○根津美術館 開館70周年記念特別展『春日の風景:麗しき聖地のイメージ』(2011年10月8日~11月6日)
聖地「春日」のイメージの展開と諸相を紹介する展覧会。いま微かに思い出すのは、たぶん80年代に、まだ珍しかった絵画史料論の本で、ある春日宮曼荼羅についての論考を読んだ記憶がある。描かれた風景(御蓋山に対する社殿の向き)が、現実の空間と異なるという趣旨だったと思うが、当時はまだ、春日社になじみが薄かったので、やたらに難しく感じられた。
春日野の周辺の地理が分かるようになったのは、2009年、2010年と2年続けて、8月の万燈籠を見に行く機会があってからで、つい最近のことだ。現地の地理を理解して、春日宮曼荼羅を眺めてみると、あのへんに万葉植物園と駐車場があって、あのへんが、万燈籠の特別拝観と一般拝観の別れ道の三叉路、などと実感がよみがえってくる。社殿をめぐる回廊も、特別拝観で訪ねたままのように思う。ただ、参道の始まり(一の鳥居)附近に描かれた二基の五重塔は分からなかった。興福寺の塔?東大寺の境内?と首をひねったが、現在の奈良国立博物館の敷地にあたる。そうだー。博物館の建物の裏(南側)に塔の礎石が残っていたことを、やっと思い出す(※写真)。
参道の突き当たりに描かれた「山」は、いずれの図像でも二重の構図を取る。手前に御椀を伏せたような、なだらかな小山。淡い緑色を基調に、白っぽい花木を鱗のようにあらわす。小山を囲む屏風のような奥山は、少し稜線がでこぼこしており、濃い緑色で平板に描かれる。しばらく眺めていて、あ、そうか、手前が御蓋(みかさ)山か!と思い当たる。そうすると、奥が春日山なのか?
いろいろ調べてみたが、この地図が納得できて、分かりやすいと思った。→(個人サイト)たのしい万葉集「平城京東部」。Wikiによると、御蓋山を「春日前山」、奥の別名・花山(はなやま)を「春日奥山」と呼ぶこともある。そのため、御蓋山を「別名、春日山とも呼ばれ…」と書いているサイトもある。さらにいうと、隣りの若草山が、菅笠のような形の山が三つ重なって見えることから「三笠山という」とする「俗説」(Wiki)もあるそうだ。ややこしいな~。
気になるのは、紹介した地図が、春日大社の前方を「春日野」としていることだ。いや、あの一帯は「野」じゃないだろう…少なくとも現在は、見事な「森」である。春日大社のホームページは、参道の南寄りの、「飛火野」と呼ばれる芝生の広がる野原を、古代の「春日野」として紹介している(追記:春日宮曼荼羅では、参道のまわりは、ちょぼちょぼと樹木の生えた野原がどこまでも広がっている。古くは「野」と「森」って、あまり区別がなかったのかも)。
古例を除き、ある時期以降の春日宮曼荼羅では、春日奥山の向かって左肩に、鏡のように丸い月を配することが定番となる。これも不思議なのだ。なぜ月輪なんだろう? 阿部仲麻呂の古歌「みかさの山に出でし月かも」があったことは、もちろん知っている。では、なぜ仲麻呂は月を詠んだのか。だいたい、背景に春日奥山があるのだから、「御蓋山に出でし月」は、実景ではあり得ないではないか。かさ(暈)→月の縁語というのは考え過ぎ?
ふと、根津美術館の『那智瀧図』を思い出した。あれは瀧の背景の右肩に大きな月輪が描かれている。「月輪」と書いたのは、根津美術館サイトの説明によるが、私は、以前、この作品を見た感想に「日輪」と書いている。自分の直感ではなくて、どうも『国史大辞典』あたりの記述を根拠にしたようだ。
そして、本展の図録に収載されている、梅沢恵氏の論考「春日におけるイメージの変相」は、やまと絵では、月日を描き分ける場合、太陽は金、月は銀で表現されてきたこと、そうした描き方の法則からすれば、春日曼荼羅の円相は日=太陽を表していることになる、という重要な指摘を行っている。しかし、春日山と月のイメージは、仲麻呂の古歌以来、連綿と受け継がれてきた伝統であると、いったんは円相=月輪と確定したように見せながら、「(御蓋山との結びつきで)和歌に詠み継がれた景物『月』(※言うほど詠み継がれているのかは、例証不足)が(略)何らかの理由で日輪に変じたとすればどのような理由があるのだろうか」と問題提起する。これは面白い、と期待したら、最後は「太陽と月のどちらかであるということよりも、日月のイメージが両義的に保持された表現であることにこそ意味があるのかもしれない」という曖昧な結論に終わっている。うーん、なんか文献学的な論証が物足りない。というか、万葉集(7-8世紀)から千載集(12世紀)までが、あまり留保なく並んで例証に使われているのを見ると、これで時代認識は大丈夫なのか?と気になる。やっぱり文献資料と絵画資料を、どちらも自在に使いこなすというのは難しいなあ。
寄り道が長くなってしまったので、続きは別稿、其の二「雪」編の予定。
聖地「春日」のイメージの展開と諸相を紹介する展覧会。いま微かに思い出すのは、たぶん80年代に、まだ珍しかった絵画史料論の本で、ある春日宮曼荼羅についての論考を読んだ記憶がある。描かれた風景(御蓋山に対する社殿の向き)が、現実の空間と異なるという趣旨だったと思うが、当時はまだ、春日社になじみが薄かったので、やたらに難しく感じられた。
春日野の周辺の地理が分かるようになったのは、2009年、2010年と2年続けて、8月の万燈籠を見に行く機会があってからで、つい最近のことだ。現地の地理を理解して、春日宮曼荼羅を眺めてみると、あのへんに万葉植物園と駐車場があって、あのへんが、万燈籠の特別拝観と一般拝観の別れ道の三叉路、などと実感がよみがえってくる。社殿をめぐる回廊も、特別拝観で訪ねたままのように思う。ただ、参道の始まり(一の鳥居)附近に描かれた二基の五重塔は分からなかった。興福寺の塔?東大寺の境内?と首をひねったが、現在の奈良国立博物館の敷地にあたる。そうだー。博物館の建物の裏(南側)に塔の礎石が残っていたことを、やっと思い出す(※写真)。
参道の突き当たりに描かれた「山」は、いずれの図像でも二重の構図を取る。手前に御椀を伏せたような、なだらかな小山。淡い緑色を基調に、白っぽい花木を鱗のようにあらわす。小山を囲む屏風のような奥山は、少し稜線がでこぼこしており、濃い緑色で平板に描かれる。しばらく眺めていて、あ、そうか、手前が御蓋(みかさ)山か!と思い当たる。そうすると、奥が春日山なのか?
いろいろ調べてみたが、この地図が納得できて、分かりやすいと思った。→(個人サイト)たのしい万葉集「平城京東部」。Wikiによると、御蓋山を「春日前山」、奥の別名・花山(はなやま)を「春日奥山」と呼ぶこともある。そのため、御蓋山を「別名、春日山とも呼ばれ…」と書いているサイトもある。さらにいうと、隣りの若草山が、菅笠のような形の山が三つ重なって見えることから「三笠山という」とする「俗説」(Wiki)もあるそうだ。ややこしいな~。
気になるのは、紹介した地図が、春日大社の前方を「春日野」としていることだ。いや、あの一帯は「野」じゃないだろう…少なくとも現在は、見事な「森」である。春日大社のホームページは、参道の南寄りの、「飛火野」と呼ばれる芝生の広がる野原を、古代の「春日野」として紹介している(追記:春日宮曼荼羅では、参道のまわりは、ちょぼちょぼと樹木の生えた野原がどこまでも広がっている。古くは「野」と「森」って、あまり区別がなかったのかも)。
古例を除き、ある時期以降の春日宮曼荼羅では、春日奥山の向かって左肩に、鏡のように丸い月を配することが定番となる。これも不思議なのだ。なぜ月輪なんだろう? 阿部仲麻呂の古歌「みかさの山に出でし月かも」があったことは、もちろん知っている。では、なぜ仲麻呂は月を詠んだのか。だいたい、背景に春日奥山があるのだから、「御蓋山に出でし月」は、実景ではあり得ないではないか。かさ(暈)→月の縁語というのは考え過ぎ?
ふと、根津美術館の『那智瀧図』を思い出した。あれは瀧の背景の右肩に大きな月輪が描かれている。「月輪」と書いたのは、根津美術館サイトの説明によるが、私は、以前、この作品を見た感想に「日輪」と書いている。自分の直感ではなくて、どうも『国史大辞典』あたりの記述を根拠にしたようだ。
そして、本展の図録に収載されている、梅沢恵氏の論考「春日におけるイメージの変相」は、やまと絵では、月日を描き分ける場合、太陽は金、月は銀で表現されてきたこと、そうした描き方の法則からすれば、春日曼荼羅の円相は日=太陽を表していることになる、という重要な指摘を行っている。しかし、春日山と月のイメージは、仲麻呂の古歌以来、連綿と受け継がれてきた伝統であると、いったんは円相=月輪と確定したように見せながら、「(御蓋山との結びつきで)和歌に詠み継がれた景物『月』(※言うほど詠み継がれているのかは、例証不足)が(略)何らかの理由で日輪に変じたとすればどのような理由があるのだろうか」と問題提起する。これは面白い、と期待したら、最後は「太陽と月のどちらかであるということよりも、日月のイメージが両義的に保持された表現であることにこそ意味があるのかもしれない」という曖昧な結論に終わっている。うーん、なんか文献学的な論証が物足りない。というか、万葉集(7-8世紀)から千載集(12世紀)までが、あまり留保なく並んで例証に使われているのを見ると、これで時代認識は大丈夫なのか?と気になる。やっぱり文献資料と絵画資料を、どちらも自在に使いこなすというのは難しいなあ。
寄り道が長くなってしまったので、続きは別稿、其の二「雪」編の予定。
最近、那智瀧図の図版を眺めていたのでこの話題には興味を持ちました。
『原色日本の美術7仏画』には、あっさり「金色の月輪」とあったので本地垂迹の何らかの理由があるかと思っていました。
「春日の風景」にも伺ってみます。
毎度、良い勉強になり感謝です。
「那智瀧図」は、+「日輪」あるいは+「月輪」で検索してみると、最近は「月輪」と見るのが主流なんですかね。私はプロでないので、よく分かりませんが…。
こういう理屈っぽい絵画の見方は嫌われるかもしれませんが、今後も気をつけて見ていこうと思います。
根津美術館に行って来ました。実はリニューアル後の初めての訪問です。常設展示が狭くなって、茶碗の展示が少なくなったのは残念です。
さて、展覧会は学芸員のギャラリートークを聞いてきました。やはり月ではないかと曖昧な解説です(質問はしませんでした)。
記載内容が的確ですので重複する内容はやめて、このとき聞いたtips
「春日神鹿御正体」鹿の銅像 元は興福寺にあったものらしい。
「奈良名所図屏風」図版がないので吉野だったかどちらだっか忘れました。猿沢の池のたもとにポルトガル人らしき人物がいる。奈良に来ていた記録はないので、洛中洛外図でたいてい描かれているお約束事かもしれない。
とろこで、「春日権現験記絵」は素晴らしかった。
雪の春日山も目を引くし、第一巻の建物のアングルが衝撃的でした。