塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

桶狭間考③:本戦前の動向<松平元康の兵糧運び入れ>

2009年08月31日 | 歴史
    
 だいぶ間が開いての更新となりますが、また桶狭間の戦いに関する私的考察を再開させていただきます。今回からは更に話が細かく専門的になっていきます。桶狭間の戦いにおいては、実は信長が義元に決戦を挑むに至るまでの各部隊の動きこそが、全くのブラックボックスであるといっても過言ではありません。今一度、本戦までの現地での流れを確認してみます。

 5月17日、今川義元本隊は桶狭間かから5kmほど東の沓掛城に入った。翌18日の夜、義元の命を受けた松平元康(後の徳川家康)ら三河勢は、無血で大高城へ兵糧を運び入れることに成功した。三河勢はそのまま大高城に留まり、翌19日未明に、大高城守将朝比奈泰朝とともに丸根鷲津の両砦を攻撃した。この攻撃の報を受けた信長は、「人間五十年」で有名な「敦盛」を舞った後、わずかな供を連れて城を発した。熱田神宮で軍勢を整えた信長は、同日午前10時ごろ善照寺砦に入った。この間に、丸根・鷲津の両砦は陥落し、城兵は玉砕している。また、信長到着の報に触れ、最前線の中島砦にいた千秋季忠・佐々隼人の部隊300人ほどが今川軍に攻撃を仕掛け、両将は討ち死にした。この後、信長隊は義元本陣に突撃をかけ、勝利することになる。

 このように本戦までの経緯をたどってみると、私が思いつくだけでも次のような疑問点が上がってきます。
 ①松平元康はなぜ易々と兵糧運び入れに成功したのか。
 ②信長はなぜ突然出陣したのか。
 ③千秋・佐々はなぜ無謀な突撃を行ったのか。

 まず今回は、①「松平元康はなぜ易々と兵糧運び入れに成功したのか。」について考えてみます。兵糧を運ぶということは、荷車など鈍重な輜重隊を護衛しながらの、極めて無防備な状態での行軍となります。このようなときに攻撃を受ければ、たとえ相手が寡兵であったとしても、ひとたまりもありません。しかし元康は、この危険な兵糧入れを織田勢に気付かれることなく無血で成し遂げます。この理由として一般的にいわれているのは、大高城を囲む砦の今川方への内通です。当時大高城は、丸根・鷲津のほか、向山砦・氷上山砦・正光寺砦の5つの砦によって包囲されていました。これらの砦の目的は城と外との連絡や交通の遮断にあった訳ですから、普通に考えて元康隊の輸送がばれないということは有り得ません。故意に輸送隊が見逃されていたと考えるのが自然なのです。


大高城包囲網参考図
国土地理院発行1:25000より改編


 どこかの砦の見逃しがあったとして、次にどの砦が見逃したのかが問題となります。元康隊が通ったと思われるルートは、丸根砦・鷲津砦・正光寺砦のいずれかの眼前を通ります。このうち、鷲津砦の守将は信長の大叔父とされる織田秀敏、丸根砦の守将は重臣佐久間盛重で、両名とも翌日の激しい攻防戦で戦死しています。翌日に攻め滅ぼされている以上、この両名が内通していたとは考えられません。よって正光寺砦が元康隊見逃しの犯人と考えるのが妥当と思われます。

 次の問題は、誰がこの正光寺砦を守っていたのか、ということです。この点については、史料が全くないため、現在のところ完全に不明というほかありません。ただ可能性として挙げられるのが、知多半島東部を中心に勢力を持っていた大豪族水野氏です。当主水野信元は、織田信長の父信秀の代に今川氏から織田氏へ寝返りました。信元の妹は松平元康の生母於大の方で、このとき今川方に留まった元康の父広忠によって離縁された話は割と知られています。この信元は、地理的にも桶狭間の戦いに無関係では有り得ないはずなのに、史料には全く出てこないのです。代わりに史料に登場するのが、分家していた弟の水野信近です。信近は、戦後本国へ退却する今川勢に居城の刈谷城を攻められ戦死します。特段の理由がなければ、危険な撤退の途中にわざわざ寄り道してまで攻められたりはしないでしょう。この水野兄弟には、桶狭間において何らかのいわくがあったと考えざるを得ません。

 ここからはただの推測になりますが、正光寺砦には信近かその周辺人物が入っていたのではないでしょうか。水野氏は、当時の勢力地図からみれば織田氏や松平氏と同じくらいの勢力を誇る大豪族でした。そのような水野氏が、忠義ではなく利益に依って織田・今川両家を天秤にかけていたとしても何ら咎められるものではありません。また、水野兄弟は松平元康の伯父に当たるわけですから、元康を通じて交渉がもたれたとしても不思議ではありません。水野兄弟は、今川氏への寝返りも匂わせつつ、元康の兵糧運び入れの見逃しを約していたのではないでしょうか。とくに信元としては、どちらが勝っても自身の領地と地位が保たれるように情勢を伺っていたのではないでしょうか。それゆえ、兵糧運び入れの見逃しという不作為はしても、桶狭間本戦における寝返りという作為はしなかった。それを約束の反故と捉えた今川軍の敗残兵によって、信近は刈谷城に攻め滅ぼされてしまった、と考えるとすっきりするような気がします。勝手な憶測の羅列ですが。

 ちなみに当の信元は、戦後しゃあしゃあとして織田家と松平家の同盟の仲介役を買って出たりしています。しかし桶狭間の戦いの16年後、武田氏への内通を信長に疑われ、信元は殺害されました。内通を讒言したのは、丸根砦の守将佐久間盛重の同族佐久間信盛でした。

   



仙台探訪②:仙台七夕祭り

2009年08月27日 | 仙台
    
 お盆明けにはといいながら、はや八月も終わりに近づいてしまいました。今回生まれ故郷の仙台に帰るにあたって、仙台七夕祭りを十年ほどぶりに見てきました。いつでも見られると思うと、結局なかなか行かないものです。

 仙台七夕は、毎年8月6日から8日にかけて開催されます。仙台には、通称「一番町」と呼ばれる長大なアーケード商店街があり、居並ぶ各商店が飾りの豪華さや趣向を競います。その数は、数千にもなると言われ、また一本あたり数十~数百万円ほどかかるそうです。


こんな感じです。


 仙台七夕の起源は、伊達政宗の仙台開府まで遡るとする伝承もありますが、これはかなり疑わしいです。そもそも仙台の地物は何でもかんでも政宗に因もうとする癖があるため、政宗の名前が出たら大抵まゆつばモノです。とりあえず、現在の祭りのもとになったのは、世界恐慌による不景気を憂慮した商店街の有志が、客寄せのために七夕飾りを大規模にしたことによります。この七夕祭りが、戦後「東北三大祭り」の一つに数えられたことによって、全国に知られるようになりました。


地元の人はみんな知ってる「からくり七夕」


 この豪華な飾りによる仙台の七夕の手法は、その後全国に移植されるようになりました。その中で最も有名になったのが、平塚の七夕祭りでしょう。こちらは7月7日なので日程的に訪れにくいところがあり、残念ながら私も見たことがありません。ただ私の聞いた限りで、仙台と平塚の祭りの最大の違いは、仙台方式の飾りが和紙を原則としているのに対し、平塚の方はビニール系が中心だということです。これは、平塚の商店街にはアーケードがないという事情にも起因しているそうですが、やはり和紙であることによって一段と趣が増すように思います。


騎馬の模様は一見プリントに見えますが、
これも和紙で切り張りしたものです。
仙台七夕では「絵も和紙で」が基本です。


 最近では、商店街も不景気や高齢化、後継者不足、企業の進出などにより雰囲気が急速に変わりつつあり、七夕の開催にも様々な問題が生じているようです。一応今のところフランチャイズチェーンの店舗なども祭りには参加して、規格に沿った飾りを出してはいますが、仙台商人が作る伝統的な飾りと比べると、どうしてもかなり質が下がって見えます。また、高齢化や人手不足などで製作が難しくなったところでは、業者に外注せざるを得なくなっているようで、今後の動向には心配な面もあります。


これはスタバの飾り。
チェーン店であろうと強制参加です。


と、地元の代表的な祭りですからいろいろと宣伝しましたが、私自身は、実はそれほど七夕祭りには思い入れがなかったりします。この祭りの最大の難点は、商店街の端から端までただ上を見ながら歩くだけ、という単調さで、私は大抵途中で飽きてしまうのです。さらに、ただでさえ普段から賑わっている商店街ですから、祭りの期間中はかなりの人出でごった返します。今回自分は出店でビールやらワインやら買って飲んで、途中で買い物して帰りましたが、純粋に祭りだけ見るつもりで訪れると少々しんどいかと思います。


祭りの期間中はこの人ごみ。