塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

黒田官兵衛という人物の個人的評価:「出しゃばり」が摘んだ成功者の芽

2014年08月31日 | 歴史
 
 今年の大河ドラマは、近年ではかなり成功している部類のようで、とくに主演の岡田准一さんの好演が評価されているように聞いています。私も、岡田さんの演技は重厚で好感をもっているのですが、いかんせん脚本が例年通り冗長なので、結局長くは観られないでいます。

 最後にまともに見たのは山崎の戦いの回だったと思いますが、(私にとってはどうでもよい)ホームドラマの場面が大部分を占め、(私にとっては重要な)肝心の戦いのシーンがわずか2分ほどで終わってしまうという構成に、改めて失望し直しました。歴史モノのホームドラマは、私には朝の連続テレビ小説でお腹いっぱいです。
 
 さて、愚痴はさておき、当の黒田官兵衛孝高(以下官兵衛で統一します)という人物は、評価の難しい武将であるといえると思います。ドラマの主人公としては、「軍師」とタイトルについている通り、豊臣秀吉を天下人にまで押し上げた陰の立役者として描ければ十分なのでしょうが、あくまでひとりの戦国武将・豊臣大名としてみると、必ずしも成功した人物とは言い切れない面があります。

 黒田家は、関ヶ原の戦いの功績により筑前52万石の大封を得るに至りました。ですが、これは官兵衛に対するものではなく、すでに家督を継いでいた息子の長政の戦功に報いたものです。官兵衛自身がゲットできた領地は、秀吉から与えられた豊前6郡12万石(現在の大分県中津市を中心とした地域)にとどまっています。

 この処遇については、秀吉が自分の天下をも脅かしかねない官兵衛の器量を恐れたためというのが、理由として一般的に流布しています。たしかに、官兵衛は関ヶ原の戦いで、にわか作りの傭兵集団で九州を席巻し、一大勢力を築き上げました。関ヶ原での本戦が短期決戦で幕を閉じたため、奥州の伊達政宗と共に、天下取りの夢が潰えてしまったともいわれています(もちろん、本人が公言した訳ではありませんが)。

 秀吉が官兵衛の力量を恐れて高禄を与えなかったのだとすれば、それは逆説的に官兵衛の実力を高く評価していることになります。ですが、私は官兵衛という人物について、権謀術数には間違いなく長けていた反面、少なくとも性格においてはやや難のある人物だったのではないかと考えています。もちろん、性格面で完璧な人間などいませんが、官兵衛の場合はそれが出世の妨げになってしまうほど目立つものだったのではないかと推察しています。

 その難点とは、官兵衛はかなりの「出しゃばり」だったのではないかというものです。ドラマでは熟慮遠謀・沈思黙考といった、どちらかといえばシブい役どころとなっているようですが、種々のエピソードからみえてくる実際の官兵衛は、むしろそうした裏方に徹するタイプからは程遠い性格の持ち主だったように感じられます。

 もともと、黒田氏は播磨の小領主に過ぎなかったところ、御着城主小寺則職・政職父子に取り立てられ、とりわけ政職によって小寺氏重臣に引き上げられたとされています(ちなみに、大河ドラマでの政職は風采の上がらないやや惰弱な人物として演じられていますが、実際には下剋上で小大名規模にまでのし上がった実力者です)。織田信長の勢力が畿内に及ぶと、官兵衛は小寺氏の使者として、秀吉の仲介を経て信長に謁見します。そして、播磨平定軍として秀吉がやってくると、官兵衛は自らの居城姫山城(後の姫路城)を秀吉の拠点として差し出して、一族郎党を退去させるという挙に出ます。

 後世の我々がエピソードとして聞く分には、後の天下人に対して機転を利かせた第一歩というように感じられるかもしれません。ですが、少なくともまだ直接の主人であった政職からみれば、自分の頭越しに信長直属の司令官に媚を売るような行為は、明らかに不愉快であったものと思われます。

 さらに、官兵衛は子の松寿丸(後の長政)を信長へ人質に差し出しました。ドラマでは、政職が自分の子を出し渋ったために、やむなく官兵衛が代わりに長政を送ったという筋書きになっています。ですが、そのような事実を示すものはなく、そもそも小寺氏をはじめ、小寺氏とほぼ同格の大名別所氏や、小寺氏の形式上の主君に当たる播磨守護赤松氏にも、家族を人質に出したという記録はみられません。人質の要求がなかったとまでは判じかねますが、播磨に割拠する小大名たちに先んじて、官兵衛が目立つ形で人質を率先的に送ったというのが実際のところのように思われます。自分たちの頭越しにそのようなアピールをされては、やはり小寺氏らにとっては面白いはずはなかったでしょう。

 別所長治、ついで荒木村重が信長に反旗を翻すと、政職もこれに応じました。3氏が信長に背いた理由は諸説あり定まってはいません。ですが、少なくとも政職に関してみれば、官兵衛が秀吉の側近として重用されるのに対して、播磨のもともとの主要勢力であった自分が顧みられなくなっていく現状に、不満が蓄積していたのではないかとも推測されます。

 このとき、官兵衛は旧知とされる村重の説得に赴きましたが、逆に捕えられて土牢に監禁されてしまいました。使者への対応としてはかなり異例なもので、一体どんな説得の仕方をすれば、斬られもせず生かして帰すこともせず、足腰が立たなくなるまで牢に閉じ込めておくという措置がとられるに至るのか、不思議でなりません。「出しゃばり」というのとは違うかもしれませんが、殺すわけにも帰すわけにもいかず、かといって顔も見たくないと思わせるような何かがあったのでしょう。

 本能寺の変の際、突然の凶報に取り乱す秀吉に、官兵衛が「機会が参りましたな」と耳打ちしたとする逸話があります。後世の書物が初出であり真偽のほどは分かりませんが、もし本当だとすれば、これは出過ぎた真似にもほどがあるでしょう。言われた人間がどう感じるかを考えれば、もう少し落ち着いてから機をみて(もっといえば意見を求められてから)献策すべきことでしょうに、思いついた瞬間にパッと口にしてしまうようでは、現代のお調子者な政治家と同レベルとさえいえてしまいます。この点については、官兵衛は後に親しい間柄となった小早川隆景から、「貴殿は頭の回転が良すぎて決断も早いから、逆に後悔することも多いだろう」という趣旨のたしなめを受けています。

 また、文禄五年(1596)の慶長伏見地震で秀吉がいた伏見城が崩れたときには、真っ先に城下の屋敷から駆け付けたものの、「俺が死ななくて残念であったであろう」と言われたといわれています。これも真偽のほどは不明ですが、そういわれても仕方のないような空気が、当時2人の間には流れていたのではないかと推察されます。事実とすれば、秀吉が官兵衛の野心と才覚を恐れての発言というよりは、何かと出しゃばる官兵衛に、信長に草履取りから取り入って這い上がった自身の下積み時代を重ね合わせ、そんな官兵衛が本能寺の変に際しては冷静沈着に振る舞っていたことなどを思い出し、目の前の献身ぶりが空々しく映ってしまったと考える方がしっくりいくような気がします。

 さて、九州平定戦で活躍した官兵衛は、先述の通り豊前中津12万石に封じられます。この石高は、よく官兵衛の実力を恐れてわざと低く抑えられたものだといわれます。ですが、たとえば豊臣政権の運営実務を担った譜代衆である三中老や五奉行の石高と比較すると、軒並み10万石台から最高で22万石程度であり、豊臣家の譜代大名としてみれば必ずしも不当に少なくされているとまではいえないように思います。

 むしろ、領地関連で気になるのは、石田三成との関係です。三成と官兵衛の仲がどうだったかについては分かりませんが、秀吉の側近の座を巡ってライバル関係にあったことは想像に難くありません。文禄二年(1593)に隣国豊後の大友吉統(宗麟の子)が秀吉の勘気を蒙って改易されると、豊後国内には太田一吉や福原直高(長堯)、垣見一直、熊谷直盛といった、三成に近かったり縁戚だったりする武将が送り込まれました。たまたま豊後一国がぽっかり空いたためとはいえ、これだけ三成関連の大名ばかりが封じられるという裏には、何か理由があるように邪推がはたらきます。そこで直感的に考えられるのが、隣国黒田家への対抗です。既述のとおり官兵衛と三成が直接争った記録はありませんが、五奉行筆頭という三成の出世ぶりに対して、官兵衛は軍師とは呼ばれるもののとくにそういったポストがあるわけではなく、秀吉の天下統一後の扱いは冷遇といっても良いようにすら思われます。秀吉死後、黒田父子が真っ先に徳川家康に接近したのは、三成との政争に敗れて豊臣政権内での影響力を失っていたことが大きく関わっているように感じるのです。

 関ヶ原の戦い後、長政が筑前52万石に大幅加増されると、官兵衛は福岡城築城には携わったものと思われますが、まもなく太宰府天満宮に隠棲しています。その後は政治の表舞台には出ることなく、慶長九年(1604)に亡くなっています。勝手な想像ですが、自身では手にすることのなかった52万石という大禄を長政が得るに至って、もはや自分が表に出ることは黒田家にとって害でしかないとついに悟り、すっぱりと隠退する決意をもったのではないかと推測しています。

 
太宰府天満宮境内の官兵衛草庵跡


 蛇足ですが、関ヶ原の戦いにおいて九州で暴れ回った官兵衛には、天下への野心があったともいわれ、実際に本人もそれとなく仄めかすような発言をしていたともいわれています。ですが、私には本気で天下人になろうとまでは考えていなかったものと思っています。たしかに、官兵衛は九州各地で西軍の大名を次々と降していますが、それらはすべて自分と同格かそれ以下の規模にすぎず、しかもそのほとんどは大名自身が兵を率いて中央に出向いていました。もし本気で九州を平定しようと思ったら、主力を残している島津氏や鍋島氏、加藤氏を降さなければなりません。さらに、官兵衛は軍略調略の才を恐れられてはいたでしょうが、残念ながら秀吉のような余人を惹き付ける魅力には欠けていたように思います。よほど混沌とした状態に逆戻りしない限りは、官兵衛が天下を握る目はほとんどなかったでしょう。官兵衛自身が天下を口にしたとしても、それは頭に浮かんだ自虐を込めた皮肉が、彼の性格によってすぐに言明されてしまったものと解釈することもできます。
 
 最後に、ドラマの方は残り3か月弱で終幕となるのでしょうが、ちゃんと話を回収しきれるのかちょっと心配です。現在が九州平定のあたりということですから、今後放送が予想されるエピソードは、豊前入国と城井宇都宮氏一族の虐殺(くわしくはこちらを参照)→小田原の役→文禄の役→秀次事件→慶長伏見地震→慶長の役→秀吉の死→長政の家康接近→関ヶ原の戦い(石垣原の戦い)→福岡転封→太宰府隠棲&死去と、まだまだ見どころが多数残っています。これらをちゃんと最後までやりきれるのか、どうも尻すぼみになってしまいそうな気がしてなりません。まぁ、もともともう観ていないので余計なお世話だとは思いますが。

 



広島土砂災害所感

2014年08月30日 | 社会考
  
 広島を襲った土砂災害から一週間が経過しましたが、70人以上の死者を出し、いまだ発見されていない行方不明者がいるという大惨事になっています。亡くなられた多くの方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

 集中豪雨による災害は、日本では近年頻繁に起こるようになっており、第一報に触れたときにはここまで被害の大きな災害であるとは正直思いませんでした。映像を観たときにはとにかく衝撃を受けましたし、とりわけ被災範囲の広さには驚きました。

 こうした土石流災害は、私が見聞きしてきた限り、沢や谷川といった流れの単位ごとに発生するのが一般的といえるように思います。日本では伝統的に土石流のことを「鉄砲水」や「蛇抜け(じゃぬけ)」などと呼ぶところからも、単発で一過性で一気に駆け抜けていくイメージがあったことがうかがえます。ところが今回は、複数の沢がほとんど期を一にして崩れ、しかも1つの山系ではなく、川を挟んだまったく別の複数の山系で発生しています。これは、1本でも重大な被害をもたらす蛇抜けが、何本もお互いに因果関係のない状態で生じたということになり、自然災害のパターンとしては日本史上類をみないといっても過言ではないように思われます。

 これまでの気象分析によれば、今回の土砂災害をもたらした集中豪雨は、広島湾付近で次々に発生した積乱雲群が、気流に乗って一直線に並んで次から次へと通過していったことが要因とみられているそうです。つまり、本当にピンポイントで局地的な豪雨によって、観測史上最大級の時間単位降水量が記録されるに至ったということで、降り方・量ともに、文字通り経験したことのない雨が降っていたことになります。

 土砂災害の規模や範囲、そして降雨のパターンや雨量、いずれも日本史上類例をみないということから、今回の災害は確実に進行しつつある地球温暖化によってもたらされた、新しい災害のパターンであると考える必要があると思います。したがって、現在進行形で捜索や復旧が行われているなかではやや不謹慎かもしれませんが、これまでのものとはまったく異なる災害がこれからこうして起こり得るのだと認識し、防災や避難、予知や警報、そして被災者支援の在り方について、大きく見直しを図る契機とすべきなのだろうと感じます。

 また、同じく態度を大きく改めなければならないものの1つに、マス・メディアがあるだろうと思います。とりわけテレビは、災害発生以来いつも通りの手際の良さで、「人災」の可能性を探すのに躍起になっていました。やれ、避難指示を出すのが遅すぎたであるとか、山を削って無理やり宅地開発したせいだとか、危険地域に指定していなかったのはどうなんだなどと、人的ミスを指摘できそうな材料ならなんでもかき集めてみましたと言わんばかりです。ですが、記録的豪雨のなかの深夜に避難指示を出すことが適切かどうかは判断がきわめて難しいですし、危険地域に指定したからといって被害を食い止めることはできなかったでしょうし、平地のほとんどない日本において造成されていない土地に住んでいる人がどれだけいるか疑問です。そう簡単に「ああすれば防げた」などといえるものではないことは、災害の規模と範囲をみればすぐに分かるはずです。被災者や遺族の方々が何かのせいにしたい気持ちをもたれるとしてもそれは重々理解できますが、マスコミがそれを煽るような報道に走ってしまうのはいかがなものかと思います。

 繰り返しますが、今回の災害のもっとも大きな特徴の一つは、規模や範囲そして発生経緯がこれまでにないものである点にあります。したがって予見は困難であり、もちろん被害を押さえる方法はいくらもあったでしょうが、それらがとられなかったことをことさら責任として追及するのは無理があろうかと思います。それでは東日本大震災のときの福島第一原発事故も仕方なかったのかと言われるかもしれませんが、こちらは完全に人災です。なぜなら、あの規模の地震が起こりうることは、史料上からも地学上からも予見されていたからです。ですが、地球温暖化の進行やそれにともなう気象の変化などは、理論上いくつかのシナリオは予想できたでしょうが、今回のような極地極大的な災害まで予見するのはかなり難しかったであろうと思われます。

 今回の広島土砂災害については、局地的豪雨に加えて広島周辺の地質が脆い土質から成っていることが、大きな要因として考えられるとして注目を集めています。たしかに、これだけ広範囲にわたって山が崩れたという点に関しては、土質という要素が大きく関わっているといえるでしょう。ですが、土質の固めなところなら大丈夫といえるかというと、それはかなり怪しいように思います。温暖化にともなう熱帯性のゲリラ豪雨は、今後どこでいつ起こってもおかしくない状況になっていくと予想されています。また、造成された住宅地は土質がゆるくて危険で、先祖代々住んでいるようなところは安全かといえば、それもいえないだろうと考えています。日本人は農耕民族であり、とりわけ稲作を中心としてきました。田圃には大量の水が必要であり、稲作農家にとって水源の確保は死活問題でした。自然、湧水や流水を得やすい沢谷戸近くに人家が営まれる傾向があります。今回の土砂災害で犠牲となられたお宅には、おそらく昔から住んでおられた旧家と思われる家屋も見受けられました。

 結局のところ、土質が硬いか柔らかいかとか、新興住宅地であるか古い集落であるかといった要素は、土砂災害に遭う可能性に与える変数としては、そこまで大きくないのではないかと考えています。自宅の近くに水があり、斜面があるという方は、誰もが一定の危険性を認識し、最低限の覚悟と備え(寝るときはなるべく上階でとか、雨の強い日は斜面の反対側の部屋で過ごすとか)をしておくのが第一なのではないかなと、改めて感じました。
  
  



8月第三週の不可解な動き:総理の靖国不参拝とロシアの北方領土軍事演習

2014年08月18日 | 政治
   
 日中は相変わらずの酷暑が続いていますが、少しずつ日が短くなってきたり、夜が涼しくなってきたりと、秋の足音がわずかながら遠くで聞こえてきているのを感じています。ブログがだいぶご無沙汰になってしまいましたが、とりあえず暑さのせいということにしておきたいと思います(汗)。

 さて、69回目の終戦記念日を迎えた先週、日本とその周辺で私には腑に落ちない政治上の動きが2つほどありました。

 1つは、安倍首相が靖国神社を参拝しなかったことです。このように書くと、「日本の総理大臣が靖国を参拝するのは当然!」という右寄りな方々の主張と同じように聞こえますが、そうではありません。少なくとも、私が今回感じた違和感は、日本国首相が靖国神社を訪れるべきか否かという問題とは別のところにあります。

 安倍首相は昨年12月26日、電撃的に靖国神社を参拝しました。「参院選にも勝利し、支持率が安定してきたので昨年中に1度参拝しておきたかった」という漠然とした動機以外に、今もなぜその日を選んだのかの理由がまったくわからない突然の参拝について、私はこちらの記事で疑問を呈しました。私はこのタイミングで参拝を敢行するのは愚挙であったと考えていますが、その理由は100%外交上のものです。突然の靖国参拝は、対日強硬姿勢が行き詰まって袋小路に陥っていた韓国の朴槿恵大統領に活路を、南シナ海での権益拡大を狙う中国には中韓接近という形でつけ入る隙を与える結果となってしまいました。したがって、昨年末の靖国参拝は、その日に行かなければならなかったという特段の事情がない限りは、外交上の大きなミスであると私は考えています。

 それならば、終戦記念日に靖国神社を参拝しなかったことに違和感を覚えるのは変だと思われるかもしれません。私が腑に落ちないとしているのは、今回安倍首相が靖国へ行かなかった理由が「外交上の配慮」とされていることにあります。つまり、昨年末は外交上の配慮をしないで参拝したにもかかわらず、今回は配慮するので参拝しませんとは、何たる矛盾というより無節操だろうと感じるのです。外交上問題があるから参拝しないというのであれば、昨年末の時点でするべきではなかったし、今回配慮するとした外交上の問題は、昨年末の参拝が大きな要因となって惹き起こされたものなのですから。

 国内に目を向けてみても、肝心の終戦記念日に参拝しなかったことで、右寄りの人たちからも失望を買ったのではないでしょうか。結局外交上の理由で膝を折ってしまうということになれば、昨年の参拝はただのパフォーマンスだったのかという批判にもつながりかねません。韓国が折れる寸前まで追い込んだところで、靖国参拝で敵に塩を送り、今回の不参拝でこちらが反対に譲歩しただなんて、敵失サヨナラ負けに近いのではないでしょうか。

 さらにいえば、安倍首相は靖国に参拝したいのなら、先週まであと半年待てばよかったのです。終戦記念日には少なくとも閣僚の何人かが必ず参拝するわけですし、そこへ首相が加わったとしても、中韓からみれば「今年は行くのかな?行かないのかな?…っあ~~、行きやがったか~」くらいで、諦観混じりの対応となったはずです。8月15日に日本の首相が靖国に行くかもしれないことは織り込み済みであり、もちろん抗議はしますが、半ばルーチンワークのようになっています。ところが、まったく関係のない師走に突如として参拝したものだから、隣国の激情に余分に油を注いだり、「こいつをどう利用してやろうか」などと悪巧みを練られてしまったりするのです。靖国参拝は、それ自体の是非と関係なく、するのなら8月15日を基軸としなければならないし、8月15日にしないのであれば、他の日にもすべきではないと考えています。

 2つ目の出来事は、先週火曜日に行われたとされる、クリル諸島でのロシアの軍事演習です。クリル諸島とはロシア側の呼称ですが、このなかには日本の北方領土が含まれており、実際に北方領土内でも演習が行われたとされています。

 この報道に触れて私が疑問に感じたのは、ロシアの目的です。わざわざ日本側の抗議を無視してまで行われたのですから、日本に対する何らかの重大なメッセージがあるとみるべきなのでしょうが、どうもそれがよく分かりません。ストレートに考えれば、ウクライナ情勢を受けての欧米各国の対露制裁に日本が加わったことへの報復とみるべきでしょう。

 ですが、北方領土はウクライナと違い、ロシアが実効支配している土地です。ですから、半分残念なことに、北方領土で軍事演習をされたからといって、日本には実害(とくに経済的な)がほとんどありません。もちろん、既成事実化が進展してしまうとか、ロシアが領土交渉に応じる可能性が低くなるといった問題はありますが、少なくとも制裁に対する報復という目的とはそぐわないように思われます。それどころか、ロシアは武力で国境を変更・確定しようとする不誠実な国であると明言しているようなものです。

 かといって、プーチン大統領は日本の総理大臣と違って実益を犠牲にしてパフォーマンスに走るような人には見えないので、何か目的があるはずではあるのです。それがどうにも見えてこないのが、とにかく腑に落ちません。

 かなり穿って考えて、1つ思いついたのが、今秋に予定されているとされるプーチン大統領の公式訪日です。今回の演習を受けて、プーチン氏来日に黄信号が灯り始めたとされています。ふと国際情勢を俯瞰してみると、現状で日本はプーチン氏に来てほしいと思っていても、プーチン氏は行きたくないと考えている可能性が高いといえます。そこで、今回の演習によって、できれば日本側からの抗議によって「プーチン氏は行きたいのに行けない」という状況を醸成しようとしているのではないかな、という筋書きがふと浮かんできました。それならば、①領土で譲歩しないイメージをアピールし②強いプーチン像再びで国内での支持を高め③日本で会いたくない欧米側の記者団などの前に出なくて良くなるという、一石三鳥くらいは狙っているのかな~っと、邪推がはたらきます。
 
 ウクライナ、ガザ、イラクのテロ国家と、武力衝突がらみだけでも今年だけで新しい問題がいくつも出てきています。そのようななかで、日本周辺でも不可解な動きが散見される状況というのは、なんとも不気味です。発足以来、政策については拙速な感の否めない安倍政権ですが、難しい国際情勢下での国の舵取りだけは、慎重に過たないようにお願いしたいところです。