見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

絵画と文献と考古学/江戸の城づくり(北原糸子)

2012-07-15 23:52:28 | 読んだもの(書籍)
○北原糸子『江戸の城づくり:都市インフラはこうして築かれた』(ちくま学芸文庫) 筑摩書房 2012.6

 北原先生のお名前は、災害史や災害メディア史(瓦版とか鯰絵とか)の専門家として認知していたので、へえ、こんな研究もなさっていたのかと、ちょっと驚いた。もっとも本書は『江戸城外堀物語』のタイトルで、1999年「ちくま新書」の1冊として刊行されたもの。ちくま文庫は、最近、こういう改題再刊が多い気がする。

 本書は、地下鉄南北線工事に伴う江戸城外堀の発掘調査の報告書(地下鉄7号線溜池・駒込間遺跡調査会刊)のデータをもとに、江戸城外堀が、なぜ、どのように築かれたかを考える。その原点は、寛永13年(1636)の江戸城外堀普請にある。石垣を築く万石以上の西国大名60家と、堀を築く東国大名45家を動員した「天下普請」と呼ばれる大普請だった(ちなみに東国の大名は石積みの経験に乏しかった)。

 へえー。日本史の常識のない私には、初めて知る話で、いろいろ驚いてしまった。まず、徳川将軍が号令をかけると、「戦争のため」だけでなく「土木工事のため」でも、全国の大名たちを動員できたということにびっくりした。「そんなの嫌だ」「話が違う」などとゴネる奴はいなかったのか…。動員される大名の側では、戦闘能力とは全く異なる技術力(石材やマンパワーを調達し、運搬だの資材置場だのを管理運用する能力を含め)が必要だったわけで、よく対応できたなあと思う。いや、そこは意外と戦闘のロジスティックス(兵站管理)が応用できたのかもしれない。また、自分の住んでいる「東京」の原型が、全国数多の大名家の合力によってつくられた、ということに、ちょっと感動した。

 特に「枡形」と呼ばれる目立つ構造物を請け負うことは、名誉な「見せ場」を与えられることだった。都心のところどころに残る枡形の記憶を思い起こし、四谷駅前の枡形は毛利氏かー、飯田橋駅前の牛込枡形は阿波の蜂須賀氏なのかーなど、感慨にふけった。

 本書には、外堀普請に先立つ、いくつかの城郭普請の事例も取り上げられている。江戸城、大阪城、二条城など。いずれも多数の大名の「手伝普請」で成ったものだ。著者によれば、現在でも二条城の石垣には「石積みの巧拙の差を面白く眺められる」と言う。マニアックな楽しみ方だなあ。今度、近くに行ったら、気をつけて見てみよう。

 外堀普請に必要となる石材は、伊豆の石丁場で切り出され、帆船で江戸に運ばれたという。本書には、箱根湯本の和泉屋旅館の玄関には『石曳図屏風』なるものが飾られているとある(→日帰り温泉「和泉」のことらしい。見たいな)。慶長11年(1606)の江戸城普請では、たくさんの石舟が海に沈んだ記録があるそうだ。そりゃあそうだろうなあ、と思う。

 堀の普請は、石垣よりさらに大変そうに感じた。自分の割り当て場を着実にこなすだけでなく、隣接する組と、よく調整を図らなければならない。石垣の資材搬入も難事業だったろうが、堀を掘削したあとの残土処理も大問題だったようだ。これについては、考古学調査によって、残土の再利用(町地造成)が図られたことが分かっている。逆に言うと、これらを元に戻してみると、「天下普請」以前の江戸の地形図も正しく見えてくる。

 考古学調査+絵画資料+文献資料への、分け隔てない目配りが楽しい。これからの歴史学はこうでないと。ちょうど見てきたばかりの、出光コレクション『江戸名所図屏風』に触れた箇所があったのは、思わぬ偶然。まるで祭礼図のような『築城図屏風』(名古屋市博物館)は、一度くらい見ていそうだが、記憶にない。あらためて見てみたい。それから藤木久志氏の『雑兵たちの戦場』は、読みたいものリスト入り。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする