塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

園田政務官の原発処理水一気飲みパフォーマンスの問題点

2011年10月31日 | 政治
  
 今日の衆議院の代表質問で、小渕優子幹事長代理が父親の小渕恵三元首相と野田現首相を比較して「天と地ほどの差がある」と発言したそうですね。どうしても主観を抜くことはできない実の娘が、父親を「天」とまで祀り上げるのは…どうなんでしょうね。私だったらとても恥ずかしくて言えませんが(笑)。

 さて、同日の政治つながりなのですが、内閣府の園田康博政務官が福島第一原発5、6号機から出た低濃度汚染水を浄化した処理水を、「安全が確認されている」として報道陣の前でコップ一杯一気飲みするというパフォーマンスを披露したそうです。これに対して、園田政務官本人はパフォーマンスではないと気色を成したということですが、私が情報ソースとして最初に見たYahoo経由の産経新聞の記事によれば、園田氏の行動は「波紋を広げそうだ」とのことです。

 これまでも、O-157問題でかいわれ大根がやり玉に挙がった時にはかいわれを、肉骨粉問題が浮上した時には国産牛肉をといった具合に、食品分野で問題が生じたときに、担当の政治家が現物を食べてみせるパフォーマンスはしばしば行われてきました。そのたび「パフォーマンスよりもっと重要なことがあるだろ!」といった感じの批判はありましたが、食べてみせることそれ自体は、大して手間もお金もかかるものではないので、別に毒にも薬にもならないといった感じで世間からはわりと等閑視されてきたように思います。

 今回の園田氏の一気飲みも、「波紋を広げそうだ」とはいうものの、実際には大して世論の関心を買うこともなく終わるように思います。多くの方が、何となくトンチンカンなことをしているようには感じられるでしょうが、それも漠然とした違和感程度に過ぎないのではないでしょうか。

 ですが、私は園田氏の行為ははっきりと問題だと考えます。かいわれ大根や牛肉と今回の処理水で何が違うのかというと、それはかいわれや牛肉は食品ですが、処理水は飲用水ではないということです。飲用ではない水をもってきて「ほうら、飲んでも大丈夫」というのは、私にはパフォーマンスを通り越して人を小馬鹿にした悪ふざけにしか見えません。

 たとえば、肉骨粉によるBSE問題が発生した時、担当大臣(?)はおいしそうにステーキを頬張るパフォーマンスをしました。しかし、BSE(牛海綿状脳症/狂牛病)の感染部位は、基本的に肉ではなく脊髄および脳などの頭部器官であるといわれています。ですから、今回の園田氏と同じ文脈でパフォーマンスを行うのであれば、ステーキではなく、脊髄や脳の粉末を溶かしこんだ水をコップ一杯飲み干すなどしなければならなかったはずです。

 かといって、もしこんなパフォーマンスをされたらどう感じるでしょうか?一般消費者であれば「いくらなんでもやりすぎじゃない?」と思うでしょうし、生産者であれば「畜産農家を馬鹿にしているのか!」と怒りたくなるでしょう。すなわち、飲用でない処理水を飲んで見せるなどという行為は、今も原発で懸命に働く人たちや避難を余儀なくされている住民を愚弄するものであると、私は考えています。

 飲用でない水をわざわざ煮沸までして飲み干した。今回のパフォーマンスの問題は、ここにあると思います。水の安全性を伝えたいのであれば、なにも処理槽から汲んだ水でなくても、原発周辺地域の水道水(使えるのかは知りませんが)や井戸水(一応処理が必要でしょうが)などを使用すれば良かったはずです。水道水をコップ一杯じゃインパクトが足りないというのであれば、2~3リットル飲めば良かったでしょう。また、どうしても処理水を使いたいというのであれば、たとえば水槽に処理水を湛えてそこで魚を飼い、官邸の目立つところにでもおいておけばよかったでしょう。いくらでも方法はあったでしょうに、わざわざ処理水を飲んで見せるなどと発案・実行してしまうあたり、KYここに極まれりという感がしてなりません。

 あるいは、パフォーマンス自体無駄だからやめてしまえ、という意見もあるでしょう。ですが、私見としては、やるだけなら大してコストはかからないのだから、どうぞご自由に、と考えています。ただし、パフォーマンスというものはセンスが命です。「お!このパフォーマンスはなかなか面白い!」と思わせるようなものでなければ、効果は知れています。そのためにアイデアや工夫を凝らす必要があるわけですが、その行きつく先が今回のような品にも配慮にも欠けたものになるのであれば、たしかにいっそのこと全廃禁止にした方が、政府のためにもいいのかもしれません。

   



北杜夫さん訃報にふれて

2011年10月29日 | 徒然
    
 先日、小説家の北杜夫さんが亡くなりました。私が若年の頃、北さんの作品にはたいへん影響を受けたので、御歳だからいづれはとは思っていましたが、いざ亡くなるとショックなものです。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 北さんの作品との出会いは、たしか中学生のときの塾の教材だったと思います。最初に読んだのは『幽霊』だったと思いますが、これは少年のうちに読んでおいて本当に良かったと思っています。一般的には、『どくとるマンボウ』シリーズでおなじみということで、こちらから入る方が多いようですから、ずいぶん斜角から入ったという感じでしょうか。

 思えば、塾の教材には良い作品・著名な作品が多く取り上げられていたように思います。学校の教科書の内容はほとんど(というかまったく)覚えていないのですが。もちろん塾の教材ですから、現場では問題を解くための読み方をするわけですが、そこで「あ、なんか面白い内容だな」と思うと、後日本屋で探してみるということをよくしていました(当時はアマゾンなんかありませんでしたからね)。私が最も尊敬する小説家の1人の梶井基次郎も、最初の出会いは塾教材でした。

 小説に限らず、普段自分からは手に取ることのないようなエッセイや新書の類も、塾教材が発端で読んでみたということがしばしばありました。なかには、そこから原書内に登場する映画や芸術作品などへと関心が派生することもありました。人間、どこに出会いが待っているか分からないものです。

 かと思えば、いざ本として買って読んでみたら、娼婦の話だったり凄惨な死のドラマだったりして、中学生にはたいへんな衝撃だったこともあります(笑)。当然、教材には無難な場面の短い部分だけが抜粋されている訳ですから、そのような本だと知ったときの驚きは、ひとしおでした。

 とまぁ、こんなわけで、私の場合は多くの知識を学校以上に私塾から得ていたように思います。このように書くと、学校側は「私塾は受験専用の知識を提供する場所で、学校は受験勉強にとらわれない幅広い知識を得る場所だ」などと反論することでしょう。ですが、受験勉強を超えた知識というのも、今から思い返すと、やはり私はもっぱら私塾から仕入れていました。今回の話は科目でいえば国語科に絞られたものですが、学校教師および学校教材制作サイドにはもう少し奮起してもらいたいところです。それだけ多くの優良な作品を取り上げるということは、受験用の問題制作が目的とはいえ、それだけより多くの作品に目を通しているということでしょうから。

 さて、話を少し無理やりとばしましたが、北さんの逝去には改めて時代の転換を感じます。訃報にふれた日の私のカバンのなかにライトノベルが入っていたのを見て、よりいっそう感じてしまいました(笑)。

  



人間はどこからはじまるのか:欧州司法裁判所によるES細胞研究の禁止判決

2011年10月24日 | 社会考
    
 横浜ベイスターズが「モバゲー・ベイスターズ」になるとか…。申し訳ないですけど、ちょっとチープな感じの響きに思わず吹き出してしまいました^^;

 さて、ちょうど1週間ほど前の話題なのですが、今月18日、ルクセンブルクの欧州司法裁判所がヒトの受精卵をもととするES細胞(胚性幹細胞)を用いた技術について、研究目的であっても特許を認めないとする決定を下しました。特許を必要としない、すなわち実用化を考えていない研究など基本的にあり得ませんから、事実上研究そのものの禁止を言い渡したのと同義といえます。この判決が発効した時点で、EU内の研究者は海外へ拠点を移さざるを得なくなるため、これまでES細胞研究を推進してきた国では批判が高まっているようです。

 ES細胞とは、人間でいえば受精からまもなくの胚の状態における分化細胞のことです。この細胞は将来的に個体を構成するあらゆる組織のもととなる分化万能細胞であるため、いわゆる再生医療の研究にとって欠かせない材料といえます。ただし、ES細胞は受精卵を破壊することでしか得られないため、倫理上の問題が当初より指摘されてきました。

 それに対して、血や皮下組織など、およそ新しい生命の発生と関係のない細胞から分化万能細胞をつくりだそうというのが、iPS細胞技術です。…などと偉そうにいえるほど詳しくはないのですが、iPS細胞は一般の体細胞の核の情報を書き換え、もとのES細胞だったころへ戻したものということのようです。つまり、iPS細胞そのものの製造には受精卵の破壊といった倫理的な問題は生じないものの、その研究のためには当然サンプルとしてのES細胞が必要になりますから、欧州司法裁判所の決定はiPS細胞の研究をも不可能にするものと考えられます。

 ところで、やれクローン技術だES細胞だと問題になるとき、たいていの報道では倫理上・宗教上の問題としてやや曖昧に片づけられてしまいます。欧州司法裁判所は、いったいに何を判断基準に今回の判決を下したのでしょうか。

 このように問われると、困ってしまう方は結構多いのではないでしょうか。日本ではこれまであまり真剣にクローンやES細胞に関する議論がなされてきたようには思われません。世界的に議論があることは承知しつつも、何となく倫理的によくない気がする、という程度で深く考える機会はあまりないように感じます。

 私が今回の記事を書くきっかけとなった議論の場でも、どうもなかなか納得してもらえなかったのですが、論点は比較的明確で、「人間(あるいは生命)はどこからはじまるのか」という1点にあります。つまり、どこからが人間(生命)でどこまでが人間(生命)以前なのか、という問いです。

 たとえば、ドイツではそもそももとから胚の利用は禁じられていました。その根拠は、「人間の尊厳は不可侵である」とするドイツ基本法(事実上の憲法)第一条です。つまり、「人間」の尊厳は不可侵である→受精卵は人間のはじまりの萌芽である→受精卵は不可侵である、となるわけです。

 逆に、受精卵がまだ人間とは認められないと考えれば、倫理上も宗教上も胚の利用は問題なくなるということになります。今回の欧州司法裁判所の判決は、ES細胞を抱える胚がすでに人間(のはじまり)であると認定されたことが第一のポイントとなるわけです。

 ところで、ES細胞やiPS細胞による再生医療は、これから最も期待される医療技術の1つといえるでしょう。その希望の技術を根っこから禁じているドイツの姿勢の裏側には、第二次世界大戦時にナチスが行った非道に対する強い反省がこめられているといわれています。翻って、同じように人体実験や侵略行為、軍部による国民への弾圧などを行ってきたはずの日本では、生命医療技術に関する倫理上の議論はほとんどゼロといってよいほどありません。日本は、今回の判決で流出するであろうEU圏からの研究者の大きな受け入れ先の1つとさえいわれています。

 何もドイツのようにしろというわけではありませんが、死刑制度や妊娠中絶などと同様、どうも日本には生命倫理に関する議論となると後回しになる傾向があるような気がします。今回の欧州司法裁判所の決定についても、日本ではほとんど報道されていなように思われます。そのような風潮の中、「人間(生命)はどこからはじまるのか?」という問いは、比較的議論しやすい導入的なテーマのように思うので、これを機会にみなさま一度親しい人たちの間ででも話し合ってみてはいかがでしょうか?

   



夏の田んぼと外来種(生物画像注意)

2011年10月15日 | 徒然

 先日夏の蜘蛛の話をアップしましたが、あれから写真を整理していたら、夏の田んぼのひとコマが何枚か出てきました。可愛いのは畔の蛙で、一歩一歩歩くごとにぴょんこぴょんこと水を張った田んぼへ飛び込んでいきます。

 
群馬県にて


 
京都市内にて


 で、京都のとある田んぼの畔を歩いていると、水の中に大量の大きな貝がいるのを発見しました。私は陸貝には詳しくないので、「きっとタニシなんだろう。のどかだなー。」と思いながら写真を撮りました。ここからは、生物系の写真は無問題という方のみ閲覧されることを推奨します。


 

 ちょっと大きさが分からないかと思いますが、5センチ以上はあります。これが田んぼの中にわさわさといました。私も、さすがにタニシにしてはちょっと大きいよなぁ…とは思いましたが、あとで調べてみてびっくり。ジャンボタニシという外来種なんだそうです。正式名称はスクミリンゴ貝といい、南米原産だそうです。当初は食用として養殖目的で輸入されていたものが、今では田んぼにはびこり稲を食い荒らす害虫になっているのだそうです。

 何といっても毒々しいのは、その卵です。最初私は分からず、奇妙な物体として写真に収めましたが、この貝を調べる過程でその卵と知りました。何がビックリって、非日本的な鮮やかなピンク色をしているんです。

 

 写真としてクローズアップして撮っているので、貝も卵も1つ(1セット)ずつですが、現地には貝はうじゃうじゃ、卵はあちこちにありました。外来種だけあって恐ろしいほどの繁殖力です。のどかな日本の田園風景さえもが、外来種の跋扈によって脅かされているということで、情緒にばかり浸ってもいられないんだなぁと痛感しました。

  


葬儀会館反対…なぜ?

2011年10月11日 | 徒然
  
 昨日10月10日は体育の日ですね。晴れの特異日ともいわれますが、今年は前日に雨が降るなど、今一つの天候でした。

 さて、今日も駄文です。ある秋の麗らかな昼下がり、郊外の閑静な住宅街を歩いていた時のこと。町の一角に葬儀会館があるのが目にとまりました。そして、その周囲の家々には、「葬儀場建設反対」ののぼりが数多く並んでいました。おそらくは、住民の反対をよそに建設が完了してしまったのでしょう。

 ですが、葬儀場とはいっても、いわゆるセレモニーホールとか何とか最近では横文字で呼ばれているやつで、当然ながらそこで火葬したり、読経の声が漏れ聞こえたりするわけではありません。「葬儀場建設反対」というのぼりは、結構あちこちの住宅街で見られますが、実際のところそれほど迷惑な建物なのかな?という疑問を実はもっています。

 私は、地方を訪ね歩く趣味の関係上、こうした葬儀会館をよく目にします。ですが、近くを通ってもとりたてて周辺の生活に迷惑になるようなことがあるようには思えません。騒音もなければ、悪臭も、夜の過剰な発光などもありません。

 逆に、こうしたセレモニーホールは、たいていなぜか広い駐車場を兼ね備え、そしてそこには大抵ほとんど車が止まっていません。建物も、葬式のイメージをなるべく薄めたモダンなものが多く、むしろ周辺の美的環境の向上に役立っているのではないかと思うくらいです。

 結局のところ、葬儀会館に反対するのは「葬式=死」というマイナスのイメージによるところが大きいのではないのかなと思うのです。あるいは、付近に葬儀関連施設ができることで自宅の地価が下がるとか、現実的な理由もあるのかもしれませんが、突き詰めればあくまでイメージや気持ちの問題なのではないかと個人的には考えています。付近に当該の問題を抱えていないので、詳しいことは分からないのですが、どなたかご存知の方がいればお教え願えればと思います。