塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

城跡総桜梅園化計画

2011年02月08日 | 社会考
  
 梅がそろそろ見頃となります。そして、もうすぐ花粉の季節になりますね。幸い私は発症の気配はないので大丈夫ですが、花粉症の方には大変な季節がやってくるということですね。スギ花粉が終わると、今度は桜の季節がとなります。梅、スギ、桜。今回は晩冬から初春にかけてのこれら3つの花や木に関する話です。

 冬から初春にかけてというのは、私のような城跡愛好家がもっとも活動する期間です。あちこち出歩くならもう少し暖かい季節の方がいいんじゃないの?と思われるかもしれません。しかし、藪をかき分け山に入るには、下草や葉っぱのない冬場が一番いいのです。

 いろいろな城跡を歩いていると、いろいろな山林に出会います。雑木林や竹林、果樹林や杉林など、どんな林かによって風景や歩きやすさは大きく変わります。このなかで、意外と歩きにくいのが杉林です。杉はまっすぐ伸びるのだから、見通しが利いて歩きやすいのではないかと思われるかもしれません。ですが、スギは葉の半分ほどが冬でも緑のまま生い茂り、残りが枝ごとばっさばっさと地面に落ちます。緑の部分が多いことで、当然ですが眺望は遮られます。さらに、スギの枯葉は、他の葉っぱに比べて土に還るのが格段に遅いように感じます。雑木林の枯葉ならほとんど地面と同じくらいにしんなりとなっているところ、スギの枯葉はいつまでたってもパリパリとして足を煩わせます。おそらく、蓼食う虫も好き好きではないですが、スギの枯葉はあまり虫や菌の好むところではないのでしょう。

 
スギの城跡の例:茂庭峰館


 このように、上は見通しが利かないわ下は歩きにくいわで、杉林は城郭愛好家にとっても花粉と関係なく面倒な林なのです。

 ところで、城跡の中には桜や梅など花の名所となっているところが少なからずあります。青森県の弘前城、長野県の高遠城、新潟県の高田城などは全国的にも有名な桜の城跡です。もちろん、城が現役だったころに満開の桜を拝めたわけではなく、すべて明治以降に植えられたものです。城が行政府ではなく市民の憩いの場となるに及んで、武士の生きざまに例えられる桜が好んで植えられてきたのでしょう。

 上に挙げたような全国的に知られたものでなくても、知る人ぞ知る桜や梅の名所となっている城跡は、結構あちらこちらにあるものです。たとえば、東京都多摩地区で有名なものに滝山城址があります。滝山城址は、中央高速道路八王子ICからほど近い多摩川河岸上にあります。ここには約5000本もの桜が植えられ、4月には毎年桜祭りでにぎわいます。

 滝山城址に限らず、桜や梅が植えられている山城は、総じて間伐や下草刈りなどの手入れが行き届いています。当たり前のようですが、こうした作業はかなり手間や費用のかかるものです。それだけの労力をかける価値が、桜の公園にはあるということでしょう。

 
滝山城址の桜


 そこで、表題の通り、日本全国の主だった山城をできるだけ桜の公園として整備し開放することによって、さまざまな問題の解決につなげることができるのではないかと考えています。まず第一に、スギを減らして桜に換えることで、花粉の量を減らすことができます。東京都だけでも、数十に上る山城が存在しています。これらを桜梅園化することによって、微々たるものかもしれませんがスギ花粉を減量させることができるはずです。

 第二に、桜梅園の集客によって地元経済が潤います。スギを伐採することによって林業への影響はあるかもしれませんが、これを花見客の集客によって十分に代替することができるはずです。

 第三に、桜梅園化後の整備管理によって、城跡の見通しが格段に利くようになります。私にとってはこれが一番の理由で、整備が行き届けば季節を問わず訪れることができるようになります。

 第四に、史跡保存と公園福祉の双方を同時に図ることができます。両者は一般的に別々に管轄され、経費も別勘定で計上されがちですが、城跡の公園化を進めれば一度に済ませることができます。

 第五に、都市景観を飛躍的に向上させます。先にも述べたとおり、城跡というのは意外と身近にたくさんあるものです。これらを桜梅園化することで、四周至る所に春にはピンク色の山を望むことができるようになります。

 かなり手前勝手にいいことばかり並べ立てましたが、これに近いことを実際にやっているところがあります。それが仙台市です。仙台市の北部、七北田川流域に鶴ヶ城長命館岩切城利府城といった山城が点在しています。今挙げた4つの城跡は、すべて桜の公園として整備され、春には山頂がピンク色に染まります(利府城だけは仙台市でなく利府町にありますが)。それは遠目にもはっきりわかるほど鮮やかなものです。これらの城跡は、桜の公園として整備が行き届いており、城跡の旧状もはっきり見て取ることができます。どの城跡も春には花見の人々でにぎわい、桜のシーズンでなくても、広々とした市民の憩いの場として親しまれています。仙台市が私が考えているような理由で城跡の公園化を進めているのかは分かりませんが、城跡愛好家にとっても喜ばしい状態に管理されていることはうれしい事実です。

 
仙台市長命館跡


 
仙台市鶴ヶ城址(松森城址)


 私が提唱した城跡総桜梅園化計画は、決してぽっと出の思い付きではなく、こうした経験を踏まえて至った1つの結論なのです。もちろん、やろうと思ったところで簡単な話ではなく、予算や地権、周辺との折衝や学者連中の口出しなどクリアしなければならない問題も数多くあります。ですが、都市計画の1つのモデルとして検討する価値は十分にあると私は考えています。

  



マンションの点検の多さについて、雑感

2011年02月05日 | 徒然

 このブログは、訪れた人がどの記事を読んだのかとか、どんなキーワードで検索したのかが分かるようになっているのですが、毎日のように検索されているのがJ:COMについて書いた記事です。もう4年も前の記事なんですが、いまだに上位にランクインしています。それほどJ:COMは今なお強引な勧誘を続けているということでしょうか。先日も、工事の勧誘の封筒が投函されていましたが。

 さて、ケーブルテレビに限らず、マンションではマンション単位で契約をしている業務というものが少なからずあります。今日も水道管の点検業者が来ました。この点検は、今日を逃すと次は2年後ということだったので受けないわけにはいかなかったのですが、なかには「そんなにしょっちゅうやる必要あるの?」と首をかしげたくなるものもあります。

 まずはエレベーター点検です。2、3か月に1回くらいやってるような気がします。エレベーターは複数あるし、点検の間使えなくなるだけなのでそれほど支障はありませんが、そんなに年に何度もやる必要があるのか疑問です。もちろん、シンドラー社製エレベーター事故以来、エレベーター整備への風当たりが強くなっているのは事実でしょう。しかし、だからといって年に5回も6回もやる意味があるのでしょうか。

 もう1つ、しょちゅうやってくるものに火災報知機点検があります。これも2か月に1回くらいやってきます。一戸一戸まわって家中の火災報知機に機材を充ててなるかどうか試すわけですが、その日は1日中いたるところから「火事です!火事です!」の警報が聞こえてくるわけです。これももちろん大切な点検なんでしょうが、こうも度々警報が鳴り響くと、実際に火事になった時も点検と勘違いして誰も見向きもしなくなってしまうんじゃないかと心配になります。

 こんなに頻繁に点検をして、誰のためになるかと考えると、どうも住民のためではないような気がしてきます。点検も1回1回タダじゃないでしょうから、点検の回数が増えるほど喜ぶのは業者でしょう。そして、点検費用は管理費として住民から毎月支払われている訳ですから、点検の回数を増やそうが減らそうがマンションの建設会社や運営会社には何の影響もないのでしょう。となれば、点検業者とマンション運営会社の間で馴れ合いがあるとしても不思議ではないように感じてしまいます。

 邪険に考えすぎでしょうか。。

  



なぜ目は前に付いているか?

2011年02月01日 | 徒然
  
 今日はどうでもいい雑談です。

 突然ですが、ドラえもんの話の1つに「ジ~ンマイク」という道具が出てくる回があります。この話の冒頭で、いつも通り0点をとって1人教室で悶々とするのび太に、先生が次のような言葉をかけます。「目が前についているのはなぜだ?前へ前へと進むためだ。今日を振り返らないで、常に明日を目指してがんばれ!」と。

 この言葉にいたく感動したのび太は、誰かに伝えようと帰る道々で会った人たちに「ねぇねぇ、目が前についているのはなぜだかわかる?」と声をかけまくります。ところが、静香ちゃんには「後ろについてたら髪が邪魔で見えないもの」とあしらわれ、母親には「テストを見るためです!」とにべもなく返されてしまいます。

 そんな報われないのび太のためにドラえもんが出したのが「ジ~ンマイク」で、このマイクを通してしゃべれば、どんな内容でも誰でも感動させられるという道具です。

 で、今日の話題はこの道具やこの回のオチではなく、最初に先生の挙げた「目が前についているのはなぜか?」という問いです。もちろん、「今日を振り返らないで、明日を目指してがんばれ」という励ましにつなげるための導入に過ぎませんが、こういうどうでもいい問いを真剣に考えたくなってしまうのが、僕の悪い癖(右京さん風)です。

 さて、何故目は前についているのか?作中で意外(?)にも説得力があるのは、静香ちゃんの「後ろについていたら髪が邪魔で見えないから」説でしょうか。ただし、これは「目が後ろについていない理由」ではあっても「前についている理由」にはなりませんね。先生の「前へ進むため」というのは、後に続く精神論的な解釈ではなく現実問題として捉えれば、当然といえば当然です。

 ここで、私の見解はもっとシンプルかつ原則論的です。「目が前についている」のではなく、「目がついている方向が前になる」のです。。

 いま、出来上がった人間ではなく、目も足も手もないアメーバのような原始的状況を考えましょう。ここから、まず目→手足の順に進化すると想定します。すると、当然ですが目が付いた方向に動けるように手足が生えるのが合理的となります。逆もまた然りで、手足→目の順ならば手足が向いている方向が見えるように目が付くのが合理的です。

 これは、目が同一面に並んでいる霊長類でも、顔の側面についている四足歩行動物でも同じです。視界の中心が「前」となるのです。すなわち、視界が360度開けていない限り、死角が1度でもある限り、視界の中心が「前」になるわけです。

 鶏が先か卵が先かのような話となりましたが、なぜ目が前についているかといえば、目がついている方向が前になるからというのが結論です。一応、トートロジーではありませんよ。鶏卵の話と違って、目が付くのが先ですから。

 と、どうでもよいことを考えながら、早くも1月が過ぎ去っていきます。。