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見もの・読みもの日記

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大衆と対峙した政治家/山県有朋と明治国家(井上寿一)

2011-10-30 00:08:48 | 読んだもの(書籍)
○井上寿一『山県有朋と明治国家』(NHKブックス) 日本放送出版協会 2010.12

 根があまのじゃくなので、歴史上、人気のない人物ほど気になる。伊藤博文への肩入れも、そんな気持ちから始まった。しかし、NHKドラマ『坂の上の雲』では、加藤剛演ずる伊藤博文がカッコ良すぎて、リアル伊藤公ファンとしては、ちょっと気恥ずかしい感じがする。さて、山県有朋は誰が演じていたか、思い出せなくてチェックしたら、江守徹だった。うーん。本書を読んだ印象だと、もう少し深謀遠慮の似合うタイプがいいと思う。

 本書は、政治家・山県有朋を主題とするため、生い立ち~幕末の青年期はさらりと済ませ、明治維新政府における手腕の振い方から、本格的な記述に入る。徴兵制度による国軍の創設。悪名高い統帥権(参謀本部)の独立。しかし、本書の描く山県は、頑迷な軍人至上主義者でも、狂信的な国家主義者でもない。つねに柔軟な判断のできるリアリストである。

 基本的には、山県は「非選出勢力」を中心とする立憲君主制の確立と護持に力を注いだ。選出勢力(政党、その背後の大衆)の拡大は避けねばならなかった。そのためには、国民生活を圧迫し、民心の離反を招くことは望ましくないので、ときには軍事費を削減し、「強兵」よりも「富国」を優先した。危険な社会主義を根絶するために、むしろ労働者保護や疾病養老保険などの社会政策を整備し、地方自治を推進した。いまの日本に、こういうリアルな洞察力の働く政治家はいないものだろうか、と思う。右でも左でもいいから。

 外交においては、列国とのパワーの差に自覚的であったがゆえに、協調外交を重視し、日清・日露の二つの戦争でも開戦回避を主張した。特に私は、日清戦争前夜の「朝鮮永世中立国化構想」を初めて本気で読んだ。ずっと口先だけの空論だろうと思っていたのだ。山県は、この構想のカウンターパートナーとして清国の李鴻章に期待していたという。しかし、国内の対外強硬論に乗じた陸奥外相は、枢密院議長の山県、首相の伊藤を押し切って、開戦を決定する。

 いざ開戦となれば、「一介の武弁」を名乗った山県は、誰よりも積極的に戦争を推進する。著者は「それが山県の矜持だった」と書いているけど、やっぱり私には分かりにくい点である。繰り返すが、本書は、政治家・山県有朋を主題とするため、二つの戦争それ自体の経過には、ほとんどページを割かない。日露戦争もアッサリ終わって、その後に山県が果たした役割について詳述する。

 本書を読んで再認識したのは、山県有朋(1838-1922)が、大正11年、83歳まで生きていたこと。長寿だなー。陸奥宗光(1844-1897)、伊藤博文(1841-1909)、桂太郎(1848-1913)、井上馨(1836-1915)など、明治国家の成長を支えてきた政治家たちが次々に没する中、山県は、大衆消費社会と対峙し、政党政治家の大隈重信、原敬などを巧みに操って「ポスト明治国家」の軟着陸に腐心し続ける。この時期(大正~昭和初頭)の政治史も、多少読んだことがあるのだが、あまり山県の影響力を考えたことはなかった。

 山県の国葬に際して、ジャーナリスト石橋湛山(1884-1973)は「死もまた社会奉仕」という挑発的なタイトルの一文を寄せ、山県の死は、社会の健全な発達に必要な「新陳代謝」でなくてはならない、と論じているという。権力者として近代日本の(明治日本の)国家秩序を維持し続けた山県は、もはや去るべき時に来ていた。しかし「敵ながらあっぱれ」という評価を石橋は示した、と著者は書いている。

 全く政治思想の異なる側から、これだけの"評価"を贈られるのは、ある意味、権力者として名誉なことであろうと私も思う。ただ、のちに石橋が政界入りして首相にまでなったことを括弧に括って読むと、敵も何も、ずいぶんアレじゃないの?と思うところもある。今なら、上杉隆が中曽根康弘を評するようなものか。これは蛇足。

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