塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

遭遇!渋滞の発生する瞬間

2014年11月25日 | 社会考
 
 今年最後の三連休が終わりましたが、みなさまいかがお過ごしになられましたでしょうか。小生は日曜日だけ遠出をしましたが、帰りはしっかり高速道路の渋滞に巻き込まれてしまいました。下道を迂回する選択肢もあったのですが、やや疲れていたので、だらだらと渋滞のなかを移動することにしました。

 さて、渋滞はなぜできるのか。一般的には、ある程度交通が集中している状態において、上り坂やトンネルの出入り口である車が急にスピードを落とし、それに驚いて後続の車が急ブレーキを踏むなどした際に、その後ろはそれより遅く、その後ろはさらに遅くと続いてしまうことにより発生するといわれています。原理としては分かりますが、実際に渋滞ができる瞬間のようなものを目にすることはとても困難です。

 先月ぐらいのことになりますが、私はこの渋滞のできる瞬間に、幸か不幸か遭遇してしまいました。

 その時は、先週末よりも気力があったのか、渋滞情報に接して高速を降り、一般道を迂回する方を選びました。その迂回路は山間部を抜ける一本道で、片側一車線の村で唯一の幹線道路でした。トンネルなどはほとんどなく、渓谷部をうねりながら進むような道なのですが、他にベターな道もないので同じことを考えている車が少なからずありました。

 私も含めて、とにかく渋滞が嫌で、山道であってもスイスイ走れる方が良いというせっかちなドライバーが集まっているわけですから、信号のないのを良いことに、みんな結構急いで走ります。微妙な車間を保ちながら、みな前の車の都合でブレーキを踏まされてたまるものかといった感じで、赤い後部ライトは一定間隔と一定のリズムで進んでいきます。

 ところが途中1回だけ、何か危ういと思うことがあったのでしょう。私が見える範囲で一番前の車がブレーキを強く踏みました。すると、その後ろの車もやはりブレーキを踏みこまざるを得ず、その後ろも、その後ろもと続き、私の晩まで回ってきました。私の後ろがどうなっていたかは見ていませんでしたが、当然ながら繋がっていた分だけブレーキを踏みこんでいたはずですので、その分だけにわかに渋滞状態となっていたはずです。つまり、私はこのとき渋滞の発生源からかなり近いところにいて、渋滞ができていく様を目の当たりにしていたことになります。

 本当の発生源の1台がどれであったかまでは分かりませんが、かなり近いところにいたのは間違いないでしょう。その証拠に、私と私より前方にいた車は、すぐに元のスピードと列を取り戻すことができました。

 この経験から改めて明らかになったことは、どんなに車数が集中していても、それなりに車間をとって全体が同じスピードで走り続けていれば、渋滞にはならないということです。できるだけ急ブレーキは避け、踏むにしてもできるだけ小刻みにすること。そしてなにより、何かあった時に自分が十分対応できる車間を見誤らずにとること。これが大事なのだろうと思います。

 個人的に渋滞の一番苛立たしいのは、渋滞を発生させた張本人は、理論上絶対にそれに巻き込まれることがないということですかね。それどころか、自分が渋滞を惹き起こしたことすら知らない可能性が高いわけですから、なんとも腹立たしいことこの上ありません。渋滞のメカニズムを解明し、発生させにくくしたり、解消しやすくするような画期的な方法が発明されないものかと願ってやみませんね。

 



羽生選手の衝突事故雑感

2014年11月11日 | 徒然
  
 先週11月8日に上海で行われたフィギュアスケート・グランプリシリーズの直前練習で、羽生結弦選手と中国の閻涵選手が衝突する事故が起きました。ちょうどその時、私はテレビをつけたまま別室にいたのですが、「ああー!」という悲鳴のような実況の声が聞こえて、「何事か」とびっくりしました。観てみると、羽生選手が中国の選手と衝突したということだったので、思わず「中国がついにやりよったか!」と考えてしまいました。リプレイ画面を観ると、どうやら故意ではなさそうですが、両選手とも棄権しないと聞いたときにはとにかく大丈夫かなと気になりました。

 両選手が演技を決行したことについては、今に至るまで賛否両論分かれているように感じます。賛否といっても、賛成の方の大多数も、無理をしてでも演技するべきだったというわけではなく、選手自身が大丈夫といって頑張っているのだから最大限応援したいという考えのようです。

 この件については、すでにさまざまなメディアを通して多くの意見が出されており、論点は直前練習が人数的にも時間的にも過密であるというところに収斂しつつあるように思います。より広いスペースでよりゆったりと練習することができれば、もちろん事故が起きる危険性はぐっと下がることでしょう。ですが、氷上の人数をいくら減らしても、事故の可能性をゼロにすることはできません。とくに今回の事故に関しては、その後の対応にも非常に大きな問題があったと考えています。

 事故後、応急の処置(検査も?)を終えた羽生選手に対し、コーチは棄権を促したものの、本人が出場することを強く希望したため、これを容れて演技することになったと聞いています。つまり、選手本人が自身の体調について「判断」し、出場を「決定」したということになります。私は、このような事故の場合における「判断」と「決定」の権限が専門家に委ねられていないという点に、強い疑問を感じます。

 高速で、ブレーキのかからないスケーティングの状況下で正面衝突したのですから、相当な衝撃であったことは私のような素人でも分かります。真っ先に疑われるのは脳震盪ですが、これは脳が強いショックを受けて機能障害を起こしている状態を指します。実際に機能に障害が生じているかどうかは、骨折などと違ってそう簡単に見分けられるものではありません。よしんばその場では大丈夫そうに見えても、強行出場して高速回転やジャンプの着地などで新たな負荷がかかることによって二次的に脳震盪が発症してしまうかもしれないくらいのことは、やはり素人でも見当がつきそうなものです。

 では、自分のことは自分が一番よく知っているとばかりに、本人の申告に拠るべきかというと、これこそ正反対です。明らかに泥酔している人が「俺は大丈夫!」と豪語するように、仕事に熱中するあまり癌の進行に気付かないという話を耳にするように、本人が自身の状態について一番分かっているなどというのは幻想に過ぎません。こと脳がダメージを負っているかもしれないとなれば、なおさら脳自体がパニックに陥って正常な判断力を欠いていると考えるのが普通です。そのような混乱した状態で「棄権か出場か」と訊かれれば、ほとんど無意識であっても「出たい」という言葉が口に上るのは、当然とはいえないまでもごく自然でしょう。

 加えて、羽生選手は19歳とまだ若く、不測の事態に対する経験までは、多いとはいえないはずです。「棄権した場合」「強行出場した場合」それぞれに起こり得るいくつものシナリオを提示できるのも、そのなかから冷静に最良と思われる選択肢を選びとれるのも、本人ではなく周囲にいる人間だったはずです。それを、「本人がやりたいといったからやらせました」というのでは、あまりに無責任というものでしょう。

 すなわち、今回の件での問題の1つは、事故が起きた際の棄権or出場の「判断」および「決定」の権限が誰にあるのかが、曖昧に過ぎる点にあると思われます。ドクター導入を訴える声があがっていると聞きますが、重要なのはドクターにしろ他の専門家にしろ、その人に棄権or出場の「判断」と「決定」の権限が与えられていることでしょう。そうでなければ、今回は羽入選手が演じ切れたので美談に祭り上げられましたが、「やれると言ったからやらせた」先の悲劇が起きてしまうことにもなりかねないでしょう。

  



サントリー「山崎」の「世界最高のウイスキー」選出 :酒の「1番」を決めることへの疑問

2014年11月06日 | 徒然

 英国で発行されるウィスキーのガイドブック『ウイスキー・バイブル』の2015年版で、サントリーの「山崎シェリーカスク2013」が世界最高のウイスキーに選ばれたそうです。シングルカスク(通常はいくつかの樽の原酒をブレンドして製品化するところを、ひと樽手を加えずに瓶詰したもの。すなわち一点もの)で欧州限定ですでに完売ということで、どのような味かは知り得べくもないですが、ジャパニーズ・ウィスキーが世界の頂点に立ったということは、なんとも記念すべき話題と思います。ちょうどNHKの連続ドラマでウィスキー技術を日本に持ち込んだ竹鶴政孝が取り上げられているだけに、旬が加速するような感じです。

 ただ、ちょっと気になるのが、2位以下を見てみると「ウィリアム・ラルー・ウェラー」「サゼラック・ライ18年」「フォアローゼス」とバーボン・ウィスキーが並んでおり、逆に竹鶴氏の留学先であるスコッチ・ウィスキーが全然入っていません。ソースをよく読んでみると、この『ウイスキー・バイブル』というのは、ウィスキー評論の権威とされるジム・マレー(Jim Murray)氏が1人で点数をつけて選んでいるそうです。

 いかに権威があろうと、審査基準が一個人の舌にのみ依拠しているというのは、評論雑誌としてはいかがなものでしょうか。とくに酒の好みなどというのは、ラーメンなどと同じように千差万別ですから、良し悪しの基準を個人が客観的に握れるなどということはあり得ません。現に、マレー氏の嗜好がしっかりランキングに出てしまっているように感じられます。

 私なんぞは大のスコッチ党で、ウィスキーのなかではバーボンはむしろ苦手な方です。申し訳ないことに、ライ・ウィスキーはとくに敬遠しがちです(要はトウモロコシとライ麦のエキスが苦手なようです)。したがって、マレー氏とは味覚を共有できそうにはないので、個人的には氏のランキングはあまり参考にはならなさそうかな、と思ってしまっています。

 かといって、では大勢で投票して1番を決めれば良いかというと、そういうわけでもないようです。日本でも、しばしば日本酒の品評会が各地で行われていますが、大賞に選ばれるのはたいてい吟醸酒です。当然ですが、多くの人が共通して美味しいと思うもの、すなわち各人が美味しいと思う範囲がもっとも重なり合う部分というのは、普通は分布域の中心近辺になります。したがって、味は薄すぎず濃すぎず、香りはゼロでもなく強すぎもせずといった、いわゆる飲みやすい無難な酒に落ち着きます。

 ところがここでも、私は吟醸より純米が好きで、キンキンに冷やしてようやく美味しい酒よりも、赤ワイン同様常温で味わい深いものの方が好みです。種々の大会で賞をもらっているような吟醸酒が、私のなかのランキングで上位に来ることは、基本的にはありません。

 では大会や論評に意味がないかというと、そうは思いません。ただ、順位を決めること、とりわけ1番を決めることには意味がないと考えています。食品のなかでも、酒は前述のとおりとくに好みが人によって異なる部類のものです。たとえば、何か旬のフルーツを例にとって、横軸に甘さの強弱、縦軸に香りの強弱をとります。すると、両方がマイナスになる第三象限が好みという人はそういないでしょうし、グラフ上の右上にあればあるほど良い品物ということになります。ここで、今度は日本酒を例にとって、横軸に辛口甘口、縦軸に香りの強弱を入れてみます。すると、グラフ上のどこにその人の最良点があっても、それはその人の好みということになり、右上にあればあるほど良い酒ということには決してなりません。

 つまり、少なくとも「味」に関していえば、酒の「良い」「悪い」を決める絶対的な基準というものは存在し得ません。No.1の酒を選出することは、本来理論的に不可能といえます。このことは、酒好きをやっていれば直感的にも分かるように思うので、酒のランキングを作ろうと考えるような人とは、残念ながら同じ酒飲みとして肌が合いそうにありません。

 無理に順位を付けなくても、先の『ウイスキー・バイブル』は「ガイドブック」なのですから、種々のウィスキーについて的確な論評を載せれば、それで十分権威ある雑誌になれるはずです。それを一個人のランキングにしてしまったということで、私からみればわざわざ雑誌の価値を落としにかかっているように感じられてなりません。品評会などについても同様で、会の第一の目的はお披露目と品評にあるはずです。どうしても賞を設けたいのであれば、いくつかの部門に分けて、できるだけ多くの嗜好に応えられるようにすべきでしょう。

 もちろん、興味のない人に関心をもってもらったり、どこから始めたら良いか分からない入門者に参考にしてもらうという面では、ランキング形式にも意味はあるのかもしれません。ただ、それも別に順位まで決める必要はないように感じます。

 さて、私の手元には、偶然ドラマの制作決定前の今春に訪れた余市蒸留所で買った、10年もののシングルカスクの小瓶が1本残っています。しばらくとっておけばブームに乗って値がついたりするのかな、とちょっぴり期待していたり(笑)。そういう点では、マレー氏にはもっとジャパニーズ・ウィスキーブームを煽って欲しいと願っているかも…?

 
余市蒸留所。ドラマの冒頭に出てたような…。