考会の上位選手から本大会で活躍が期待される競技者」としか規定されていないのだそうです。「基準」であるにもかかわらず、選ばれる者と選ばれない者の線引きを示す文言が1つも入っていないというのが信じられないのですが、なかでも問題なのは「活躍が期待される」という部分でしょう。

 このような「期待値」で選考するというのは、私からみればまったくのナンセンスです。誰にどのくらい期待するかなどというのはきわめて主観的なものであり、できるだけ客観的であるべき「基準」にはそぐわないものです。もちろん、誰もが文句なしに期待する選手というものはいるでしょう。ですが、2番目・3番目に期待する選手までもが満場一致するなどということは、常識的にみて考えられません。ですから、毎回のように「最後の一枠」を巡ってわだかまりが残ってしまいます。

 基準が明確でないことは、先にも述べたとおり選手にとっても大きなマイナスとなります。選考会を前に基準をクリアして代表選出が決定していれば、その選手は以降余計な不安を抱えずに練習に邁進することができますし、五輪へ向けた調整として種々の大会への出場をはかることができます。選考会の日まで悶々としながら練習するよりずっと有益でしょう。

 実際、以前からあった基準明確化の要求は、今回の川内選手の一件があってかさらに強くなっているようです。そのなかでよく耳にするものが、「一発選考で決めれば良いではないか」というものです。たしかに、一発勝負よーいドンで先着順に決めてしまうのが、もっとも単純明快かつ公平なものといえるかもしれません。実社会でも、学校の試験や就職試験は一発勝負(複数次試験がある場合でも、その都度の一発勝負の繰り返し)です。

 しかし、受験や就職で経験された方も多いと思いますが、一発勝負ではその日に体調を崩すなどして実力を発揮できなければ一発アウトになってしまうという問題もあります。体調管理も含めて実力だといわれてしまえばそれまでですが、人間にとって一発選考というのは、やはり公平性という面からみて不完全といわざるをえません。会社だって学校だって、できることなら全員を何度も何度も試験して実力を見極めたいところでしょう。多人数から中小人数を絞らなければならないという場合に限っては、一発選考が有効かつ功利的な選考方法となります。

 これに対し、代表選手選考は少人数からさらに少人数を絞る選考です。少人数での勝負というものは、たとえば剣道では3本勝負を採っているように、複数回の試合が可能です。であれば、複数回選考機会があった方が、公平性はより担保できます。ただし、もちろん選考基準が明確であればの話です。仮に、代表選手を3人選ぶとすれば、3つの選考大会のそれぞれの優勝者(1つ目の優勝者が2つ目でも優勝した時には次点の選手)とするのがもっとも単純でしょう。順位だけでなくタイムも重要だというのであれば、大会順位とタイムの全体順位をそれぞれサッカーの勝ち点のように数値化して合計点を競うなどすれば良いと思われます。

 要するに基準が客観的であること、すなわち誰が見ても明瞭な線引きによって選出・不選出が決定されていることが大前提でなければなりません。期待なんてものは、良い意味でも悪い意味でも往々にして裏切られるものです。川内選手だって藤原新選手だって、もとは誰も「期待」していなかったところから飛び出してきたことで一躍時の人となったのではありませんか。代表に選出された山本亮選手も、選出理由となったびわ湖マラソンでは「まったく注目していませんでした」と実況されていたのを覚えています。

 こうした、あやふやな選考基準によって代表が選出されている競技は、何もマラソンに限ったものではないように思います。なかには、期待値と話題性を取り違えているように感じるものもあります。人間のさまざまな思惑で選考したところで、そう期待通りに事は運ぶものではなく、本番でどう転ぶかなど分かりません。ですから、せめて選考の段階ではきちんとした基準で線引きしてもらった方が選手としても世間としても割り切って気持ちを切り替えることができると思うのですが、五輪を取り巻く人間の環境というのもなかなか「期待」どおりには行かないもののようです。

  



東日本大震災から1年

2012年03月12日 | 東日本大震災
  
 3.11。大震災から1年。何か節目的なものを書こうかと思いましたが、うまく練り上げられませんでした。

 2時46分は仙台市の追悼式典会場で迎えました。黙祷のあとでは、多くの人が手を目にやり、鼻にやっていました。会場に中継された天皇陛下のおことばや仙台会場での遺族代表の言葉、高校生の復興への誓い、そして被災中学校の生徒による献歌。どれもが心を打ちました。

 震災から1年という節目が、遺族の方々にとっては心の整理をつけるひとつの契機であるとともに、日本人全体にとって復興への思いをあらたにする場であるべきだろうと強く感じました。そんな気持ちをもとに、私からは一首だけ。


 ひととせの おもいをうけて 照る月を
              闇に先だて 夜をまた行く



 本歌取りをしたものなので、本歌がわかった方はより意味をとっていただけるものと思います。
 
 ここにあらためて今日まで震災とその影響で亡くなった方々への哀悼の意を心から表すると共に、被災地が一刻も早く復興への軌道に乗れるよう祈念いたします。

  



熊野路の旅<4>:新宮

2012年03月10日 | 旅行
  
 紀伊田辺から始まる熊野古道は、熊野本宮大社→熊野那智大社とめぐって、新宮の熊野速玉大社へと至ります。そして、新宮から今度は船で熊野川をさかのぼり本宮へと戻ります。現在は、国道がこの熊野川沿いに走っているので、本宮から那智へ直接向かうのは合理的ではありません(徒歩で古道を歩いても1日では無理です)。で、私は本宮から新宮へバスで向かい、時間の都合上そのまま帰路に着いてしまいました。ですので、那智は訪れないまま、この熊野路旅行記は今回で最後となります。

 新宮というのは、本宮に対してそう呼ばれるのかと思ったらそうではなく、もともと町の西側の神倉山にあった速玉大社がいつの間にか現在の山麓に遷され、前者を元宮と呼ぶのに対し後者を新宮と呼ぶようになったのだそうです。というわけで、何はともあれ新宮の地名の由来となった熊野速玉大社をまずは目指します。

 
熊野速玉大社


 檜皮葺の本宮大社の落ち着いた雰囲気とは逆に、こちらは朱塗りの柱の鮮やかさが印象的です。境内には、ちらほらと南方系の樹木があり、これまた山深い本宮とは違うなぁと感じさせられました。

 残念なのは、これは本宮と同じでやはり門前が寂しいことでしょう。で、どこか店はないかとフラフラしていたところ、ちょっと面白いものを見つけました。大社の本殿に向かって右手に歩き、道路へ出たところで左斜め前をみると、板葺板張りの小屋が数軒並んでいます。小屋にしては妙に新しく整っているのが気になって近づいてみると、軽食店と土産物屋であることが分かりました。さらに近づくと、脇にようやく説明版があることに気付き、そこには「川原町について」とありました。それによれば、速玉大社裏手の熊野川の河原には、釘を使わず誰でもすぐに解体・組み立てができる「川原家」と呼ばれる小屋が百数十軒立ち並んだ町があったそうです。別に闇市という訳ではなく、物資の集積地である熊野川河口に江戸時代から発展していた「何でもそろう町」で、洪水のときだけ小屋をたたんで避難するという営みが続いていたのだそうです。その川原家を簡単に再現・アレンジしたものが、速玉大社脇の新・川原町ということなのですが、あまりにこじんまりしている上に大社境内には一切案内がないので、私が見つけられたのさえまったくの偶然でした。せっかくの観光資源・復元歴史的建造物なのですから、もっと宣伝しないと!と歯痒く感じられました。

 
速玉大社脇の復元川原町(手前の小屋群)。


 次にオススメなのが、「浮島の森」です。その名の通り、森が沼の上に浮かんでいるというもので、今では30%くらいが地続きになってしまっていますが、かつては完全に独立していて台風などが来るたびに移動していたのだそうです。このような浮島自体は、高山の湿原などでよく見られますが、新宮の浮島の特異な点は一年草・多年草だけでなく樹木が生い茂っているということです。しかも、鳥が方々から種を運び、寒冷地と温暖地の草木が混在している珍しい植物群落が形成されています。さすがに冬だったので、花も葉もなくさびしかったのですが、暖かくなれば日本中の草花が楽しめるスポットになるのだろうと思われます。

 
浮島の森


 ところで、この森には聞けばツッコミたくなるような伝説があります。「おいの伝説」というのですが、そのあらましは次の通りです。ある日、おいのという娘が父親と薪を採りに出かける。昼飯の弁当の箸を忘れたことに気付き、おいのは浮島へ代用の枝を採りに行く。おいのはうっかり大蛇の住む穴に足を踏み入れ、大蛇に飲まれてしまう。なかなか戻らないおいのを探しに父親が浮島へ渡ると、おいのはまさに大蛇に飲み込まれる寸前!父親は頑張って助けようとしましたが、おいのはそのまま飲み込まれ、大蛇は底なしの巣穴に戻ってしまいました。めでたし、めでたし。………いやいや!オチは!?何ですか、この消化不良のまま終わる物語は!そんな浮島の森には、おいの伝説にちなんだ石像があります。

 

 ……ちょっと待った。なんでおいのさん、自分を食った蛇と仲良くツーショットしてんの?石像にまでツッコまずにはいられません(笑)。

 新宮は、御三家のひとつ紀州徳川家の家老水野家の領国でもあり、町の北には新宮城址があります。近年公園として整備されたようで、城跡に登れば新宮市内や太平洋が一望できます。が、写真の掲載上限の関係上、詳しい説明はこちらのページにいずれまとめることにします。

 さて、私が新宮でもっとも感激したもののひとつが「食」です。今回の熊野旅行を通じて、イノシシはもちろんのこと、シカにキジと様々な珍しい肉を食べてきました。その極め付けが、新宮で食べた「イルカ」です。イルカと聞いて顔をしかめられる方もいるかもしれませんが、私はそれでも声を上げて言います。イルカは本当に美味です。最初から知ってて食べに行ったわけではなく、南紀の名物「さんま鮨」を食べようと入った寿司屋でメニューに「イルカ」とあることに気付きました。味はともかく、食べられるものなら試してみなければと思って注文したのですが、想像をはるかに上回る美味しさにビックリしてしまいました。臭みがなく、あっさりしてて柔らかい鯨肉といった感じです。そもそもイルカとクジラは同種ですから、クジラの若く雑味のない感じといえば良いでしょうか。逆に、鯨肉のあのクセが好きだという人には、物足りないかもしれません。よく見るとそこいらの魚屋さんにも「イルカ肉」と書いて売っています。都会では「イルカ肉」と書いて売り出したら途端に大変なことになるでしょう。あんなにおいしいのに、都会ではまず入手不能というのは何とも残念に思いました。

 4回に分けてお送りした熊野旅行記も今回で終わりです。実質、本宮と新宮しか訪れていないのですが、それでも多くの感動・発見・癒しを得られた貴重な旅となりました。ただ、世界遺産やパワースポットとして売り出している割には、台風被害の後とはいえ随分と観光客が少ないように感じました。卒業旅行、慰安旅行、ハイキング、自分探し、何でもいいので、もっともっと旅行者が増えてくれればと祈らずにはいられませんでした。

 
オマケ
さすがはみかんの国!果物屋にみかんしかありません。。


  



熊野路の旅<3>:湯の峰温泉と熊野古道

2012年03月09日 | 旅行
  
 熊野旅行記の第三回。熊野本宮での大社以外の大きなスポットとして、温泉と熊野古道があります。古道は、いわずと知れた世界遺産ですが、温泉もとてもすばらしく、湯の峰温泉と川湯温泉が熊野本宮の2大湯元です。他に渡瀬温泉というのもありますが、比較的新しいのか、宿泊施設は民宿が1軒とクアハウス付属のバンガロー村のみです。

 湯の峰温泉は開湯1800年といわれる歴史と泉質で、川湯温泉は河原を掘れば湯が湧き出るという特徴で有名です。規模でいえば、川湯温泉の方が大きいように思えます。川湯温泉では、夏場にはスコップ片手にマイ露天風呂づくりに勤しむ客でにぎわうようです。冬になると、今度は「仙人風呂」という巨大野天風呂が出現します。

 私が泊まったのは湯の峰温泉の方で、こちらはこじんまりとした谷間の秘湯といった感じです。ホテル調の大きな宿はひとつもなく、古き日本の湯治場の風景をよく残しています。源泉は90℃もあり、川端に設けられた湯筒というスペースで温泉卵や茹で野菜を作ることができます。

 
湯の峰温泉の中心部


 湯の峰温泉は、熊野本宮のお膝元にあり、歴史も長いことから多くの言い伝えをもっていますが、もっとも著名なのが小栗判官伝説終焉の地というものです。小栗判官伝説については、詳しくはネットで調べていただけばよいと思うのですが、簡単に説明すると、まず茨城県の豪族小栗助重(その父の満重とも)が相模の横山氏の娘照手姫と恋に落ちる。2人の結婚に反対する照手姫の父によって助重が毒殺される。助重は全身不随ないし餓鬼の姿でよみがえり、閻魔大王のお告げを聞いた偉い上人に車に乗せられて熊野を目指す。途中で下女として働いていた照手姫も、助重とは知らずに車引きに加わる。何とか熊野に着いた助重は、湯の峰温泉で49日湯治した後に全快する。照手姫と助重は再会してハッピーエンド、というものです。

 河原にある小さな浴場「つぼ湯」は、助重が湯治をした湯殿と伝えられています。つぼ湯は、定員2~3人の、天然岩で囲まれただけの、文字通りの湯の壺です。とはいえ、普通に料金を払って誰でも入ることのできる立派な公衆浴場です。古来、熊野詣の湯垢離場でもあったつぼ湯は世界遺産にも登録されており、実際に浸かれる世界遺産の温泉浴場としては唯一のものなのだそうです。

 
世界遺産「つぼ湯」


 つぼ湯のお湯は、1日に7回色が変わるといわれているそうです。とはいえ、入浴料金が750円と少々高いので、7色すべてを拝むためには最低でも5250円かかります(笑)。これは、つぼ湯の他に共同公衆浴場の入浴料も含まれているためです。つぼ湯は、湯壺を建屋で囲っただけの湯屋で体を洗うこともできないため、基本的な入浴のプロセスを全うするには、共同浴場にも入ってもらわないとアカンということだそうです。つぼ湯のお湯は共同浴場のお湯と若干泉質が異なるようにも思えるので、強制的に両方のお湯に入ることになるというのも、まぁ悪くはないかなとは感じました。つぼ湯は、どこからともなく絶えず底から湯が湧いているようで、水でうめてもうめてもすぐに熱々になります。このお湯のためだけに熊野を訪れる価値も十分に見出せるような、すばらしいお湯でした。

 温泉街の末端には、広い駐車場が完備されています。日が暮れると、共同浴場目当てに多くの客が車でやってきます。夜の共同浴場は地元の方々で大いに盛り上がっています。と、自分の隣で湯に浸かっていた坊主頭のおじさまに声をかけられました。この方は一番上の写真に写っているお寺の住職さんで、坊主頭どころか本職でいらっしゃいます。この寺の裏手には小さな茶屋があり、この住職さんが経営していらっしゃいます。普通のお土産品や酒類も多数販売していて、寺が直接こんな世俗的な店を開いて大丈夫なのだろうかと心配にすらなります(笑)。この日、私は本宮から「大日越」という、後に述べる熊野古道の一ルートを息を切らしながら歩いてきました。で、湯の峰に着くなりこの茶屋でコーヒーを一服しながら休憩したのです。不思議な縁というか、こういった地元との触れ合いが共同浴場の醍醐味の1つですね。

 ちなみに、現在湯の峰へ向かう幹線道路の橋が台風被害で落ちてしまっています。このため、迂回路はあるものの、大きな車両は入れません。そのため、本宮大社と湯の峰を結ぶ臨時の市営送迎バスを利用しなければなりません。訪れる際にはご注意ください。

 さて、ここからは熊野古道へと話を移します。とはいっても、私なんぞが書かなくとも、古道を紹介するソースは星の数ほどあると思います。その上、今回私が歩いたのは前述の大日越の2㎞ほどと、本宮から北の本ルート3㎞ほどのわずか5㎞程度に過ぎません(汗)。ただ、そんな爪の先ほどを歩いただけでも、世界遺産になるだけの歴史と神秘さをもった古道であること、流行りの表現を使えばパワースポットであることは十分に感じられました。

 
熊野古道(伏拝~祓所間)


 
同上


 自分は断続的に中山道歩き旅もやっているので、熊野古道も同じような街道なのだろうと考えていたのですが、これは大きな間違いでした。中近世のメインロードの1つであった中山道ができるだけ起伏のないルートを選んでいるのに対し、熊野古道は容赦ない山越えの連続です。まさに修験の道と言わんばかりの、峠越え尾根越えの山道が続きます。かつて藤原定家が熊野詣に出向いた際には、途中で足を挫いて自力で歩くことを断念し、家来に輿を担がせて参詣したのだそうです。さもありなむと納得すると同時に、情けない貴族の輿を延々担いで山道を歩き続けた家来の苦労がしのばれます。

 熊野古道は山越えの多い道ではありますが、山の中の道なので眺望の開けたところはあまりありません。だから…なのか本宮大社の北の山中に、古道から少し脇道に入る形で展望台が新たに設けられています。森を切り開いた峰の先端の展望台からは、一面に広がる熊野の山並みが望めます。熊野が信仰の郷、修験の郷であることがよく分かる風景です。

 
本宮大社北の展望台からの風景
中央に見える鳥居と森は大斎原(旧大社跡地)


 歴史に触れながら温泉とハイキングが楽しめる世界遺産・熊野。京阪神はもちろん、東京からのアクセスも決して悪くないので、被災地支援を兼ねてぜひお越し下さいませ。

  



熊野路の旅<2>:台風12号の爪痕

2012年03月05日 | 旅行
   
 前回に引き続き熊野旅行記の2回目です。今回は、旅先の紹介から離れて、私が見た被災地・熊野の状況をお送りしようと思います。熊野本宮へアクセスするための幹線道路は、田辺から1本、新宮から1本、そして奈良県からの1本と、計3本の国道しかありません。本当にこの3本以外に主要道路がなく、もちろん小さな林道や生活道路はありますが、少なくともトラックやバスは通れません。そして、昨年の台風被害ではこの3本すべてが通行不能となりました。

 昨年末までに3本とも一応の復旧が済んだということで、こうして旅行に出かけられたわけですが、あくまで「とりあえず通れるようにした」というレベルに過ぎず、完全復旧からはとても程遠い状況でした。途中いたるところに土砂崩れの跡が生々しく放置され、またいたるところで道路の損壊にともなう片側相互通行を余儀なくされていました。

 
 
土砂崩れ?土石流?の跡。田辺~本宮間


 
片側が持って行かれたままの道路。本宮町内。


 
同上。


 本宮町内では、1階部分まで水に浸かったという話は前回しました。店などは徐々に復旧・再開しつつあるようですが、いまだに手が付けられていない建物も散在しています。そのひとつが、本宮町のバスターミナルとなっている「世界遺産熊野本宮館」です。熊野本宮館は、市が運営する観光拠点および町の多目的ホールだったのですが、水害によって地盤が持ち上がって基礎が損傷し、現在は立ち入り禁止となっています。バスターミナル自体は普通に稼働しているのですが、バスを降りると目の間にヒビだらけの廃墟があるというのは異様な光景です。やはりここが復旧しないことには、観光事業も本調子には戻らないと思うのですが、地盤から工事が必要なためなかなか着手もままならないようです。

 
熊野本宮館の地面。基礎からずれて割れています。


 本宮や新宮で災害の話を聞くと、必ず返ってくるのが「熊野川が一番ひどい」というものでした。熊野川とは、本宮と新宮の間にある旧熊野川町(現新宮市熊野川町地区)のことで、甚大な洪水被害をもたらした熊野川の川幅が狭まったところにあります。本宮の町を飲み込んだ大量の水が、川幅の狭くなった熊野川町ではさらに勢いと水かさを増し、ここでは多くの建物を押し流してしまいました。果ては、道の駅や観光船の船着場までが流されてしまい、観光収入源の多くを失った状況となっています。私は本宮から新宮に向かうバスの中から覗くだけでしたが、川沿いには今も土台だけが残った建物の跡が数多く見受けられました。

 
(おそらく)道の駅「瀞峡街道 熊野川」付近のようす。


 熊野本宮と湯の峰温泉を結ぶ林道の脇には、小さいながら堰き止め湖もありました。決壊しないように堰き止め部分を補強し、溢れないように排水路を確保する工事は終了しているようで、はじめからそこにあったかのように満々と水を湛えていました。とてもきれいな青緑色をしていたのが、逆にとても不気味に感じられました。このような小規模な堰き止め湖は、報道されていないだけであちこちにまだ残っているのだそうです。山崩れの跡などは、数えだせばきりがありません。そして、山崩れによって川に流入した土砂が川底に溜まり、川自体の底の高さが上がってしまったため、次に大水があった際に以前よりも洪水になりやすくなってしまっているそうです。

 まもなく訪れる3.11で、多くの人が震災からの復興へ想いをあらたにするでしょうが、東北から遠く離れた紀伊半島も、復興へ動き出したただ中にあることを忘れてはいけないように思います。