主が油を注がれた人キュロスについて主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り、国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。(イザヤ45:1)
無血開城とは言え、王に次ぐバビロン第三の位にいたダニエルが殺されずに、そのまま召し抱えられたのは極めて異例であった。たとえ王が認めても、側近にしてみれば、ダニエルは邪魔な存在でしかない。こうした騒動が6章に記されているが、キュロスが入城し、ベルシャツァルが殺された時に、キュロスとダニエルは会っているはずである。この経過に関する記述は聖書にはないが、おそらくこうしたやりとりがキュロスとダニエルの間であったと考えられる。
捕囚が70年間で終わる事を、エレミアの預言からダニエルが悟っていた様に、ペルシャの王キュロスによって、バビロンの王宮が無血開城される事を、ダニエルはイザヤの預言によって知っていた。しかも、この預言には、キュロスが一夜にして王宮の堀を埋め、巨大な青銅の扉を破り、入城した様子がそのまま記されていた。更に、キュロスがバビロンに囚われていたイスラエル民族の解放者である事も。
バビロン入城の150年も前に記されていた預言を、ダニエルから示されたキュロスが驚嘆した事は想像に難くない。事実、キュロスによる勅令(エルサレム帰還令)が出されたのは、キュロスがバビロンに入城したその翌年であった。(メッセージより抜粋)
無血開城とは言え、王に次ぐバビロン第三の位にいたダニエルが殺されずに、そのまま召し抱えられたのは極めて異例であった。たとえ王が認めても、側近にしてみれば、ダニエルは邪魔な存在でしかない。こうした騒動が6章に記されているが、キュロスが入城し、ベルシャツァルが殺された時に、キュロスとダニエルは会っているはずである。この経過に関する記述は聖書にはないが、おそらくこうしたやりとりがキュロスとダニエルの間であったと考えられる。
捕囚が70年間で終わる事を、エレミアの預言からダニエルが悟っていた様に、ペルシャの王キュロスによって、バビロンの王宮が無血開城される事を、ダニエルはイザヤの預言によって知っていた。しかも、この預言には、キュロスが一夜にして王宮の堀を埋め、巨大な青銅の扉を破り、入城した様子がそのまま記されていた。更に、キュロスがバビロンに囚われていたイスラエル民族の解放者である事も。
バビロン入城の150年も前に記されていた預言を、ダニエルから示されたキュロスが驚嘆した事は想像に難くない。事実、キュロスによる勅令(エルサレム帰還令)が出されたのは、キュロスがバビロンに入城したその翌年であった。(メッセージより抜粋)
聖書全体と歴史を照らし合わせながら読み、その行間にある神様の言葉を見つける喜び。特に、「バビロン」としてこの世を支配し続ける反逆の世界の動きも知り、
創世記から黙示録まで何度も記されている人間中心の帝国に注意を促された。今だけ、金だけ、自分だけ、の空虚な世界。それが「バビロン」の最終到達地点。神様の御国とは真逆にあり、その先は滅びしかない。
ダニエルは預言書を紐解き、キュロス王の勅令を確信していた。捕囚という不自由な身にありながら、御言葉に親しみ続け、祈り続け、終末までの怒涛の幻に圧倒されながらも天の御国を見、イエス様に出会った。それはバビロンの町にいたエゼキエルも、廃墟と化したエルサレムに残ったエレミヤも同じ。
御言葉に親しみ、真理を知り、イエス様に出会う喜びを次回はエゼキエル書からも教えられるそう。ただ、ダニエル書の約4倍の量???予習に不安を持ちながら
御言葉を求め、深みに入って行こう。
そのような作業をメッセージを通して説き明かしていただき、更なる聖書の深遠さを理解する事ができ、感謝でした。
でも、一言で表すと、
「やっぱり、聖書(神様)ってすごいっ!」
に尽きます…
キュロス王が生まれる150年前に
預言者イザヤがキュロス王について語っているのですから!
また、「バビロン」と言う言葉は、創世記から黙示録まで記載されている人間主体の国家の象徴であること。
人間はその只中で、イエス様以外に救われる方法がないのは、納得です。
そして、その救いの約束をいただいた私たち、クリスチャンは、イエス様がダニエルに言われたように
「清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者は、だれも悟らないが、目覚めた人々は悟る。日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから
、1,290日が定められている。待ち望んで1,335日に至る者は、まことに幸いである。終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」(ダニエル書12章10-13節)
この約束をしっかりと覚えて、
「時をよく用いなさい。今は、悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」(エフェソ5:16-17)
この御言葉に従って日々生活していきましょう。