小預言書中、黙示文学の性格が強い書巻が、ゼカリアとこのヨエルで、特に本書は、王様の名前や国や時代に関する記述が一切なく、記された時期も断定する事が出来ない謎の預言書である。
「あぁ恐るべき日よ、主の日が近付く(1:15)」「主の日が来る、主の日が近付く(2:1)」、「主の日は大いなる日でなははだ恐ろしい(2:11)」、「主の日、大いなる恐るべき日が来る(3:4)」と、突然やって来る未曾有の大災害への警告。それが、イナゴの来襲と重ねて繰り返し警告されている。
現代社会で生活している私達には、イナゴの災害と言われてもピンと来ないが、殺虫剤が開発される近代まで、イナゴの災害(蝗害)は、水害や日照り以上に恐れられた自然災害であった。不気味で巨大な黒い雲の固まりが空から突然襲って来るという、視覚的な恐怖も伴い、古代イスラエル社会において蝗害は、神の怒り・呪いの象徴。このイナゴの群れはどんな植物をも全て食い尽くし、去った後は深刻な食料飢饉を招く。
その規模は私達の想像を遥かに越えており、19世紀、ネブラスカで起きたイナゴの群れは、幅160キロ、長さ500キロ。 中国では蝗害が起こったために戦争が中断された記録もある。日本でも江戸時代中期に起った日本4大飢饉の一つ、享保の大飢饉(推定死者100万人)は蝗害であった。
パレスチナ地方には約40種類以上のイナゴが生息し、それを表すヘブライ語も10種類以上存在する。1章4節の“かみ食らうイナゴ”、“移住するイナゴ”、“若いイナゴ”、“食い荒らすイナゴ”の4匹のイナゴはヘブライH語では全て違う言葉が使われている。
そのイナゴによる災害が「巨大で数知れない民(1章6節)」という、やがてイスラエルを滅亡にらせる敵国に喩えられており、やがてそれが、終末時代に引き起こされる大惨事へと繋がって行くのである。(メッセージより抜粋)
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「あぁ恐るべき日よ、主の日が近付く(1:15)」「主の日が来る、主の日が近付く(2:1)」、「主の日は大いなる日でなははだ恐ろしい(2:11)」、「主の日、大いなる恐るべき日が来る(3:4)」と、突然やって来る未曾有の大災害への警告。それが、イナゴの来襲と重ねて繰り返し警告されている。
現代社会で生活している私達には、イナゴの災害と言われてもピンと来ないが、殺虫剤が開発される近代まで、イナゴの災害(蝗害)は、水害や日照り以上に恐れられた自然災害であった。不気味で巨大な黒い雲の固まりが空から突然襲って来るという、視覚的な恐怖も伴い、古代イスラエル社会において蝗害は、神の怒り・呪いの象徴。このイナゴの群れはどんな植物をも全て食い尽くし、去った後は深刻な食料飢饉を招く。
その規模は私達の想像を遥かに越えており、19世紀、ネブラスカで起きたイナゴの群れは、幅160キロ、長さ500キロ。 中国では蝗害が起こったために戦争が中断された記録もある。日本でも江戸時代中期に起った日本4大飢饉の一つ、享保の大飢饉(推定死者100万人)は蝗害であった。
パレスチナ地方には約40種類以上のイナゴが生息し、それを表すヘブライ語も10種類以上存在する。1章4節の“かみ食らうイナゴ”、“移住するイナゴ”、“若いイナゴ”、“食い荒らすイナゴ”の4匹のイナゴはヘブライH語では全て違う言葉が使われている。
そのイナゴによる災害が「巨大で数知れない民(1章6節)」という、やがてイスラエルを滅亡にらせる敵国に喩えられており、やがてそれが、終末時代に引き起こされる大惨事へと繋がって行くのである。(メッセージより抜粋)
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なので、なんとなくわかっていたような感覚になっていましたが、実際、いつか書かれたかもはっきりしていないと言う事も知りませんでした。
そう言う意味において、ヨエル書をきちんと学ぶ時が与えられて感謝です。
ヨエル書のテーマである、「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」
「主の御名を呼ぶ者」とは、「祈る者」と言う意味でもあると言うことを理解しました。
教会に行き始めてからすぐに覚えた「主の祈り」、
改めて「主の祈り」は、イエス様が私たちクリスチャンに教えてくださった大切な祈りだと言うことを
学びました。
暗唱しているから祈るのではなく、心をこめて「主の祈り」を祈っていこうと実感しました。
預言書を単なる知識として学んでも意味がないと、えんぢぇる師が言う。これは警告だ。全人類に対する、そして今を生きる私に対する。その答えが、ヨエルが伝えたかった核だ。ヨエル書3章5節「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。」
あのペンテコステの時、ペテロはこの預言を力強く語った。それは、イエス様のご命令通り、皆で心合わせて祈り続けた10日間があってこそ。その祈りは個人的必要ではなく、神様の思いそのものの祈り、『"THE" 祈り』だった。
混迷を極めつつある現代の今も、真の平和と神の御国の到来を求める祈り、「主の祈り」を献げなければならない、と思った。それがヨエルの預言を受け取ったクリスチャンの使命だ。
しかし、神様は主の名前を呼び求めれば助けてくださると言ってくれている。それをしっかりと胸に刻んで、これからも生きていこうと思う。そして、主の祈りを呪文のように唱えるのではなく、心から祈っていくべきだと思う。
私は、昔日曜学校に通っていた頃、主の祈りを呪文のように唱えていた。しかし、改めて主の祈りはしっかりと意味を把握して、心から祈り求めるべき、大事な大事な神様から与えられた祈りなのだ。
それを踏まえて、今後は呪文にならないよう、主の祈りを祈っていきたい。
ロシア人はノンクリでも“主の祈り”を知ってるんだと感心させられたが、インテリが聖書と格闘している姿は、芥川も太宰もタルコフスキーも基本的に同じである。しかし、このシーンを見て、こうした極限状況に置かれたら、確かに“主の祈り”しかないのだろうなぁ・・と思わされた。さすがこの辺りは、トルストイやドフトエフスキーといった背景があるせいだろう。
ユダヤ人の営みは正に、クリスチャンの大部分も含めまだの方たちの事を表していると思います。私達の事です。創世記から繰り返されている罪、的外れの生活です。ここでも箴言3章5〜6節を思い出します。いつも最後は顔をこちらに向ければ救われるよと神様は言ってくださいます。3章はいつも、最後の時の大リバイバルの事を思い浮かべます。今までのクリスチャンたちが「その時」のために延々と主の道を創り続けてきている事を思います。
それにしても、この世の君の力はすごい。私達に見えない様にして、雰囲気で貶めてしまう。人を通し、社会を通し、言葉の裏に隠れて的外れにさせてしまう。
主に顔を向けさせない様に・・・。しかし、今はイエス様がおられて、聖霊様が助けてくださっています。「驚くほどの恵み」です。
へブル人への手紙を思い起こしています。12章の1節から12節まで。ここでも、元気であれとおっしゃってくだっさっています。おびただしい雲のような証人に囲まれているとは、力強いものを感じます。
イエス様の御名が高く崇められますように。
ヨエル書を見ている時、主の聖餐の時の事で、過ぎ越しの祭りが気になり少し調べたところ、ヨエル書と黙示録には極めて関係が深い事が分かりました。また、花嫁のユダヤの習慣が分からないと教会とイエス様の関係が分からない事も気付かされました。少しづつ調べてみたいと思っています。
甚だしい悪の時代に向かって「ああ、恐るべき日よ 主の日が近づく。 全能者による破滅の日が来る。」ヨエルを通して主が叫んでいる事を重く受け止めます。神はユダヤ人を通し私達に教えておられます。もしかすると、旧約にも大リバイバルの様子とその要件が書かれているかもしれません。(使徒行伝2章、エズラ記3:1、ネヘミヤ記8章、等々。)
御心が地でも早く行われますように。
主が高くあがめられますように。