塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

茨城・福島産の農産物・畜産物が食べたい!

2011年03月31日 | 東日本大震災

 余震はまだ続いていますが、地震そのものによる新たな被害はこれ以上なさそうにみえます。代わりに大問題となっているのが福島第一原発事故ですね。政府や東電のもはや何を信じて良いか分からない連日の発表に、風評被害は広がる一方です。

 今日私は食料の買い出しに出ましたが、とにかく茨城・福島産の野菜を買おうと探し回りました。その結果、意外と茨城県産は見つかったのですが、福島県産は本当に1つもありませんでした。以下、リストアップします。

 ピーマン 茨城県産
 トマト  茨城県北筑波産
 水菜   茨城県水戸産
 蓮根   茨城県産
 せり   茨城県北浦産
 しめじ  茨城県産
 なめこ  茨城県行方産

 他にもいくつかありましたが、苦手なものだったので買いませんでした。しかし、あれだけ問題ないと連日報じられているのに風評被害が広がっているというのも、ひとえに放射能という未知の危機に対するアレルギーともいえる反射的反応によるものなのでしょうね。

 ただ、たとえ問題ある量の放射能が検出されたとしても、それが及ぼす影響は数十年後に癌が発症する確率が数%上がる程度といわれています。それを、あと数十年も生きたら放射能と関係なく病にかかるだろうお年寄りたちが「放射能怖い」とあたふたしている様は、失礼ながら少々滑稽に感じました。

 私などは、おそらく30年も経てば癌なり何なり発症することでしょう。でも、それを別に「あの時茨城産の野菜を食べたせいだ!」などとは決して思わないでしょう。むしろ、連日摂取しているアルコールの方がよほど原因として妥当です。因果関係など指摘できようもない数十年後の病気のために、今このときに被災者にムチ打つようなまねはとても私にはできません。

 ただ、意外と私と同じように考えている人は少なくないようで、店頭で箱売りされていた茨城産野菜の売れ行きはそれほど悪いようには感じませんでした。願わくば、このまま一般大衆の方がノービジョンの政府よりも理性的であることを望みます。

  



東日本大震災:国民性?いいえ県民性です。

2011年03月24日 | 東日本大震災
  
 東京も、まだ余震が続いています。東北ではさらに余震は頻繁で、かつ真冬並みに寒い日が続き、その不安・厳しさは想像を絶するものでしょう。

 しかし、首都圏では問題の中心が地震そのものから原発事故にともなう電力不足と放射能汚染に移っているようです。放射能はともかく、電力不足は他の電力会社から譲ってもらえば解決するように思うのですが、無理なのでしょうか?各電力会社は地域割りで殿様商売をしているのですから、こういう時にお互い融通することに経営上の問題はないはずです。今回は何らかの理由で無理というなら、次回からは可能となるように調整すべきでしょう。

 また、放射能の問題も理解不能な動きを見せています。とくに政府は、現下のレベルでの汚染状況なら当該地域の農作物を摂取しても大丈夫と片方でいっておきながら、他方では農産物の出荷自粛を求めるなど、どっちに持っていきたいのか不明です。ちなみに放射能は永久に蓄積するものではなく、アルコールのように体内で処理されるもののようです。現下のレベルなら体内で処理可能な範囲ということなのですから、ウチに持ってきてもらえば、福島産のほうれん草だろうと茨城産の牛乳だろうと私は美味しくいただきます。そもそも放射能を出す原因物質を洗い落とせば安全なのですから、水洗いして湯がけば大丈夫なはずです。

 さて、今日の本題は原発問題ではありません。海外から今回の大震災を見たとき、まず驚くのが被災地域で秩序が守られていることだそうです。略奪や暴動が起きていないことや、軽犯罪の多発はやむなしとしても無法地帯にはなっていないこと、さらには首都圏でエネルギー危機となった中でもコンビニやレストランにアルバイト店員がきちんと出勤していることなどが、海外の目から見ると驚きだということです。

 古くからいわれている日本人の秩序正しさや勤勉さのあらわれとして、震災後しばしば取り上げられるようになり、なかには自分のことのように誇らしく感じた人もいることでしょう。たしかに、今回の震災では町単位で建物が消滅し、財産を失い、避難後も物資が届かない状況が続いているにもかかわらず、不満が爆発するような事態にはなっていません。

 しかし、これが日本の他の地域だったらこうはいかないでしょう。結論からいいますと、被災地が三陸だったからここまでこらえることができているのです。これが東京だったら暴動が起きているでしょうし、大阪だったら無法地帯と化しているでしょう。

 私は仙台の出身ですが、仙台は全国平均からすれば優しい土地柄だと思います。自分で言っても自画自賛になり説得力はありませんね。一応、一般的にもいわれていることではあります。また、今回の震災に関してありがたいルポルタージュを書いて下さった方もいます。ただ、東京に生粋の江戸っ子が少ないのと同じく、仙台も他県から移ってきた人が多いので、生粋の仙台っ子は半分かそれ以下と思われます。そのため、都会ならではの希薄な人間関係に伴ういざこざや無法は、被災した東北の中では残念ながらおそらく最も多いだろうと思いますが。

 そんな「自称」優しい土地柄の仙台人たる私から見ても、三陸の人たちの温かさ・優しさは群を抜いています。三陸の人柄の温かさは東北では有名で、仙台の比ではありません。岩手県自体が優しい県として知られていますが、その中でも三陸は別格なのです。

 ちょうど一昨年の夏、私は家族と三陸へ旅行へ行きました。どこへ行っても町の人は優しく、なにかと「あれ持ってげ」「これあっか~?」と世話をやいてくれます。1つの観光地を見終わった頃には、あっという間にパンフレットやら地図やらが10枚近くたまります。一番印象に残っているのは、浄土ヶ浜を訪れた時です。浄土ヶ浜へ車で行くと、普通は一段上の高台の駐車場に停めて歩いて下りることになります。その先には普段はバス専用の道が浜近くまで下っています。ですが、身体障害者がいるとその道を少し下ったところの駐車スペースを使わせてもらえます。その時は足の不自由な祖母がいたので、このスペースを使わせてもらおうと守衛に申し出ました。すると、守衛はスペースへの行き方からその先の注意点から見どころから、専属ガイドなみに一通りの説明をしてくれました。さらに、その脇にたまたま居合わせた何でもない誘導係のおじさんが、「ちょっと待ってろ」と言うなり向こうの事務所へ駆けていき、パンフだの地図だの割引券だののセットを持ってきてくれました。

 普段だったら、余計なおせっかいが嫌いな私は上の空で適当に流して足早に去ったことでしょう。ですが、三陸の人たちは一通り世話をやかないと気が済まない!とでも言わんばかりに親切にものすごい勢いがあります。とても断りきれない親切っぷりなのです。こんなことが何度も続いて、三陸の人柄というものを改めて体で知りました。

 三陸の人がなぜ優しいのか。それは何といっても三陸の生活の厳しさの故でしょう。今回の震災は1000年に1度のレベルだったといいます。それゆえ、日本最大級を誇った田老町の防波堤でも防げませんでしたが、三陸が津波に襲われるのは今回やチリ地震の時だけではありません。三陸は地震多発地帯+リアス式海岸ということで今までに度々津波の被害を受けてきました。また、吹きつけるやませは凶作をもたらし、住む土地は限られ、冬の寒さから守ってくれるものもありません。三陸地方は、おのずと人々が肩を寄せ合い助け合わなければ生きていかれない土地でした。戦国時代後期から江戸時代にかけては、さらに南部氏の圧政に苦しめられ、三陸の人々は団結して日本最大級の一揆(三閉伊一揆)を起こしました。

 話を今回の震災に戻すと、被災地では苦しみの声はもちろん聞こえるものの、不満の声は状況の悲惨さに比べて驚くほど小さいといっていいでしょう。これだけ被害は壊滅的で、物資が届かず、政府も電力会社も石油会社も何をやってるのか分からないといった状況であるにもかかわらずです。これが皆さんの住む町だったらどうでしょう。私が今住んでいる周辺だったら、間違いなく暴動が起きてます。それがこれだけ被災地が静かで秩序立っているのは、ひとえに三陸だからなのです。

 現に福島では、震災の被害を直接は受けていない地域が、原発事故の避難勧告区域でないにもかかわらずパニックに陥っているといいます。決して福島を責める訳ではありません。これが普通なのです。また、首都圏を見て下さい。大きな余震が続く、あるいは鉄道が動かない日があったというだけで、人々は被災地を無視してガソリンの買占めに走りました。中にはテレビのインタビューで「保育園の送り迎えに必要だから」と答える人もいました。嘆かわしいにもほどがあります。

 とある番組で有名司会者が「日本人はなんて秩序正しくて素晴らしいんだ」とか何とか感動していましたが、それは日本人の国民性ではなく、岩手三陸の県民性です。これを見て、我々は「ああ、日本人は素晴らしい」ではなく、「私たちの周辺で同様の惨事が起きたらどうなるんだろう」と真剣に考える契機とすべきなのです。

 ちなみに、小沢一郎大先生も岩手県人のはずなのですが…例外もやはりいらっしゃるようですね。。

  



東日本大震災:買占めを煽っているのはマスコミに他ならない。

2011年03月19日 | 東日本大震災
     
 東北大震災から1週間がたちました。少しずつ被災地への支援や復旧がはじまるとともに、被害の実態も明らかとなってきました。これまでは、情報が錯綜する中で立ち入った話題には触れず、感情的な雑記に留めてきました。1週間が過ぎて、さまざまな問題が徐々に明るみに出てきました。

 その1つに、首都圏の買占め現象があります。首都圏も、甚大といわないまでも大きな地震による被害を受けました。また、その後もM7.0程度の余震の確率が70%と推測され、計画停電が実施されるなど、やはり不安な日々を過ごしました。

 たしかに、これまで戦後の東京が経験したことのない自然災害の危機に見舞われてはいますが、それを踏まえても首都圏の買占め現象は異常に思います。スーパーや電気店から軒並み商品が消えています。オイルショックを体験していない自分には、生まれて初めての光景です。政府や各種著名人などが控えるよう呼びかけてはいますが、どうやら収まる気配はまだなさそうです。

 もちろん各個人の心がけが大切ですが、それ以上に事態を煽っているのは、実はマスコミ(とくにテレビ)に他ならないと私は考えています。マスコミも、政府のコメントや買占め中止運動などを報じてはいます。ただ、どんなに声で100回呼びかけても、品物の無くなった陳列棚を1回見せられてしまえば、相殺してしまうくらいの心理的効果があります。百聞は一見にしかずの通り、映像のインパクトは多大なものです。

 ブラウン管(死語か?)を通じてだから気づきにくいかもしれませんが、大量の視聴者が目の前にいると考えるとどうでしょう。視聴者の集団を大挙してスーパーへ連れて行き、空の陳列棚を見せて「このように買占めが行われ、商店の品薄は危機的な状態です。でも皆さんは買占めしないでください。政府もお願いしていることですし。」と言っているのと同じです。それで不安になるな、気持ちを抑えろという方が無理な話です。報道による影響は報道に携わる者が一番気を遣わなければなりません。

 本当に買占めを控えさせたいと思っているなら(ただ持ってる映像をひけらかしたいだけなら話は別ですが)、現状の報道の仕方を改める必要があります。私が考えただけで、方法は2つあります。

 1つは、情報操作です。まさにリビアや中国で行われているように、国民に見せる映像を意図的に選別するものです。こういった国々では、国内で大規模な暴動が起きるとテレビでは日常の穏やかな風景を流し、何もありませんよと強調します。外国にいる我々から見ると滑稽に映りますが、その国の中いる人が他に情報獲得手段を持っていなければ、その通りに受け取ることでしょう(逆にいうと、それだけ映像の持つ力は大きいということです)。

 ですが、インターネットや携帯電話をはじめ、情報伝達技術が高度に発達した現代日本では、この方法は奏功しないでしょう。そもそも、こうした高速通信手段の普及による情報統制の破綻がエジプトなどでの革命運動の発端といわれています。今の日本で情報統制しようとしても、すぐに漏れてしまうことでしょう。

 そこで2つ目ですが、節約術関連の番組コーナーをたくさん設ければ良いのではないかと考えています。ガソリンが値上がりすればガソリン節約術、確定申告が近づけば控除節約術、ごみ収集が有料化すれば家庭リサイクル術といった具合に、日本人はとかく節約術が好きな民族です。アメリカ人などが見たら「そんな小さな節約に労力をかけるなら、もっと稼ぐ努力をしたらいいんじゃないか?」と笑われそうなくらい、テレビでもしばしば節約術関連のコーナーを見かけます。
 
 私も普段だったら見向きもしませんが、こんなときにこそ威力を発揮するのではないでしょうか。たとえば、ガソリン節約術はもちろんのこと、冷蔵庫の奥に眠るあまり使わない食材を用いたレシピとか。家の中のモノでできる簡単節電術とか。はたまたあるのか分かりませんが、簡単節水術とか。普段ワイドショーで熱弁をふるっているリサイクルの達人さんたちにフル稼働で出演してもらい、その驚きの節約術を披露してもらえば、買えるだけ買い込んどかなきゃと焦る人々に一瞬考える間を与えてくれるはずです。そうなれば、半分くらいの人は、今困っている被災者や自分が買い占めれば困るであろう人々のことを想う余裕が生まれるのではないでしょうか。

 要は、マスコミに求められているのは救助活動真っ只中の被災現場をぶらつくことでも、品物の無い異常事態を煽ることでもなく、社会を鎮静させ方向性を与えることではないでしょうか。パニック状態を映しつづければ、報道の目的に反してパニックをより増大させるだけだということは、少し考えればわかるはずです。そこに気付かないということは、他局とのスクープ映像競争に盲目的になっているのではないかと不安になります。

 最後に、買占め騒動に対する感想ですが、そもそもいくら品物がなくなるかもしれないからといって、両手いっぱいにトイレットペーパーやら米やら水やらを抱えて「買えた、買えた」と悦に入る気には私はなれません。どうしても途中で心にストップがかかります。私も非常用に電池とカセットコンロのガスを買いに行きましたが、店を何軒かまわってようやく見つけた残り4、5個を、全部買い占める気にはどうしてもなれませんでした。次に買いに来る人がいるだろうことを考えると、1個予備で2個買うのが精いっぱいでした。AC(公共広告機構)のいかにも凝ってるぞと言いたげなCMより何より、他人がいることを少しでも思い起こせば、社会は助け合いの方向にいくはずなんですけどね。

  



続感

2011年03月15日 | 東日本大震災

まだ多くを語れる状況にはないようです。ひとまず、今現在感じていることを箇条書きに羅列します。

○計画停電、やるならやる、やらないならやらないでちゃんと計画してください。
 私の住んでいる地区は、何故か昨日も今日も停電は起きませんでした。計画にはもちろん組み込まれていたはずなのですが。こちらはいつ停電してもいいように備えているのですから、一度計画し発表した以上、計画通りに履行してもらいたいものです。鉄道各社が運休したから電力供給量が確保できたなどと言っていますが、その電力を使ってしまえば、また翌日足りなくなるのですから、計画停電をやめる理由にはならないのではないでしょうか?
 我が家はいつ停電が来てもいいように準備はできています。ぜひ、計画通り停めて下さい。その先のさらなる惨事を防ぐために。

○電話回線
 東京で地震に遭った時、その2日前にやはり東北で大きめの地震があったこともあり、自分のところの揺れ以上に「これが仙台の方ならまずい!」と思い、即座に固定と携帯の2つで間断なく電話を掛けました。運よく1度だけつながり、声はほとんど届かないものの、身体の無事は確認できました。
 しかしその後、通信各社の通話規制がはじまり、まったく通話できない状態となりました。まったく感情的ですが、なぜ規制をするのかさっぱり分かりません。災害時だからこそ、通信手段はフル稼働をもって臨むべきなのではないでしょうか?おかげで、多くの人がお互いに安否確認をできない状態となり、不安な時間が延びる一方です。そのくせ、テレビ局と役場の災害対策課などとの電話は通じていて、テレビでこれ見よがしに話しているのをみると、腹が立ちました。そんな回線があるなら、もっと必要な人に振り分けろ!と言いたいですね。

○CM
 昨日あたりから、民放にはCMが入るようになりました。自粛する企業もあれば、普通に流す企業もあるようです。企業の経済活動も重要ですから、流すと割り切ってもらえば別にそれはそれで、です。ただ、自粛した企業の枠分なのか、流れるCMの8割以上がAC(公共広告機構)のものに切り替わっています。1日中ACの同じCMを繰り返し繰り返し聞かされ見させられて、いいかげんにしてほしいと思います。自粛したんならそもそも流さないでほしい。その間に伝えられることがもっとあるでしょう。それとも、ACなら内容的に許されるとでも思ってるんでしょうか?いくらなんでもそれは傲慢です。「自分たちはいいことを言っているんだから、代わりに流しても許される。」そんなACの傲岸な思い上がりが透けて見えるようです。



ひとまずお知らせ

2011年03月11日 | 東日本大震災

 大変な事態となりました。

 現時点でお話しできることはほとんどありません。とりあえず、仙台の私の家族は体の方は無事でした。ただ、家の中は全部ひっくり返っているようで、交通が回復し次第仙台へ飛びます。

 今回の地震で犠牲になられた方々には、心よりご冥福を申し上げます。本当に、心より。また、地震や津波で甚大な被害を受けられた方々の生活の、一刻も早い復旧をお祈り申し上げます。