塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

医学部入試操作問題雑感②:客観性のない二次試験というそもそもの問題

2018年10月28日 | 社会考
 
前回の記事では、入試の二次試験における点数操作を一律に不当とすることについては、留保が必要ではないかと論じた。リスクとコストを理由に女性排除を目論んでいた東京医科大学と、理論上有利な浪人生に対して現役生に下駄をはかせていた昭和大学医学部とを、同列に論じるのは妥当ではないだろうというのが私の意見だ。

他方で、一連の医学部入試不正のポイントは、一次試験ではなく二次試験で操作が行われているという点にある。一次試験で点数操作が行われていたのなら言語道断だ。しかし二次試験となると、状況は大きく変わる。今回の点数操作と同じことは、この社会で当たり前のように起こっているし、完全に排除することは不可能だろう。

入試では一般的に、一次試験は共通の問題を解かせることで基礎学力を問い、二次試験では面接や小論文、内申書などの調査書類でその他の適性を判断する。一次試験では基本的に答えが1つしかない設問で客観的に点数を比較できるのに対し、二次試験では点数の上下するラインは曖昧だ。共通の採点基準があったとしても、たとえば小論文の良し悪しに点数を付ければ、おそらく採点者によってばらつきが出るだろう。

結局のところ、二次試験というものには常に主観と裁量が入り込む余地がある。同じくらいの力量の現役生と浪人生のどちらを採りたいかと言われれば、普通は前者を選ぶはずだ。わざわざ点数の操作などしなくても、自分が採用したいと思った方に肩入れすれば良いだけのことだ。両大のように二次試験の判定が点数で行われているとなると、一瞬公平性が担保されているように感じられる。だが実際には、二次試験に関しては入れたくない受験生の点数を恣意的に低くつけたとしても、理由は後から何とでもなるのだ。

このことは、とくに入社試験などではより顕著なのではないかと思う。学校受験の一次試験のような客観的に点数の出る筆記試験を、入社試験で行っているところはおそらく多くはないだろう。就活は、企業側が求める人材を選ぶ場なので、必ずしも公平である必要はない。会社のニーズに合うか合わないかで、ある程度自由にふるい落とす権利がある。しかし、たとえ合理的な理由のない選別が行われたとしても、なかなか表沙汰にはなりにくい。

「総合的に判断した結果、残念ながら…」という通知を受け取った経験のある人は少なくないはずだ。この「総合的に判断して」というのは、私がこの世で最も嫌いな言葉の1つだ。一見客観的に公正に判定したかのように聞こえるが、実のところは「主観的に好き勝手決めさせていただきました」と言っているに等しい。「女性は妊娠するし使いづらい」「親が外国の出身だから」「見た目が何となく気に入らない」などというのが本当の理由だったとしても、「総合的に判断して」とさえ言ってしまえば、それ以上の説明が不要な魔法のフレーズのように扱われている。

今回の医学部不正についても、たとえば女性を故意に落としたいなら、最初から小論文の点数を合格ラインより下につけるよう指示すれば良い。女子の合格率が低いと指摘を受けても、「総合的に判断した結果」とか「小論文の完成度が不十分だった」などと言えばそれまでだっただろう。わざわざ点数を一律で上げたり下げたりというまどろっこしい手法を使っているのが、私にはむしろ意外にすら感じた。そこは、表向きは公平でなければならない教育機関特有の理由があったということなのだろう。

ところでここ15年ほどは、推薦入試やAO入試など、筆記試験によらない柔軟な入試が重視される傾向にあるように思う。たしかに一律の筆記試験では、「ふるい落とす」ことはできても「拾い上げる」ことは難しい。〇か×かの問題では測れない、キラリと光る「何か」を見つけ出せるのが、これらの入試法の一番のメリットだ。

ただし、その「何か」を見つけるのは、あくまで審査する側の人間なのだ。医師を経営上のコマと考えているような大学が試験に小論文を取り入れたところで、豚に真珠の選別をさせるようなものだろう。あまつさえこうして、恣意的に入学者を操作するための隠れ蓑にされている。これほど便利な隠れ蓑なのだから、使っているところはほかにいくらでもあるはず、というのが私の直感だ。

一連の入試不正は、決して医学部だけの問題ではない。教育機関の倫理と入試試験のあり方について、全体的な議論が必要だろう。客観性の担保できない試験方法について、「ユニークだ」と不用意にもてはやす風潮については警鐘を鳴らしたい。試験は受ける側だけでなく、課す側の資質やセンスも問われるものだ。

 



医学部入試操作問題雑感①:東京医科大学と昭和大学医学部の入試操作は同列に語れる問題か。

2018年10月21日 | 社会考
 
文部科学省の幹部が息子を不正入試させたという個人の親バカに端を発し、いつしか医学教育全体の問題に発展している。東京医科大学が女子受験者の点数を一律減点し、男子受験者を優遇していたと認め、次いで昭和大学医学部でも、現役と1浪の受験生に加算していた事実が明らかとなった。

どちらも入試二次試験における点数操作という点では同じであるが、私は両者を同列に語ることはできないと考えている。結論から言えば、東京医科大の女子減点は許されるべきではないが、昭和大の方は批判のポイントが違うのではないかと感じている。

まず、東京医科大学の女性一律減点が問題なのは、憲法や教育基本法を持ち出すまでもなかろうと思う。腕力で女性が男性に劣ることや、妊娠・産休のリスクを理由に擁護する意見もあるらしいが、それは女子受験者を「一律」に不利に扱って良い理由にはならない。男性よりたくましい女性もいくらでもいるだろうし、欧米に大きく立ち遅れているとはいえ男性が育休を取る風潮も少しずつ広がっている。そもそも人命を扱う専門職の人間が出産・養育に不寛容というのは、医師としての資質に疑問を抱いてしまう。

また小児科や産婦人科などは、むしろ男性より女性の方が向いているだろう。擁護論に則るなら、両科を希望する男性は女性より一律で不利に扱われなければならないはずだ。

さて、東京医科大の方についてはすでに同様の論調のコメントが多数出回っているので一旦置いておくとして、メインテーマは昭和大の方である。東京医科大と昭和大の操作における最大の相違点は、女子というカテゴリが存在しているか否かにある。浪人生に対する点数操作は、どちらの大学も行っている。では、女性の点数操作はダメで浪人生ならいいのかというと、私はあくまで許容範囲ではあると思っている。

1浪しているということは、1回その大学の試験を実際に体験しているうえに1年余分に勉強する時間があったのだから、現役生に対して「一律」にアドバンテージを有しているはずだ(ここでいう~浪というのは同じ大学を受験した回数だと理解しているのだが、合っているだろうか)。そのぶん「一律」のハンデを要求されたとしても、さほど理不尽なことではないように思うのだ。

ただし、そのハンデの負わせ方についても、東京医科大と昭和大では大きな違いがある。前者では、全員の小論文の点数を0.8倍に減点し、現役〜2浪男子は20点、3浪男子は10点、4浪男子と女子には0点を加点するという仕組みだという。それに対して後者では、現役および1浪の受験生に対して、高等学校調査書の評点に加点をしていたという。小論文や高校調査書の点数評価がどういうものか知らないのだが、仮にどちらにも満点が存在するとする。すると、昭和大では浪人生でも満点なら満点のままだが、東京医科大の場合は100点を満点とすると80点までしか取れない計算となる。

ハンデというものは、一般的には機会の平等を図って課せられる。つまり、ハンデを負っている側もいない側も、トップになるチャンスがどちらにもなければならない。昭和大の方では満点さえ取ればそれが可能だが、東京医科大では全ての現役~2浪男子が75点未満でなければ不可能ということになる。確率は0ではないが、ほぼ0といって良いだろう。したがって、現役生に対するハンデという面でも、東京医科大のやり方は昭和大に比べて不当であると言うことができる。

こうしてそれぞれの操作の内容を比較してみると、同列には論じられない差異があることが分かる。昭和大については、まだ現役生に対するハンデと捉える余地があるのに対し、東京医科大の方は女性と浪人生を明確に排除しようという意図が透けて見える。

このように書くと、昭和大については不問に付しても良いように言っているように思われるかもしれないが、そうではない。点数操作の事実を公表していなかった点については、どちらもやはり問題であろう。大学選択に関する重要な判断材料を提示していなかったのだから、その点では両大学とも同罪といえる。

ただし、東京医科大の女性差別問題は、医学界全体にかかわるイシューとして昭和大の話とは別個に追及されるべきと考えている。他方で昭和大の入試操作については、社会に有形無形の事実としてあまねく存在する「二次試験」というもののデメリットとして捉えられるべきだろうというのが、私の意見だ。この点について、次回に改めて考察したい。