だいぶ間が開いての更新となりますが、また桶狭間の戦いに関する私的考察を再開させていただきます。今回からは更に話が細かく専門的になっていきます。桶狭間の戦いにおいては、実は信長が義元に決戦を挑むに至るまでの各部隊の動きこそが、全くのブラックボックスであるといっても過言ではありません。今一度、本戦までの現地での流れを確認してみます。
5月17日、今川義元本隊は桶狭間かから5kmほど東の沓掛城に入った。翌18日の夜、義元の命を受けた松平元康(後の徳川家康)ら三河勢は、無血で大高城へ兵糧を運び入れることに成功した。三河勢はそのまま大高城に留まり、翌19日未明に、大高城守将朝比奈泰朝とともに丸根・鷲津の両砦を攻撃した。この攻撃の報を受けた信長は、「人間五十年」で有名な「敦盛」を舞った後、わずかな供を連れて城を発した。熱田神宮で軍勢を整えた信長は、同日午前10時ごろ善照寺砦に入った。この間に、丸根・鷲津の両砦は陥落し、城兵は玉砕している。また、信長到着の報に触れ、最前線の中島砦にいた千秋季忠・佐々隼人の部隊300人ほどが今川軍に攻撃を仕掛け、両将は討ち死にした。この後、信長隊は義元本陣に突撃をかけ、勝利することになる。
このように本戦までの経緯をたどってみると、私が思いつくだけでも次のような疑問点が上がってきます。
①松平元康はなぜ易々と兵糧運び入れに成功したのか。
②信長はなぜ突然出陣したのか。
③千秋・佐々はなぜ無謀な突撃を行ったのか。
まず今回は、①「松平元康はなぜ易々と兵糧運び入れに成功したのか。」について考えてみます。兵糧を運ぶということは、荷車など鈍重な輜重隊を護衛しながらの、極めて無防備な状態での行軍となります。このようなときに攻撃を受ければ、たとえ相手が寡兵であったとしても、ひとたまりもありません。しかし元康は、この危険な兵糧入れを織田勢に気付かれることなく無血で成し遂げます。この理由として一般的にいわれているのは、大高城を囲む砦の今川方への内通です。当時大高城は、丸根・鷲津のほか、向山砦・氷上山砦・正光寺砦の5つの砦によって包囲されていました。これらの砦の目的は城と外との連絡や交通の遮断にあった訳ですから、普通に考えて元康隊の輸送がばれないということは有り得ません。故意に輸送隊が見逃されていたと考えるのが自然なのです。
大高城包囲網参考図
国土地理院発行1:25000より改編
どこかの砦の見逃しがあったとして、次にどの砦が見逃したのかが問題となります。元康隊が通ったと思われるルートは、丸根砦・鷲津砦・正光寺砦のいずれかの眼前を通ります。このうち、鷲津砦の守将は信長の大叔父とされる織田秀敏、丸根砦の守将は重臣佐久間盛重で、両名とも翌日の激しい攻防戦で戦死しています。翌日に攻め滅ぼされている以上、この両名が内通していたとは考えられません。よって正光寺砦が元康隊見逃しの犯人と考えるのが妥当と思われます。
次の問題は、誰がこの正光寺砦を守っていたのか、ということです。この点については、史料が全くないため、現在のところ完全に不明というほかありません。ただ可能性として挙げられるのが、知多半島東部を中心に勢力を持っていた大豪族水野氏です。当主水野信元は、織田信長の父信秀の代に今川氏から織田氏へ寝返りました。信元の妹は松平元康の生母於大の方で、このとき今川方に留まった元康の父広忠によって離縁された話は割と知られています。この信元は、地理的にも桶狭間の戦いに無関係では有り得ないはずなのに、史料には全く出てこないのです。代わりに史料に登場するのが、分家していた弟の水野信近です。信近は、戦後本国へ退却する今川勢に居城の刈谷城を攻められ戦死します。特段の理由がなければ、危険な撤退の途中にわざわざ寄り道してまで攻められたりはしないでしょう。この水野兄弟には、桶狭間において何らかのいわくがあったと考えざるを得ません。
ここからはただの推測になりますが、正光寺砦には信近かその周辺人物が入っていたのではないでしょうか。水野氏は、当時の勢力地図からみれば織田氏や松平氏と同じくらいの勢力を誇る大豪族でした。そのような水野氏が、忠義ではなく利益に依って織田・今川両家を天秤にかけていたとしても何ら咎められるものではありません。また、水野兄弟は松平元康の伯父に当たるわけですから、元康を通じて交渉がもたれたとしても不思議ではありません。水野兄弟は、今川氏への寝返りも匂わせつつ、元康の兵糧運び入れの見逃しを約していたのではないでしょうか。とくに信元としては、どちらが勝っても自身の領地と地位が保たれるように情勢を伺っていたのではないでしょうか。それゆえ、兵糧運び入れの見逃しという不作為はしても、桶狭間本戦における寝返りという作為はしなかった。それを約束の反故と捉えた今川軍の敗残兵によって、信近は刈谷城に攻め滅ぼされてしまった、と考えるとすっきりするような気がします。勝手な憶測の羅列ですが。
ちなみに当の信元は、戦後しゃあしゃあとして織田家と松平家の同盟の仲介役を買って出たりしています。しかし桶狭間の戦いの16年後、武田氏への内通を信長に疑われ、信元は殺害されました。内通を讒言したのは、丸根砦の守将佐久間盛重の同族佐久間信盛でした。