○橘木俊詔『女性と学歴:女子高等教育の歩みと行方』 勁草書房 2011.10
一時期、格差論が流行って、さまざまな書き手が登場した中で、橘木さんは私の好みだった。声高に主義主張を唱えたり、危機感を煽ったりせずに、数量データを用いて淡々と語るスタイルに好感を持った。その後、2008年頃から、立て続けに大学論の著書を発表されていて、少し研究テーマを変えられたのかしら?と思っていたが、なるほど、本書を読むと、高等教育システムと格差の問題は、「学歴社会」をキーワードに直結していることが分かる。
本書は、まず明治以来の日本の女子高等教育の「歩み」を概観する。言及されているのは、東京女子高等師範(現・お茶大)、津田英学塾、東京女医学校、日本女子大学校、東京女子大など。あまり多くのデータは残っていないので、橘木さんらしい切り口の分析は少ないが、各校の沿革史等を素材に、事実に即して語っていく。ところどころ「興味が尽きない」とか「不思議に思う」とか、学術書らしからぬ率直な感想が挟まれている。
女子教育をめぐって、男性知識人たちが多く登場するのも、本書の面白いところ。東大総長・山川健次郎は、大正年間、内閣直属の臨時教育会議において「女子に高等教育を受けさせることは、民族の繁栄に害がある」と発言しているという。山川(大山)捨松の兄にして、この発言あり。東北帝国大学に女子を受け入れた沢柳政太郎総長は、大学経営の立場(東北大は旧制高校生の入学者が不足していた)から認めたのであって、積極的な男女平等論者ではなかったとか、同じく大正年間、九州帝大に2名の女子学士が誕生した際、リベラリストで知られる美濃部達吉教授は「僅か2人であるからその弊もなかろう」と発言しているとか…。まあ、こんな発言を後世に残されてしまった男性知識人も、迷惑な話だろうけど。
なお、本書は「高等教育」の範疇を少し広げて、高等女学校進学者に関するデータ分析を行っている。高等女学校の教育水準は、男子でいえば旧制中学に等しい。しかし、特定の人々(女性)の中で、その教育を受けている人の数が少ない(1920年代で15%)ことは、これを高等教育とみなす根拠となる、と著者は述べている。ううむ、それでいうと、今の大学教育なんて、ぜんぜん高等教育ではないな。
海外の女子教育への目配りも興味深かった。アメリカでは、第二次大戦後、経済的繁栄によって社会が保守化し、1950~60年代には、男性が外で稼ぎ、女性は家で家事と子育てに専念するという思想が有力になったという。そうか、アメリカの女性の解放(社会進出)というのも、決して単線的に進んできたわけではないのだ。1960~70年代、主にリベラル・フェミニズムの影響によって、アメリカの女子教育は大きな変革を迫られ、今日に至る。
日本では、戦後、本格的に女子の高等教育が認められるにあたり、GHQは男女共学を原則としようとしたが、「本国アメリカでは私立学校で別学を認めているのに、日本の私立学校に共学を勧めるのはおかしい」という指摘を受け、多くの女子大学が誕生することになった。著者は、「私が関心を持つのは…旧制の女高師や女子専門学校が…ほとんどが共学化しなかった事実とその理由である」と述べている。これはどうやら、女子教育関係者の自負と、父兄の希望が大きかったらしい。一方で、現役女子学生は、むしろ共学化を希望していたことが、当時のアンケートから分かっているのが皮肉である。
近年、女子の高等教育には、別学→共学へ、短大→四年制へという流れが顕著である。もうひとつ、女子教育全体としては「超高学歴層(名門・難関大学卒)」「高学歴層(女子大を含めた普通の大学・短大卒)」「低学歴層(高卒以下)」という三極化が進行しているという。では、これまで高学歴の男性によって占められてきた社会的な指導者層は、今後、「超高学歴層」の女性によって一部代替されていくのだろうか。著者は「そうあってほしい」と希望を述べつつ、そのための条件(考慮すべき点)を3つ挙げる。第一に、ワーク・ライフ・バランス。第二に、差別という障壁(の行方)。第三に、日本が学歴社会であり続けるか否か。
学歴社会の風潮が続くほうが、高い学歴をもった女性たちは、社会の指導者層に到達しやすい。もし日本がその特色を放棄するような時代になれば、「競争は混沌としたものになる」。さあ、あなたの望む社会はどっち?と問われているような、悩ましい設問である。ちなみに著者は、企業や役所の昇進においては、学歴の比重が小さくなるが、いわゆる専門職に関しては、学歴社会の退潮はないと考えており、この方面への女性の進出に期待している。それはいいんだけど、これから社会の指導者層(管理職)は何で決まるようになるんだろう。学歴社会がベストだとは思わないが、「混沌」の行方が恐ろしくて、不安になる。

本書は、まず明治以来の日本の女子高等教育の「歩み」を概観する。言及されているのは、東京女子高等師範(現・お茶大)、津田英学塾、東京女医学校、日本女子大学校、東京女子大など。あまり多くのデータは残っていないので、橘木さんらしい切り口の分析は少ないが、各校の沿革史等を素材に、事実に即して語っていく。ところどころ「興味が尽きない」とか「不思議に思う」とか、学術書らしからぬ率直な感想が挟まれている。
女子教育をめぐって、男性知識人たちが多く登場するのも、本書の面白いところ。東大総長・山川健次郎は、大正年間、内閣直属の臨時教育会議において「女子に高等教育を受けさせることは、民族の繁栄に害がある」と発言しているという。山川(大山)捨松の兄にして、この発言あり。東北帝国大学に女子を受け入れた沢柳政太郎総長は、大学経営の立場(東北大は旧制高校生の入学者が不足していた)から認めたのであって、積極的な男女平等論者ではなかったとか、同じく大正年間、九州帝大に2名の女子学士が誕生した際、リベラリストで知られる美濃部達吉教授は「僅か2人であるからその弊もなかろう」と発言しているとか…。まあ、こんな発言を後世に残されてしまった男性知識人も、迷惑な話だろうけど。
なお、本書は「高等教育」の範疇を少し広げて、高等女学校進学者に関するデータ分析を行っている。高等女学校の教育水準は、男子でいえば旧制中学に等しい。しかし、特定の人々(女性)の中で、その教育を受けている人の数が少ない(1920年代で15%)ことは、これを高等教育とみなす根拠となる、と著者は述べている。ううむ、それでいうと、今の大学教育なんて、ぜんぜん高等教育ではないな。
海外の女子教育への目配りも興味深かった。アメリカでは、第二次大戦後、経済的繁栄によって社会が保守化し、1950~60年代には、男性が外で稼ぎ、女性は家で家事と子育てに専念するという思想が有力になったという。そうか、アメリカの女性の解放(社会進出)というのも、決して単線的に進んできたわけではないのだ。1960~70年代、主にリベラル・フェミニズムの影響によって、アメリカの女子教育は大きな変革を迫られ、今日に至る。
日本では、戦後、本格的に女子の高等教育が認められるにあたり、GHQは男女共学を原則としようとしたが、「本国アメリカでは私立学校で別学を認めているのに、日本の私立学校に共学を勧めるのはおかしい」という指摘を受け、多くの女子大学が誕生することになった。著者は、「私が関心を持つのは…旧制の女高師や女子専門学校が…ほとんどが共学化しなかった事実とその理由である」と述べている。これはどうやら、女子教育関係者の自負と、父兄の希望が大きかったらしい。一方で、現役女子学生は、むしろ共学化を希望していたことが、当時のアンケートから分かっているのが皮肉である。
近年、女子の高等教育には、別学→共学へ、短大→四年制へという流れが顕著である。もうひとつ、女子教育全体としては「超高学歴層(名門・難関大学卒)」「高学歴層(女子大を含めた普通の大学・短大卒)」「低学歴層(高卒以下)」という三極化が進行しているという。では、これまで高学歴の男性によって占められてきた社会的な指導者層は、今後、「超高学歴層」の女性によって一部代替されていくのだろうか。著者は「そうあってほしい」と希望を述べつつ、そのための条件(考慮すべき点)を3つ挙げる。第一に、ワーク・ライフ・バランス。第二に、差別という障壁(の行方)。第三に、日本が学歴社会であり続けるか否か。
学歴社会の風潮が続くほうが、高い学歴をもった女性たちは、社会の指導者層に到達しやすい。もし日本がその特色を放棄するような時代になれば、「競争は混沌としたものになる」。さあ、あなたの望む社会はどっち?と問われているような、悩ましい設問である。ちなみに著者は、企業や役所の昇進においては、学歴の比重が小さくなるが、いわゆる専門職に関しては、学歴社会の退潮はないと考えており、この方面への女性の進出に期待している。それはいいんだけど、これから社会の指導者層(管理職)は何で決まるようになるんだろう。学歴社会がベストだとは思わないが、「混沌」の行方が恐ろしくて、不安になる。