前回の記事では、入試の二次試験における点数操作を一律に不当とすることについては、留保が必要ではないかと論じた。リスクとコストを理由に女性排除を目論んでいた東京医科大学と、理論上有利な浪人生に対して現役生に下駄をはかせていた昭和大学医学部とを、同列に論じるのは妥当ではないだろうというのが私の意見だ。
他方で、一連の医学部入試不正のポイントは、一次試験ではなく二次試験で操作が行われているという点にある。一次試験で点数操作が行われていたのなら言語道断だ。しかし二次試験となると、状況は大きく変わる。今回の点数操作と同じことは、この社会で当たり前のように起こっているし、完全に排除することは不可能だろう。
入試では一般的に、一次試験は共通の問題を解かせることで基礎学力を問い、二次試験では面接や小論文、内申書などの調査書類でその他の適性を判断する。一次試験では基本的に答えが1つしかない設問で客観的に点数を比較できるのに対し、二次試験では点数の上下するラインは曖昧だ。共通の採点基準があったとしても、たとえば小論文の良し悪しに点数を付ければ、おそらく採点者によってばらつきが出るだろう。
結局のところ、二次試験というものには常に主観と裁量が入り込む余地がある。同じくらいの力量の現役生と浪人生のどちらを採りたいかと言われれば、普通は前者を選ぶはずだ。わざわざ点数の操作などしなくても、自分が採用したいと思った方に肩入れすれば良いだけのことだ。両大のように二次試験の判定が点数で行われているとなると、一瞬公平性が担保されているように感じられる。だが実際には、二次試験に関しては入れたくない受験生の点数を恣意的に低くつけたとしても、理由は後から何とでもなるのだ。
このことは、とくに入社試験などではより顕著なのではないかと思う。学校受験の一次試験のような客観的に点数の出る筆記試験を、入社試験で行っているところはおそらく多くはないだろう。就活は、企業側が求める人材を選ぶ場なので、必ずしも公平である必要はない。会社のニーズに合うか合わないかで、ある程度自由にふるい落とす権利がある。しかし、たとえ合理的な理由のない選別が行われたとしても、なかなか表沙汰にはなりにくい。
「総合的に判断した結果、残念ながら…」という通知を受け取った経験のある人は少なくないはずだ。この「総合的に判断して」というのは、私がこの世で最も嫌いな言葉の1つだ。一見客観的に公正に判定したかのように聞こえるが、実のところは「主観的に好き勝手決めさせていただきました」と言っているに等しい。「女性は妊娠するし使いづらい」「親が外国の出身だから」「見た目が何となく気に入らない」などというのが本当の理由だったとしても、「総合的に判断して」とさえ言ってしまえば、それ以上の説明が不要な魔法のフレーズのように扱われている。
今回の医学部不正についても、たとえば女性を故意に落としたいなら、最初から小論文の点数を合格ラインより下につけるよう指示すれば良い。女子の合格率が低いと指摘を受けても、「総合的に判断した結果」とか「小論文の完成度が不十分だった」などと言えばそれまでだっただろう。わざわざ点数を一律で上げたり下げたりというまどろっこしい手法を使っているのが、私にはむしろ意外にすら感じた。そこは、表向きは公平でなければならない教育機関特有の理由があったということなのだろう。
ところでここ15年ほどは、推薦入試やAO入試など、筆記試験によらない柔軟な入試が重視される傾向にあるように思う。たしかに一律の筆記試験では、「ふるい落とす」ことはできても「拾い上げる」ことは難しい。〇か×かの問題では測れない、キラリと光る「何か」を見つけ出せるのが、これらの入試法の一番のメリットだ。
ただし、その「何か」を見つけるのは、あくまで審査する側の人間なのだ。医師を経営上のコマと考えているような大学が試験に小論文を取り入れたところで、豚に真珠の選別をさせるようなものだろう。あまつさえこうして、恣意的に入学者を操作するための隠れ蓑にされている。これほど便利な隠れ蓑なのだから、使っているところはほかにいくらでもあるはず、というのが私の直感だ。
一連の入試不正は、決して医学部だけの問題ではない。教育機関の倫理と入試試験のあり方について、全体的な議論が必要だろう。客観性の担保できない試験方法について、「ユニークだ」と不用意にもてはやす風潮については警鐘を鳴らしたい。試験は受ける側だけでなく、課す側の資質やセンスも問われるものだ。