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メッセージの中で「霊的一致の4つのポイント」について学びましたが、霊的一致がなされた証しが「共に喜ぶ」と言うことにつながると思います。喜びを共有できることほど、幸せなことはありません。主にあって「救われた喜び」を一人でも多くの人と共にすることができますように。ハレルヤ!
①共通の目的:一人でも多くの魂の救いを目指し、この一致に喜びが生まれる。
②互いの信頼:幹さえしっかりしていれば、枝葉は広がって行けばよい。
③神への従順:何事にもOPEN MINDさが大切。否定的・悲観的思考の中では、聖霊様は働けない。
④神への信頼:私たちは天国民!
パウロが記したこの書簡は献品への礼状であり、そこまで私のことを思っていてくれるのか!という感謝と喜びに満ちています。しかしその喜びの骨組みには永遠の命と愛の教会を命懸けで与えてくださったイエス様への感謝があり、またイエス様の復活から自らの魂の復活をも知った信仰的喜びが脈打ち、それがこの世でイエス様を体現する「教会」の一致の喜びが生じます。そして、この溢れる喜びを共有するその喜びが癒しと救いに繋がって行きます。地境が広がりますように、御国がこの地に広がりますように、と完全なる一致を心から祈りました。
しかし、霊の一致がいかに難しいことであるかという事も知っている。
集まる人数が多い少ないに関係なく、一致しないことが一般的と思う。
その原因はまさしくイエスキリストを主とせず、自分の考えが先に立ってしまう事が大きいと思う。
神が喜ぶことを、神の助けにより、互いに信頼をもって目的に向かう事の重要性を感じるが、
そこにサタンの介入も多くなってくる。
神への従順、神を信頼し神の声に耳を傾けた教会生活の重要性を感じる。
教会の一致は難しい。
ごく少人数でも、バラバラなのが現実。
福音伝道を与えられた地域によって、適応させて
行かなければならないが、どうしたら良いか
掴めていない。
【メッセージについて】
フィリピの教会は川辺に有り、活動の中心は
リディアという、やり手の女性だった。
彼女は紫衣のビジネスをしており…。
こういう風に話して貰えると、ツルツルの壁が
ボルタリングの様になり、登って行ける。
単にフィリピの教会は、愛に溢れてるので
捧げ物とか施しが、特徴でした。
と、言われるより
そりゃ紫衣のビジネスをしている信徒が居れば
半端じゃないお金持ちだろうし
なるほどね〜と、分かりやすい。
それでリディアと云う人に、興味を持ち
調べようとフィリピを開けても、書いてない。
探したら使徒行伝に、有りました。
それから教会の具体的問題について。
これは簡単に分かる。
黙示録の7つの教会の手紙を、調べれば良い。
フィリピの問題点。
最初の愛から離れてしまった。
偽クリスチャンが、実効支配。
ただしニコライ派は、排除した。
そう云う教会だそうです。
ちなみにニコライ派とは、信徒を指導者と平信徒と分けて考える派閥らしいです。
神の前では、人間は全て平等なのになと
思いつつ、良くある落とし穴ですね。
奈都さん:「初心忘れるべからず!」本当にその通利ですね。霊による一致のポイントは、霊はへりくだった魂に流れる事。己を低くしていきましょう。
7つの手紙についてですが、最初の愛から離れ、ニコライ派を退けたのはピリピではなく、エペソ教会ですよね。あとで確認しておいてください。
でも全教会は、この7つの教会に当てはまると
思い、勝手にエペソぽいと思った次第です。
何事も自己中や虚栄からすることなく
へりくだって、互いに人を自分よりも優れた
者と思いなさい。
自分の事だけではなく、他の人の事も顧みなさい
とあったので、最初は主に感謝して
愛を持って
捧げていたのに、途中から虚栄心や自己満足に
変わってしまったのかなと思いました。
もし7つの教会に分類するなら、フィリピは
どこになりますか?
ちなみに家はラオデキアです(涙)
で、問題は私達の方ですね。もし本当にラオデキアだとすると、それは笑い事では済まされません。依然、引きずっている古い自我について、自分では気付いていない部分と、確信犯の部分があります。先ずは、確信犯の部分、つまり、神様が喜ばれない事を分っていながら、やっている部分について、自分達の意志・信仰で切り捨てられるかどうか。次の学びに移る前に、その事を吟味してください。
笑ってる場合ではありません。
片目、片腕切り落とす覚悟を、神様は問うて
おられるのですから。
福音はヒューマニズム(人間主義、もしくは人間ご都合主義)では決してないのだけれど、私たち人間を使わされる神様は、主にある師弟関係、主にある家族の間のケアを大事にされるお方だと思いました。そして、私たちはキリストによって一つとされたもの。生きることもキリストであり、死ぬことも益なのだというパウロと同じように告白するものです。
神様への従順は私のうちに御心が支配するから、神様への信頼は、キリストのために苦しむことも恵みとなる。
だからこそ、私たちは常に主にあって喜ぶことができるし、感謝を捧げるものとなる。それでも困ったら、イエス様ならどうされるだろうか。イエス様ならなんと言われるだろうか、と私たちはイエス様に聞くことができる。状況によらず、私たちは喜ぶものであることを宣言します。ここに聖霊様が働かれますように。感謝します。感謝します。