塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

奇跡のような戦国大名:安房里見氏と肥前有馬氏

2018年06月28日 | 歴史
 
古来名門の上位者が、後出の実力者に取って代わられる下剋上の戦国時代。なかでも最大の出世頭は、草履取りから天下人にまでなった豊臣秀吉でしょう。ただ、秀吉がそこまでのし上がれたのは、天下統一へ邁進していた織田信長の家臣として、戦国大名並みの所領を与えられていたことが大きな要因として挙げられます。

戦国大名と呼ばれる大勢力の多くも、守護や守護代、あるいは又守護代などから発展した例が多く、土豪レベルから独立を保ってそこまでのし上がるというのは、実際にはあまり見られないような気がします。秀吉以外で劇的な急成長を遂げた大名としては、土佐の一領主から親子2代で四国に覇を唱えるまでに成長した長宗我部氏や、安芸国の一有力国人から中国・九州10か国以上に勢力を広げた毛利氏、守護京極氏の一家臣から近江国北半を治めるまでに至った浅井氏、同様の条件下から九州を三分する勢力にまでのし上がった龍造寺氏などが挙げられるでしょう。

とはいえこれらの例も、地方世界の片隅から突如として湧き上がってきたわけではなく、もともと地方国内の中心部でそれなりの地盤は有していた勢力といえます。地勢・地縁・血縁など、ある程度有利な条件が揃っていないと、戦国大名化への舵を切るのはやはり難しいように思われます。

そのようななかで、スタート地点から考えると戦国大名にまで登り詰めたのは奇跡ではないかと思えるような大名が、私の知る限2家あります。房総の里見氏と肥前の有馬氏です。

里見氏は関東の雄の北条氏と争いながら、最盛期には千葉県の半分以上を勢力圏としていました。出自は清和源氏流で足利氏の同族、新田氏の庶流といわれ、その発祥の地は現在の群馬県高崎市とされています。そして里見氏が千葉県南部の安房国に移ったのは、15世紀中ごろのことと考えられています。ただ安房里見氏初代とされる里見義実は、『南総里見八犬伝』にも登場する重要人物ですが、史料上は実在していたかどうか裏付けが取れていません。里見氏がどういう経緯で安房国に土着したのかについても、諸説あってはっきりしていないのが実情です。

 

 
里見氏が居城とした
佐貫城(上)と久留里城(下)


来歴のあやふやな里見氏ですが、安房での最初の本拠地は白浜(現南房総市)にあったとみられています。今でこそ首都圏の南国リゾートとなっている房総白浜ですが、地図を開いてみると分かる通り、房総半島の先っちょのそのまた先っちょにあり、街道筋からも外れていてとても発展性の高い土地とはいえません。この白浜で一介の外様勢力からスタートして、安房国の中心である館山平野にいた同国の事実上の支配者安西氏を倒し、さらには房総半島全体を席巻するというのは、地図上からだけ見れば相当な奇跡のように思うのです。

 
里見氏のおおよその最大版図と
スタート時の勢力(緑丸)


他方の肥前有馬氏は、天草四郎らが島原の乱で立て籠った原城や、その近くの日野江城を拠点に、最盛期には長崎県のほとんどと佐賀県の一部にまで版図を広げました。藤原純友の子孫を自称していますが、こちらも島原半島に土着した経緯についてはよくわかっていません。


原城跡


有馬氏の拠点である原城と日野江城についても、江戸時代に島原半島の中心となった島原城からみると、かなり半島の南端近くに偏っています。とくに周囲に対して有利な地理的条件があったようにも思えず、肥前国の中心である佐賀平野からも遠く隔たっています。ここからスタートして有力大名にのし上がるというのは、やはり地図上だけで判断するならかなり難易度が高いように思われます。

 
有馬氏のおおよその最大版図と
スタート時の勢力(緑丸)


では、この両家の大化けにはどのような理由が考えられるでしょうか。また、そこには共通点があるのでしょうか。

肥前有馬氏については、南蛮貿易に代表されるような海運による収入が、勢力拡大に資したといわれています。ただ、複雑な海岸線をもつ肥前国で良港をもっているのは有馬氏に限ったことではなく、決定的な要因とはいえないように思います。むしろ有馬氏の対外政策で特徴的なのは、養子縁組を積極的に活用している点にあるといえます。江戸時代まで大名として存続した大村氏や、千々石ミゲルを輩出した千々石氏、松浦水軍を率いる松浦党嫡流の相神浦松浦氏、さらには有力国人の西郷氏や長崎氏など、肥前国内の多くの有力豪族に養子を送り込みました。

しかし他方の里見氏については、養子政策をとっていた様子はみられず、海上交易で潤っていたという話もとくに聞きません。したがって、これらの点は辺境からのし上がるための必要条件というわけではなさそうです。

では、両家に共通していることは何かと考えると、多分に憶測ですが大きく3つあると思われます。1つは近くに強力な大名がいないこと、もう1つは名君が二代以上続くこと、そして最後に、周囲に付け入るチャンスが巡ってくることです。

有馬氏を戦国大名に脱皮させたとされる有馬貴純のころ、のちに肥前の大大名となる龍造寺氏はまだ一国人領主に過ぎず、その龍造寺氏を倒すことになる島津氏は、薩摩国内で同族争いをしている状態。九州の最大勢力の座を争っていた大友氏と大内氏は、いずれも島原半島からは遠く離れていました。

そのため現在の長崎県内には、有馬氏と同程度の小勢力が盤踞していて、貴純はこれらをひとつひとつ取り込みながら勢力を拡大しました。とくに黎明期には、近隣の領主に後継ぎの男子がいないところに付け込んで、自分の子を養子に入れるというやり方で少しずつ地盤を確立していったようです。

貴純の子尚鑑は治政が短かったのか事績があまり伝わっていませんが、その子晴純は有馬氏の最盛期を築いた名君として知られています。とはいえ晴純一代でそこまで至った訳ではなく、貴純が戦国大名としての基礎を固めていたからこその飛躍といえます。

一方の里見氏の前に立ちふさがった安西氏や真里谷氏は、それぞれ安房国と上総国の戦国大名レベルの勢力でした。しかし、太刀打ちできないほど強力だったわけではなく、何よりそれぞれ内紛を抱えていました。内輪のごたごたを最大限に利用する形で、里見氏はライバルをひとつずつ退けて発展していったのです。とはいえ里見氏がこの両氏を独力で倒したことはやはり驚嘆に値することで、それは第2の点にかかわってきます。

『南総里見八犬伝』ではすべての因果の始まりのような役回りの里見義実ですが、実在したとすれば安房里見氏の基礎を築いた人物で、その後に続く義通の代に、安房一国を掌握したとみられています。そして、里見義堯・義弘父子のころに、里見氏は最盛期を迎えました。ただし義堯の家督相続は、本来の嫡流である従弟義豊を攻め滅ぼしての下克上だったとされています。もしこのとき周囲に野心家の名将がいれば、あるいは里見氏も窮地に追いやられていたかもしれません。ですが、義堯自身が知勇兼備の将だったこともあり、ピンチにまでは至らなかったようです。

それぞれの勢力の栄枯盛衰には、もちろんそれぞれ固有の理由が絡み合っています。ですが、特定の条件下にある勢力が同様の力学的作用を見せるとき、そこには何かしら共通の要因が関わっていることが考えられます。私が今回のテーマで安房里見・肥前有馬両家について直感的に思いついた仮説は、一見すると当たり前のようなものばかりです。ですが、これらの要因が歯車のようにピッタリ噛み合う状況というと、実は日本広しといえども意外と少ないように思うのです。

 



黒田官兵衛という人物の個人的評価:「出しゃばり」が摘んだ成功者の芽

2014年08月31日 | 歴史
 
 今年の大河ドラマは、近年ではかなり成功している部類のようで、とくに主演の岡田准一さんの好演が評価されているように聞いています。私も、岡田さんの演技は重厚で好感をもっているのですが、いかんせん脚本が例年通り冗長なので、結局長くは観られないでいます。

 最後にまともに見たのは山崎の戦いの回だったと思いますが、(私にとってはどうでもよい)ホームドラマの場面が大部分を占め、(私にとっては重要な)肝心の戦いのシーンがわずか2分ほどで終わってしまうという構成に、改めて失望し直しました。歴史モノのホームドラマは、私には朝の連続テレビ小説でお腹いっぱいです。
 
 さて、愚痴はさておき、当の黒田官兵衛孝高(以下官兵衛で統一します)という人物は、評価の難しい武将であるといえると思います。ドラマの主人公としては、「軍師」とタイトルについている通り、豊臣秀吉を天下人にまで押し上げた陰の立役者として描ければ十分なのでしょうが、あくまでひとりの戦国武将・豊臣大名としてみると、必ずしも成功した人物とは言い切れない面があります。

 黒田家は、関ヶ原の戦いの功績により筑前52万石の大封を得るに至りました。ですが、これは官兵衛に対するものではなく、すでに家督を継いでいた息子の長政の戦功に報いたものです。官兵衛自身がゲットできた領地は、秀吉から与えられた豊前6郡12万石(現在の大分県中津市を中心とした地域)にとどまっています。

 この処遇については、秀吉が自分の天下をも脅かしかねない官兵衛の器量を恐れたためというのが、理由として一般的に流布しています。たしかに、官兵衛は関ヶ原の戦いで、にわか作りの傭兵集団で九州を席巻し、一大勢力を築き上げました。関ヶ原での本戦が短期決戦で幕を閉じたため、奥州の伊達政宗と共に、天下取りの夢が潰えてしまったともいわれています(もちろん、本人が公言した訳ではありませんが)。

 秀吉が官兵衛の力量を恐れて高禄を与えなかったのだとすれば、それは逆説的に官兵衛の実力を高く評価していることになります。ですが、私は官兵衛という人物について、権謀術数には間違いなく長けていた反面、少なくとも性格においてはやや難のある人物だったのではないかと考えています。もちろん、性格面で完璧な人間などいませんが、官兵衛の場合はそれが出世の妨げになってしまうほど目立つものだったのではないかと推察しています。

 その難点とは、官兵衛はかなりの「出しゃばり」だったのではないかというものです。ドラマでは熟慮遠謀・沈思黙考といった、どちらかといえばシブい役どころとなっているようですが、種々のエピソードからみえてくる実際の官兵衛は、むしろそうした裏方に徹するタイプからは程遠い性格の持ち主だったように感じられます。

 もともと、黒田氏は播磨の小領主に過ぎなかったところ、御着城主小寺則職・政職父子に取り立てられ、とりわけ政職によって小寺氏重臣に引き上げられたとされています(ちなみに、大河ドラマでの政職は風采の上がらないやや惰弱な人物として演じられていますが、実際には下剋上で小大名規模にまでのし上がった実力者です)。織田信長の勢力が畿内に及ぶと、官兵衛は小寺氏の使者として、秀吉の仲介を経て信長に謁見します。そして、播磨平定軍として秀吉がやってくると、官兵衛は自らの居城姫山城(後の姫路城)を秀吉の拠点として差し出して、一族郎党を退去させるという挙に出ます。

 後世の我々がエピソードとして聞く分には、後の天下人に対して機転を利かせた第一歩というように感じられるかもしれません。ですが、少なくともまだ直接の主人であった政職からみれば、自分の頭越しに信長直属の司令官に媚を売るような行為は、明らかに不愉快であったものと思われます。

 さらに、官兵衛は子の松寿丸(後の長政)を信長へ人質に差し出しました。ドラマでは、政職が自分の子を出し渋ったために、やむなく官兵衛が代わりに長政を送ったという筋書きになっています。ですが、そのような事実を示すものはなく、そもそも小寺氏をはじめ、小寺氏とほぼ同格の大名別所氏や、小寺氏の形式上の主君に当たる播磨守護赤松氏にも、家族を人質に出したという記録はみられません。人質の要求がなかったとまでは判じかねますが、播磨に割拠する小大名たちに先んじて、官兵衛が目立つ形で人質を率先的に送ったというのが実際のところのように思われます。自分たちの頭越しにそのようなアピールをされては、やはり小寺氏らにとっては面白いはずはなかったでしょう。

 別所長治、ついで荒木村重が信長に反旗を翻すと、政職もこれに応じました。3氏が信長に背いた理由は諸説あり定まってはいません。ですが、少なくとも政職に関してみれば、官兵衛が秀吉の側近として重用されるのに対して、播磨のもともとの主要勢力であった自分が顧みられなくなっていく現状に、不満が蓄積していたのではないかとも推測されます。

 このとき、官兵衛は旧知とされる村重の説得に赴きましたが、逆に捕えられて土牢に監禁されてしまいました。使者への対応としてはかなり異例なもので、一体どんな説得の仕方をすれば、斬られもせず生かして帰すこともせず、足腰が立たなくなるまで牢に閉じ込めておくという措置がとられるに至るのか、不思議でなりません。「出しゃばり」というのとは違うかもしれませんが、殺すわけにも帰すわけにもいかず、かといって顔も見たくないと思わせるような何かがあったのでしょう。

 本能寺の変の際、突然の凶報に取り乱す秀吉に、官兵衛が「機会が参りましたな」と耳打ちしたとする逸話があります。後世の書物が初出であり真偽のほどは分かりませんが、もし本当だとすれば、これは出過ぎた真似にもほどがあるでしょう。言われた人間がどう感じるかを考えれば、もう少し落ち着いてから機をみて(もっといえば意見を求められてから)献策すべきことでしょうに、思いついた瞬間にパッと口にしてしまうようでは、現代のお調子者な政治家と同レベルとさえいえてしまいます。この点については、官兵衛は後に親しい間柄となった小早川隆景から、「貴殿は頭の回転が良すぎて決断も早いから、逆に後悔することも多いだろう」という趣旨のたしなめを受けています。

 また、文禄五年(1596)の慶長伏見地震で秀吉がいた伏見城が崩れたときには、真っ先に城下の屋敷から駆け付けたものの、「俺が死ななくて残念であったであろう」と言われたといわれています。これも真偽のほどは不明ですが、そういわれても仕方のないような空気が、当時2人の間には流れていたのではないかと推察されます。事実とすれば、秀吉が官兵衛の野心と才覚を恐れての発言というよりは、何かと出しゃばる官兵衛に、信長に草履取りから取り入って這い上がった自身の下積み時代を重ね合わせ、そんな官兵衛が本能寺の変に際しては冷静沈着に振る舞っていたことなどを思い出し、目の前の献身ぶりが空々しく映ってしまったと考える方がしっくりいくような気がします。

 さて、九州平定戦で活躍した官兵衛は、先述の通り豊前中津12万石に封じられます。この石高は、よく官兵衛の実力を恐れてわざと低く抑えられたものだといわれます。ですが、たとえば豊臣政権の運営実務を担った譜代衆である三中老や五奉行の石高と比較すると、軒並み10万石台から最高で22万石程度であり、豊臣家の譜代大名としてみれば必ずしも不当に少なくされているとまではいえないように思います。

 むしろ、領地関連で気になるのは、石田三成との関係です。三成と官兵衛の仲がどうだったかについては分かりませんが、秀吉の側近の座を巡ってライバル関係にあったことは想像に難くありません。文禄二年(1593)に隣国豊後の大友吉統(宗麟の子)が秀吉の勘気を蒙って改易されると、豊後国内には太田一吉や福原直高(長堯)、垣見一直、熊谷直盛といった、三成に近かったり縁戚だったりする武将が送り込まれました。たまたま豊後一国がぽっかり空いたためとはいえ、これだけ三成関連の大名ばかりが封じられるという裏には、何か理由があるように邪推がはたらきます。そこで直感的に考えられるのが、隣国黒田家への対抗です。既述のとおり官兵衛と三成が直接争った記録はありませんが、五奉行筆頭という三成の出世ぶりに対して、官兵衛は軍師とは呼ばれるもののとくにそういったポストがあるわけではなく、秀吉の天下統一後の扱いは冷遇といっても良いようにすら思われます。秀吉死後、黒田父子が真っ先に徳川家康に接近したのは、三成との政争に敗れて豊臣政権内での影響力を失っていたことが大きく関わっているように感じるのです。

 関ヶ原の戦い後、長政が筑前52万石に大幅加増されると、官兵衛は福岡城築城には携わったものと思われますが、まもなく太宰府天満宮に隠棲しています。その後は政治の表舞台には出ることなく、慶長九年(1604)に亡くなっています。勝手な想像ですが、自身では手にすることのなかった52万石という大禄を長政が得るに至って、もはや自分が表に出ることは黒田家にとって害でしかないとついに悟り、すっぱりと隠退する決意をもったのではないかと推測しています。

 
太宰府天満宮境内の官兵衛草庵跡


 蛇足ですが、関ヶ原の戦いにおいて九州で暴れ回った官兵衛には、天下への野心があったともいわれ、実際に本人もそれとなく仄めかすような発言をしていたともいわれています。ですが、私には本気で天下人になろうとまでは考えていなかったものと思っています。たしかに、官兵衛は九州各地で西軍の大名を次々と降していますが、それらはすべて自分と同格かそれ以下の規模にすぎず、しかもそのほとんどは大名自身が兵を率いて中央に出向いていました。もし本気で九州を平定しようと思ったら、主力を残している島津氏や鍋島氏、加藤氏を降さなければなりません。さらに、官兵衛は軍略調略の才を恐れられてはいたでしょうが、残念ながら秀吉のような余人を惹き付ける魅力には欠けていたように思います。よほど混沌とした状態に逆戻りしない限りは、官兵衛が天下を握る目はほとんどなかったでしょう。官兵衛自身が天下を口にしたとしても、それは頭に浮かんだ自虐を込めた皮肉が、彼の性格によってすぐに言明されてしまったものと解釈することもできます。
 
 最後に、ドラマの方は残り3か月弱で終幕となるのでしょうが、ちゃんと話を回収しきれるのかちょっと心配です。現在が九州平定のあたりということですから、今後放送が予想されるエピソードは、豊前入国と城井宇都宮氏一族の虐殺(くわしくはこちらを参照)→小田原の役→文禄の役→秀次事件→慶長伏見地震→慶長の役→秀吉の死→長政の家康接近→関ヶ原の戦い(石垣原の戦い)→福岡転封→太宰府隠棲&死去と、まだまだ見どころが多数残っています。これらをちゃんと最後までやりきれるのか、どうも尻すぼみになってしまいそうな気がしてなりません。まぁ、もともともう観ていないので余計なお世話だとは思いますが。

 



「天空の城」竹田城址人気についての雑感

2013年12月15日 | 歴史

 師走もはや半分が過ぎました。まだ一年の総括には早いですが、今年だけで持病が2つも増えてしまった私としては、残り半月無事に過ごせれば何も言うことはありません(笑)。

 さて、兵庫県朝来市(旧和田山町)にある竹田城址という古城址の名を聞いたことのある方は、最近ではかなり多くなったのではないでしょうか。建物は残っていないものの、峻険な山上に石垣が累々と連なるさまから、「天空の城」や「日本のマチュピチュ」としてメディアでしばしば喧伝されている城跡です。

 竹田城のある旧和田山町は、県北部に近い山間部で、お世辞にも交通の便は良いとはいえません(一応、城のすぐ麓にJR播但線の竹田駅があります)。朝来市もそれほど観光に力を入れている自治体とは言い難いようで、にわかに急増した訪城客への対応は後手後手に回っているようです。世界遺産に登録された富士山と同様、増え続ける観光客が史跡に与える影響への心配から、竹田城址でも登山料を徴収するようになりましたが、それでも訪れた登城者の重みで石垣が孕んでしまったということですから、その人気ぶりは尋常ではありません。他方で、登城者が誤って石垣から転落するという事故も起きており、今月まで緊急の安全対策工事が行われているとのことです。

 私の城跡オタクっぷりは、こちらのページにある通りですが、周囲からはこの竹田城址についての感想や、「もう行ったのか?」などの質問をよく受けます。ですが、この場をかりてはっきり申し上げますと、私は竹田城址には個人的にあまり食指が動きません。理由はいろいろとありますが、一言でいえば「キレイ」であることがアイデンティティーとなっている城には、あまり心が動かなくなってしまっているのです。お城に限らずオタク道に邁進している方なら共感いただけるのではないかと思うのですが、「キレイ」に整ったものよりも、一見「キタナイ」、崩れかけの石垣を藪のなかに発見した時の方が、圧倒的にキュンとくるカラダになってしまっているのです^^;

 念のためにことわっておきますと、私も竹田城址の美しさや重要性を認めない訳ではなく、ただ私のなかの「訪れたいお城リスト」においては、竹田城址の順位はかなり低いところにランクされているというだけです。

 実は今年、私は竹田城址の割とすぐ近くを通りかかっています。10月に出雲から山陰を東へとスライドする形で旅行したのですが、城崎温泉から特急こうのとりに乗って阪神方面へと向かいました。その際、播但線の終点であり、竹田駅の隣駅でもある和田山駅に停車しましたが、車内アナウンスでも「天空の城へは当駅でお乗換え」としっかり流れ、実際に降りる客も少なくありませんでした。私も寄り道しようと思えばできたのですが、残念ながら腰は上がりませんでした。私には、城崎温泉と和田山の中間あたりにある出石城(有子山城)の方が、よほど魅力的でした。

 ということで、「天空の城」ともてはやされる一連の報道について、私にはあまり意見も感想もありません。だったらわざわざ記事なぞ書くなよといったところですが、今年の竹田城址ブームを見ていて1つだけ、「ミーハーの行動力ってすごいなぁ~」と感じました。

 たしかに、山の上に総石垣の城跡が非常に良好な形で残っているというのは珍しく美しいように思いますが、実際には日本三大山城と呼ばれる岩村城・備中松山城・高取城をはじめ、数え上げれば結構あります。竹田城址が有名になったのは、日本100名城に選定されたからともいわれますが、竹田城がなぜ「名城」のトップ100に入っているのか私には納得がいきません(100名城なるものに対する疑問は竹田城に限ったことではないのですが、今回の主題と離れるので回を改めることにします)。山の上の美しい石垣を目にするためだけに、私のような城跡オタクでもない一般の人々がわざわざ山間の和田山までやってくるというのが、和田山の方には申し訳ないですがちょっと奇特に感じるのです。

 私が思うに、今日の竹田城址ブームは、今年に入ってテレビやネット、雑誌などで雲海に浮かぶ竹田城の石垣の姿があちらこちらと掲載されるようになったからではないかとみています。一面の雲の海から、石垣だけがポッコリと顔を出している景色は、日本広しといえどもそうそうあるものではないでしょう。この点だけは、竹田城が他に比して優れている点といえるでしょう(とはいえ、「名城」というのとは違うと考えていますが)。ですが、この名物の風景を目にしようとするなら、雲海の発生条件である気温差の激しい早朝(秋が適季といわれています)に、竹田城址の周囲の、城跡より高い山に登らなければなりません。ましてや、当の城跡に登ってしまったら、「日本のマチュピチュ」と呼ばれる壮麗な石垣の全景を望むことはできません。この点、各種メディアの写真・映像に魅せられて訪れたミーハーの方々がどのように考えているのか、非常に気になります。

 もう1つ気になるのは、一般の方々は竹田城という城についてどのくらいご存じなのかということです。私からみると、竹田城のもっとも重要な点は、関ヶ原の戦いからまもなく廃城となったというところにあります。先に挙げた三大山城をはじめ、今日まで山上に美しい高石垣を残す城のほとんどは、関ヶ原の戦いの後、すなわち江戸時代に入ってから築かれたり改修されたりしたものです。それに対して、竹田城は江戸時代にはすでに廃墟だったわけですから、江戸時代以前のままの姿を残しており、徳川の前の豊臣時代の築城形態を知ることのできる貴重な遺構といえるのです。とはいえ、そんなことは一般の人たちにはあまり関心の湧かないことでしょうし、そもそも竹田城が誰の城であったのか、知っている方がどれくらいいらっしゃるのか疑問です。竹田城は、戦国時代を通じて山名氏の重臣太田垣氏の居城であり、織田信長の家臣であった豊臣秀吉(当時は羽柴姓)によって攻め落とされ、一時期秀吉の弟の秀長に預けられていましたが、現在に残る城に改修したのは、関ヶ原の戦いまで城主であった斎村政広でした。といって、太田垣氏や斎村氏の名を知っている人はそう多くはないでしょう。つまり、歴戦の城ではあるものの、その戦いや城主については決して有名とはいえず、歴史上の名所という点からも、一般の興味を惹くところとは言い難いように思います。

 以上のことから、一般の人々が竹田城址の本丸をめがけて年間単位数十万人もやってくる理由というのは、「メディアで取り上げられているから」「何か最近よく話題になっているから」ということ以外には、どうにもこうにも説明がつかないのです。もしそうであるなら、最近トレンドだからというだけで、大して関心もないところへ次から次へと人が押し寄せるというところに、私はミーハーと呼ばれる種類の人々の集団的な底力のようなものを感じるのです。それが、和田山の地域活性化につながり、ひいては竹田城址の本格的な調査や保存につながってくれれば、それ以上は望むべくもないかなと、一介の城オタクの考えるところであります。

ただ怖いのは、ミーハーの興味は常に一過性のものなので、現在の通りのブームはあと1~2年もすれば過ぎ去ってしまうだろうということです。ブームが去ったとき、一通りの環境整備がきちんと済んでおり、あとは名のみを求めるミーハーでない、実を求める観光客をしっかり掴める城跡となっているかどうかが、私の本当の気がかりです。

ちなみに、先に挙げた通り、竹田城は織田家臣時代の秀吉に攻め落とされているため、おそらく来年の大河ドラマに登場することでしょう。黒田官兵衛が直接城攻めに関わったという記録はないようですが、ドラマではきっとすんごい計略でもってあざやかに落としてくれることと思いますので、訪れた方はドラマの前半に期待なさると良いでしょう。




雑賀衆と鈴木孫一 :虚像の反骨ヒーロー

2013年07月03日 | 歴史
  
 本日放送のNHK「歴史秘話ヒストリア」では、鈴木孫一と雑賀衆が取り上げられていました。この番組は、ときどき新しく発見された事実などを拾って興味深い内容もあるのですが、あらかじめ決まったイメージや結論に沿うように話が構成されるという、歴史を扱ううえでもっとも慎まなければならない悪挙に訴えることが少なくありません。今回の孫一と雑賀衆でも、その傾向は如実に表れており、いつにもまして鼻につくものでした。

 「雑賀衆と鈴木孫一」というと、おそらくコーエーさんの影響で、織田信長という大敵に屈することなく歯向かい続けた反骨のヒーローのようなイメージが定着しています。たしかに、雑賀衆は地力では圧倒的に劣るものの、優れた鉄砲術を駆使して信長を大いに苦しめました。ですが、近年の研究では、雑賀衆も決して一枚岩ではなく、生き残りのためにそれぞれがお互いを牽制し合いながら自家の道を探っていた姿が浮かび上がってきています。孫一についても、くわしくみていくと、従来のステレオタイプ的なイメージとはだいぶ違った人物であったことがうかがえます。

 そもそも雑賀衆とは、現在の和歌山県紀ノ川流域の小領主たちの緩やかな連合体を指します。鈴木孫一は、そのなかのリーダー格の一家ですが、それでも所領の規模はたかが知れています。名前は「孫市」とも、苗字も「雑賀」とされることもあります。雑賀衆は、大名クラスの大兵力を動員することはできませんが、鉄砲術に通じ大量の鉄砲を所有していたとされ、信長に抵抗する勢力に傭兵のような形で加担し、信長軍を苦しめていました。

 雑賀衆の鉄砲術を危険視した信長は、天正五年(1577)にいわゆる雑賀合戦と呼ばれる雑賀衆攻略に乗り出します。このときも、孫一らは鉄砲隊を効果的に使って、大軍を追い返すことに成功しています。番組では、雑賀衆が一丸となって信長に抵抗したかのように放送していましたが、実はこのとき、雑賀衆は信長方の工作による切り崩しに遭っていました。それどころか、数だけでいえば寝返った領主の方が多いとさえいえます。

 四周に敵を抱える信長軍は、雑賀攻めが長期化するのを厭い、一旦囲みを解いて帰っていきます。すると、孫一らは寝返った雑賀衆のメンバーへ報復攻撃にでました。同じ雑賀衆同士で、血で血を洗う内戦状態となったのです。

 雑賀合戦から8年後の天正十三年(1585)、紀州に再び大軍が押し寄せます。信長はすでにこの世になく、大軍を率いてきたのは羽柴秀吉でした。秀吉の攻勢の前に、やはり雑賀衆は分裂し、態勢を固められないまま雑賀郷は制圧されてしまいました。このとき、雑賀のヒーロー鈴木孫一はどこにいたのかというと…なんと、秀吉軍の陣営にいて、かつての仲間を狩っていました。孫一を反骨のヒーローに仕立てたい番組では、もちろんこの事実にはまったく触れていません。雑賀衆が滅ぼされたとき、孫一は滅ぼす側として参戦していたのです。

 当然、「なぜ?」と思われるところでしょう。話は3年ほどさかのぼります。鈴木家は浄土真宗を信仰していましたが、その総本山である石山本願寺が信長と和解すると、孫一は親信長派に転向してしまいました。そして、織田家の支援を受けて、反信長派の雑賀衆領主を攻撃しはじめました。

 この時点で、一般的なイメージとは大きくかけ離れてしまっているように思いますが、天正十年(1582)に本能寺の変が起こると、事態はさらに動いていきます。信長という後ろ盾を失った孫一は、知らせが届いたその日のうちに雑賀から逃亡し、信長の一族が守る城へと駆け込みました。翌日には、信長の威を借りた孫一に苦しめられていた反信長派の雑賀衆領主たちが、ここぞとばかりに鈴木氏の館を焼き討ちにしました。

 帰る場所を失った孫一は、途中の経緯は不明ですが、信長亡き後に台頭した羽柴秀吉に仕えるに至りました。その後は、前述のとおり、秀吉麾下の武将として雑賀攻めに参加しました。

 繰り返す通り、雑賀衆や孫一を反骨のヒーローに仕立てたい番組では、親信長派への転向以降の変節や、雑賀衆内の不協和音については一切触れられていません。正統派の歴史番組を喧伝していながら、事実を無視したり捻じ曲げたり、都合のいいように史料を選んだりといった、歴史と真摯に向き合おうとしない番組の姿勢には、こうしてしばしば失望させられます。

 ちなみに、この回にこんなに食い付いたのは、今年の冬に、雑賀合戦の際に孫一らが拠ったとされる雑賀城跡弥勒寺山城跡を訪ねたばかりだったから、というのもあります。雑賀衆を滅ぼした後に秀吉が築いたのが、後の和歌山城です。

  



舘山城発掘と本拠地論争:若き日の伊達政宗の居城はどこか。

2012年06月03日 | 歴史
  
 趣味でやっている城跡めぐりのページが、とうとう掲載数800城を越えました。記念すべき800城目が、誰も知らないようなどマイナー城であるというのは、私のマニアとしての密かなこだわりです(笑)。そんな無理やりな導入から、今回は久しぶりに歴史の話題です。

 少々古い情報源だが、先月5月6日の宮城県の地方紙河北新報に、米沢市の舘山(たてやま)城の本格的調査が始められるとの記事があった。といっても、舘山城なる城について知っている人などほとんどいないだろう。伊達政宗が一時的に居城として使っていたと考えられている城跡である。

 米沢といえば、江戸時代には上杉家の米沢藩があったところだ。しかし、戦国時代には伊達氏の領地であり、伊達政宗も米沢の出身であるということはどのくらい知られているだろうか。米沢城は米沢盆地の南端付近にあるが、舘山城は米沢城からほどない西の山際にある。

 当時の米沢城は、城とはいっても屋敷に毛が生えたような程度のもので、とても大きな戦闘に耐えられるようなものではなかった。そこで、有事の際に立て籠もるための戦闘用の城が山際に設けられた。これが舘山城とされる。このように、住むための城と立て籠もるための城が分かれているという例は戦国時代には珍しくなく、たとえば躑躅ヶ崎館を居館としていた武田信玄も、要害城という戦闘用の城をもっていた。

 しかし、舘山城にかんしては、単なる控えの城ではなかった可能性が近年取り沙汰されている。近年、発掘調査により、家臣団の屋敷跡や庭園跡と推測される遺構が検出された。もし臨時の戦闘用の城であれば、このような施設は必要のないものである。したがって、舘山城は緊急時用の城ではなく、れっきとした居城だったのではないかという見方が出てきたのだ。

 史料の上からは、これまで政宗の父輝宗が隠居城として使っていたことや、天正十九年(1591)に豊臣秀吉に所領移転を命じられた際に取り壊されたことぐらいしか明らかになっていなかった。また、伝承では天正十五年(1587)ごろから政宗による改修工事が始まったとされている。これまでは、こうした事実は周辺との緊張が高まるなかで戦闘用の城の強化を図ったものと捉えられてきたが、前段の見方に立てば、天正十三年(1585)の輝宗の死後に政宗が居城の移転を図って改修工事を始めたものと考えることもできる。

 こうして、地元や専門家の間で「本拠地論争」なるものが勃発した。なかには、政宗が生まれたのも、この舘山城だったのではないかとする極端な説まである。この「本拠地論争」を前進させるような発掘結果が、先月から始まった本格調査によって期待されているというわけだ。

 ところで、この記事にはひとつ気になる点がある。米沢市教育委員会が、「二つの川に挟まれ、城下を一望できる丘陵に城が立地するという仙台城との酷似点に着眼」し、同文化課のコメントとして「舘山城が仙台城の原型になったことを裏付けたい」とあることだ。さらに、市教委は仙台城の前の政宗の居城である岩出山城についても「共通」点があると指摘している。

 これだけ読むと、いかにも政宗が似たり寄ったりなところに住み続けていたように思われる。しかし、以下に挙げる3つの城の周辺地図をご覧いただきたい。
 
 
舘山城の位置


 
岩出山城の位置


 
仙台城の位置
(3枚とも国土地理院2万5千分の1地図より改変)


 どうだろう。これら3つの城の立地が「酷似」しているなどと感じる方がどれほどおられるだろうか。たしかに、3つとも小山の上にあり、麓には川が流れている。だが、こうした点は城のセオリーからいえばまったく珍しいものではない。目と鼻と口がついているという点で人類と鳥類は「酷似」している、などといっているようなものだ。市教委の発言は、あまりにも飛躍しすぎているといわねばなるまい。

 このような飛躍や大風呂敷は、実は歴史の話題ではよくあることだ。自分たちの発見を、できるだけ広く歴史上の出来事と結び付けようとする。それがただの名誉欲や顕示欲から来るのか、あるいは最初にできるだけ大風呂敷を広げておいて段々と縮小化・精緻化していくのが史学の常道なのか。それは私には分からないが、いずれにせよ、直感的にもそれは誇大に言いすぎじゃないかと思うようなことを開けっ広げに公言されてしまうと、「興奮しているのは分かりますが、ちょっと落ち着きましょうか」と言いたくなってしまう。史学関連の職業の人たちと世間一般の間にこうしたズレがある状態を、私はどうも憂慮してしまう。

 さて、最後に原題に戻って、「本拠地論争」に対する私見を述べて〆としたいと思う。私は、少なくとも輝宗死去までの伊達氏の居城は、現在の米沢城と同じ位置にあったと考えている。現在の米沢城は上杉氏によって築かれたものだが、その下には戦国時代の城跡が眠っていることが発掘調査により明らかになっている。米沢城は、政宗の母義姫の実家最上氏の居城山形城などとそれこそ立地が類似しており、伊達氏が居城とすることに何も不都合はない。

 父輝宗の死去後、政宗はそれまで以上に戦いの日々を送ることになる。そのような緊張状態のなかで、有事の際の城であった舘山城を新たな居城として整備しようとしたのではないだろうか。そして、父の死から4年後、政宗は会津の大名蘆名氏を滅ぼし、現在の山形県米沢盆地と福島県の西3分の2、そして宮城県の南部にまで及ぶ最大版図を築きあげた。地図を広げれば、今挙げた地域を治めるには米沢では不便であることが分かるだろう。したがって、蘆名氏を滅ぼした時点で政宗には米沢に居城する理由がなくなることになる。舘山城がそれまで政宗の居城であったとするならば、蘆名氏滅亡と同時にその使命を終えて一地方拠点に格下げとなったものと推測される。すなわち、館山城が伊達氏の居城であったとしても、その期間は長くても天正十三年から十七年(1585~89)までのわずか4年間であろうと考えている。

 とまぁ、やや小難しいことを書きましたが、一般的にみれば戦国時代を代表する大名の1人である伊達政宗が若いころどこに住んでいたのかよく分かっていない、というのは意外に思われるのではないでしょうか。その点が、もしかしたら明らかになるかもしれない発掘調査が始まったということで、結果を期待している次第であります。