西の大阪で、言わなくて良い慰安婦発言で橋下徹市長が自ら警鐘を鳴らした党存亡の危機を前倒ししているさなか、東の東京で今度は猪瀬直樹知事が要らぬ思い付き発言をかましている。5月22日に開かれた政府の産業競争力で、猪瀬知事は「日本の標準時を2時間前倒ししてはどうか」と提案した。これにより、東京の金融市場を「世界でもっとも早い時間帯から取引の始まる市場」とし、世界の金融市場における東京市場の地位を向上させようというのだ。
少なくとも選挙時から訴えていたり、他の金融政策とセットで提言するというのであれば、一顧の価値もあろうかと思われるが、私にはどうしても先の五輪招致での失言を挽回したいがための思い付きセンセーションにしかみえない。それとても、とても失点を回復できるような発言とは思えないが。
この話を聞いて私が思い起こしたのは、そして猪瀬知事も提案のたたき台としたのだろうと思われるのは、シンガポールの例だ。シンガポールと日本の時差は、一般的な経度区分による時間帯に合わせれば2時間とするのが妥当なのだが、中国や台湾と同じ1時間となっている。すなわち、地理上の時間帯区分よりも1時間早められているのだ。
偶然私は今年初めてシンガポールに行ったのだが、時差が1時間と聞いてやはりとても違和感を覚えたので、ちょっと人に聞いてみた。すると、ビジネスの相手である香港など、インドシナ半島よりも東側の地域に合わせて設定されたのだという。猪瀬知事の発想は、このシンガポールの例から拝借したのではないだろうかとさえ思わせる。
ただ、シンガポールで上手くいっているからといって、日本にそのまま導入することははなはだ問題がある。その理由は、私が思いつく限り4点ほど挙げられる。
1つは、シンガポールが新興国であり、1965年の建国当時に、現在の標準時がすでに採用されていたということである。最初から「こうだ!」と決められていれば、それほど違和感も何も感じないだろうが、すでに長い間培われてきた生活サイクルが、突然金融の都合で2時間ずらされるとなれば、それは「ちょっと待て!」とならざるを得ないだろう。
第2に、シンガポールは赤道に近く、四季の変化が少ない地域であるという点だ。つまり、春と夏の日照時間の差が小さく、標準時を早めても、日の出・日の入が極端な時間になるということがない。それに対して、日本はヨーロッパほどではないにしろ、夏至と冬至の日照時間の差が大きい。ただでさえサマータイム導入の是非が議論されているなか、標準時そのものを早めれば、少なくとも冬の生活には支障が出かねない。
ここまでは、気の持ちようとして切り捨てることもできなくもないポイントであるが、次の2点はより重要である。すなわち、3点目としては、日本とシンガポールの経済構造の違いがある。シンガポールは、東京23区ほどの面積しかないという制約上、農業や製造業はまったく発展が望めず、金融と中継貿易にほとんど依存している。そのため、この2業にのみ利する政策であっても、「国策」として積極的に推進することができる。
しかし、日本は第一次産業も第二次産業も大きく発展した国家であり、金融だけの都合で国全体を巻き込むような政策をとることは、好ましいとはいえない。まして、標準時を早めるなどということは、農水産業や製造業など他の業種にとっては、マイナスにこそなりはすれ、プラスには決してならないように思われる。
最後に、先に挙げたシンガポールの面積が東京23区程度しかないという点も、大きな要素である。すなわち、1都市がそのまま1国の都市国家シンガポールでなら、当然ながら1都市の都合で標準時を動かすこともできるが、日本のように広さもあり地域差も激しい国家では、1都市の都合で国全体の単位を変更するというのは、相当な理由と根回しがなければできるものではない。間違っても、ぽっと出の思い付きが全国の共感を得て現実になる、などということはありえないだろう。
以上の理由から、猪瀬知事の提案が実現される可能性はほとんどないだろうし、その必要性もほとんどなかろうと思われる。ただ、私が問題にしたいのは、標準時間変更という案件の是非以上に、やはり猪瀬知事の就任以降このかたの思い付き発言の傾向である。
政策というものは、すべからく恩恵を受ける者もあれば、不利益を被る者もいる。単純に考えれば、恩恵に預かる者の割合が多ければ多いほど、その政策は「良い政策」となるだろう。他方で、重要なのは、どうしても出てしまう不利益を被る人たちを、いかに納得させるか、あるいは救済するかという継ぎの手である。言い換えれば、その政策のもたらす効果を十分に予測し、生じ得る弊害に対する処置まで講じていなければ、実行に値する政策とはいえないと私は考えている。
猪瀬知事のもろもろの提案を「思い付き」とみなさざるを得ないのは、まさにこの点である。オリンピック招致では、反対する人々に「寝てろ」と発言して説得しようという姿勢すら放棄し、デメリットに触れることなく都バス24時間化を謳い、そして今回の標準時前倒し提案である。
どれも、メリットとデメリット、効果と生じ得る弊害への対処を事前に考慮した上での提案であれば、一考の価値もあるだろうというのは、前に述べた通りだ。しかし、問題点を指摘されれば、普段から人を見下した態度がさらに一層ぶっきらぼうになるというのでは、目先の功名を狙った思い付きといわれても仕方あるまい。相手に及ぼす影響も考えず、メンツだけで高圧的な言動を繰り返す、どこかの国の将軍様と同じである。そのような思い付きセンセーション発言を繰り返すだけの人物が、この国の東西の中心都市を動かしているのかと思うと、この国の今後までもが心配でならない。