○村井章介『境界をまたぐ人びと』(日本史リブレット28) 山川出版社 2006.5
芸大美術館『草原の王朝 契丹』の記念講演会を聴きに行ったら、講師の市元塁さんが「契丹に触れる本」として紹介してくれた本の1冊。展覧会を見て、最後に2階のミュージアムショップに寄ったら、ちゃんと関連書籍が置いてあったので、忘れないうちにと思い、すぐ購入した。
短いまえがきのあと、日本列島をとりまく、さまざまな「境界」に関する5つの各論が、おおよそ年代順に収められている。
最初に提示される興味深い観点は、前近代の国境が「線」ではなく、ある程度の広がりを持つ「空間」であったこと。だから「境界をまたぐ」という表現は不正確で、前近代には、境界そのものを生存・活動の場とする生き方があったのだ。このことは、以下の各論で、順次確認されていく。
(1)エミシからエゾへ:7~9世紀、ヤマト国家の北方経略が生んだエミシとの緊張関係。政治的境界はゆるゆると北へ押し広げられていくが、その背後には民族雑居の状態が広範に広がっていた。10世紀以降、「蝦夷」の読み方がエミシからエゾに変化する。奥州藤原氏は、北方の海洋民との交易で築いた富で繁栄を謳歌したこと(金だけじゃないのか)、12世紀半ばから中央の貴族や僧侶が詠む和歌に、エゾを題材とする作品が「突然あらわれる」というのも面白い指摘だと思った。いろいろと、激動の時代だったんだなあ。
(2)環日本海の「唐人」-日本と契丹の媒介者:これが本題。1060年から約60年の間に、越前から但馬にかけての日本海岸に来着・居留する「唐人」が集中的に現れる。これは、当時、契丹に属していたロシア沿海地方から錫(白臈)をもたらした唐人、あるいは契丹人も混じっていたのではないか、と著者は推測する。博多なんかに比べたら、ずいぶん京に近いところに「居留」してたんだな、と驚く。
1092年、大宰権帥藤原伊房が商人僧と宋商と共謀し、契丹(遼)と私貿易を行い、処断された記録があるという。堀河天皇の、というより、白河法皇の御代である。頭注に小さく、白河院-範俊(僧)-明範(僧)という人脈で契丹の密教の導入が試みられた、という仮説が紹介されていて、へえ~思わぬ話が思わぬところにつながるものだな、と驚く。ちなみに伊房は能筆家としても有名。あと、この章段に紹介されている今昔物語の「猫ノ嶋」の唐人伝説は、むかし読んで、ちょっと怖かった記憶がある。
(3)多民族空間と境界人:平安末期から鎌倉初期、博多を拠点に、いよいよ本格的に活動する境界人たち。寧波の天一閣博物館には、博多に住む三人の中国人が銭10貫文ずつを寄付し、寧波の某寺の参道に立てた「刻石」が収められているらしい。え~天一閣博物館、行ったはずなのだが、これは見たかしら?! 写真の拓本には「日本國太宰府博多津居住」「日本國太宰府居住」の文字が誇らしげに躍っている。
また、歌人として有名な源俊頼の父親が大宰権帥として赴任中に亡くなり、俊頼が博多に下向して葬儀を営んでいると、唐人たちが弔問に訪れた、というのも興味深く読んだ。ううむ、この時代の資料はけっこう読んでいるつもりでも、知らないことが多いなあ。この章では、さらに室町時代に下り、対馬、朝鮮、琉球へと活躍の舞台を広げる境界人たちの姿を追う。
(4)俊寛物語を読む:「キカイガシマ」と称された南方の境界領域について。その住人は、普通の人間とは異なるが、完全な異界でもない。平家物語をよく読むと、鬼界が嶋の流人へは、平教盛が所有する肥前の鹿瀬荘という荘園から物資を送ることができた。鬼界が嶋の先には琉球があり、さらに中国や東南アジアに通じる交易ルートがあったことがわかる。
(5)元禄時代の「竹島問題」:1667年に出雲藩士斎藤豊宣が著わした文書の解釈をめぐって、日韓の一部の学者の解釈は対立している。しかし、著者の立場からすれば「前近代にさかのぼれば、国家と国家のあいだには、島をも含めて、誰のものでもない空間が広がっていたことはいうまでもない」のだ。
誰のものでもない空間、そこに生きる人たちの活力を、もう一度、取り戻すことができたら。ああ、今年の大河ドラマが描こうとして描き切れていないテーマも、本当はそのへんなんじゃないか、と唐突に思った。別に日本に比べて宋国がすばらしいと言いたいわけではなくて。
でも、私は、ふだん安定した組織の一員として生活しているからこそ「ボーダーレス」に憧れるけど、そもそも安定した雇用を手に入れることができず、生活基盤も帰属先も不安定な若者は、せめて「国家」くらい明確な輪郭を持ってほしいと願うのかもしれない。

短いまえがきのあと、日本列島をとりまく、さまざまな「境界」に関する5つの各論が、おおよそ年代順に収められている。
最初に提示される興味深い観点は、前近代の国境が「線」ではなく、ある程度の広がりを持つ「空間」であったこと。だから「境界をまたぐ」という表現は不正確で、前近代には、境界そのものを生存・活動の場とする生き方があったのだ。このことは、以下の各論で、順次確認されていく。
(1)エミシからエゾへ:7~9世紀、ヤマト国家の北方経略が生んだエミシとの緊張関係。政治的境界はゆるゆると北へ押し広げられていくが、その背後には民族雑居の状態が広範に広がっていた。10世紀以降、「蝦夷」の読み方がエミシからエゾに変化する。奥州藤原氏は、北方の海洋民との交易で築いた富で繁栄を謳歌したこと(金だけじゃないのか)、12世紀半ばから中央の貴族や僧侶が詠む和歌に、エゾを題材とする作品が「突然あらわれる」というのも面白い指摘だと思った。いろいろと、激動の時代だったんだなあ。
(2)環日本海の「唐人」-日本と契丹の媒介者:これが本題。1060年から約60年の間に、越前から但馬にかけての日本海岸に来着・居留する「唐人」が集中的に現れる。これは、当時、契丹に属していたロシア沿海地方から錫(白臈)をもたらした唐人、あるいは契丹人も混じっていたのではないか、と著者は推測する。博多なんかに比べたら、ずいぶん京に近いところに「居留」してたんだな、と驚く。
1092年、大宰権帥藤原伊房が商人僧と宋商と共謀し、契丹(遼)と私貿易を行い、処断された記録があるという。堀河天皇の、というより、白河法皇の御代である。頭注に小さく、白河院-範俊(僧)-明範(僧)という人脈で契丹の密教の導入が試みられた、という仮説が紹介されていて、へえ~思わぬ話が思わぬところにつながるものだな、と驚く。ちなみに伊房は能筆家としても有名。あと、この章段に紹介されている今昔物語の「猫ノ嶋」の唐人伝説は、むかし読んで、ちょっと怖かった記憶がある。
(3)多民族空間と境界人:平安末期から鎌倉初期、博多を拠点に、いよいよ本格的に活動する境界人たち。寧波の天一閣博物館には、博多に住む三人の中国人が銭10貫文ずつを寄付し、寧波の某寺の参道に立てた「刻石」が収められているらしい。え~天一閣博物館、行ったはずなのだが、これは見たかしら?! 写真の拓本には「日本國太宰府博多津居住」「日本國太宰府居住」の文字が誇らしげに躍っている。
また、歌人として有名な源俊頼の父親が大宰権帥として赴任中に亡くなり、俊頼が博多に下向して葬儀を営んでいると、唐人たちが弔問に訪れた、というのも興味深く読んだ。ううむ、この時代の資料はけっこう読んでいるつもりでも、知らないことが多いなあ。この章では、さらに室町時代に下り、対馬、朝鮮、琉球へと活躍の舞台を広げる境界人たちの姿を追う。
(4)俊寛物語を読む:「キカイガシマ」と称された南方の境界領域について。その住人は、普通の人間とは異なるが、完全な異界でもない。平家物語をよく読むと、鬼界が嶋の流人へは、平教盛が所有する肥前の鹿瀬荘という荘園から物資を送ることができた。鬼界が嶋の先には琉球があり、さらに中国や東南アジアに通じる交易ルートがあったことがわかる。
(5)元禄時代の「竹島問題」:1667年に出雲藩士斎藤豊宣が著わした文書の解釈をめぐって、日韓の一部の学者の解釈は対立している。しかし、著者の立場からすれば「前近代にさかのぼれば、国家と国家のあいだには、島をも含めて、誰のものでもない空間が広がっていたことはいうまでもない」のだ。
誰のものでもない空間、そこに生きる人たちの活力を、もう一度、取り戻すことができたら。ああ、今年の大河ドラマが描こうとして描き切れていないテーマも、本当はそのへんなんじゃないか、と唐突に思った。別に日本に比べて宋国がすばらしいと言いたいわけではなくて。
でも、私は、ふだん安定した組織の一員として生活しているからこそ「ボーダーレス」に憧れるけど、そもそも安定した雇用を手に入れることができず、生活基盤も帰属先も不安定な若者は、せめて「国家」くらい明確な輪郭を持ってほしいと願うのかもしれない。