○上里隆史『最新歴史コラム:目からウロコの琉球・沖縄史』 ボーダーインク 2007.2 BS時代劇『テンペスト』の時代考証をされていた上里隆史(うえざと・たかし)さんの著書。同名のブログが元ネタになっている。「あとがき」によれば、著者がブログを始めた理由は「歴史研究界では常識になっている事実が、一般にはほとんど知られていなかったこと」にあるという。この本に紹介されている「目からウロコが落ちる話」は、研究界では今さら言うほどのことでもない"常識"がほとんどなのだそうだ。
そうは言うけど、琉球・沖縄史をきちんと語れる日本人は少ないと思う。私自身も、「琉球」という独立王国があったらしい程度の、曖昧模糊とした知識しかなかった。本書では、まず30ページほどの書き下ろしコラム「最新版すぐわかる琉球の歴史」でざっくり通史をお勉強。
長く漁労採集の時代が続いていた南西諸島が「琉球文化圏」として形作られるのは10~12世紀頃。日宋貿易の影響で、人やモノが流れ込み、ゆっくりと農耕社会の発達を促した。各地に政治的リーダーが生まれ、琉球は戦国乱世に突入する。やがて沖縄島では、山北・中山・山南の3つの勢力が鼎立し(三山時代)、三山の王たちは、中国(明朝)から王として認められるようになった。
15世紀はじめ、第一尚氏による統一琉球王国が成立する。しかし、政権基盤の弱かった第一尚氏王朝はクーデターで滅び、1470年、第二尚氏王朝が成立する。1609年、薩摩軍の侵攻を受け、以後の琉球は、薩摩と中国(明→清)の双方に朝貢する国家となる。薩摩による征服以前を「古琉球」と呼び、以後、明治に王国が滅びるまでを「近世琉球」と呼び習わす。なるほど。
あとは、どこから読んでも楽しい「目からウロコ」コラム。へえ~と思ったのは、今、私がイメージする中国色の強い「琉球」は、近世以降の所産であるということ。首里城の王府儀礼も、琉球の船も建築も、古琉球時代は、もっと日本的だったらしい。ところが、薩摩による征服以降、ひとつは「儒教」という先進的な価値観による内政改革のため、また中国に対し朝貢国として「優等生」ぶりをアピールするため、さらにはヤマトの幕藩体制に呑みこまれないため、など、いくつかの理由で、中国化が進行したのだという。
ただし、王族の食文化は、最後まで日本食系統だったようだ。今、沖縄料理といわれるものは、中国からの冊封使を迎えるための特別料理か、肉体労働中心の庶民が食べていたものだという。琉球宮廷料理、食べてみたいなあ。画像検索すると、韓国の宮廷料理に似ていなくもない。最後の琉球国王・尚泰王の息子、尚順氏が"グルメ男爵"として知られているというのも、初めて知った。
尚王家については、東京移住後も、美術品・古文書から不動産(庭園、陵墓)まで、その遺産をきちんと管理し、今日に伝えてくださったことに本当に感謝したい。ただし、選りすぐりの「財宝」は、沖縄戦の最中、米軍に持ち去られてしまったという。日本も韓国に返すべきものは返しつつあるのだし、アメリカも返還、せめて公開してくれないものだろうか。
あと、面白すぎるが、大坂夏の陣で死んだはずの豊臣秀頼が琉球に潜伏していたという伝説があるそうだ。明の健文帝の伝説を思い出す。少なくともウィリアム・アダムス(三浦按針)は、琉球に寄港した際、大坂から落ちのびた「位の高い人物」が首里に来たことを聞いているという。え~誰なんだ!? また、元朝17代天元帝の次男・地保奴(ティボヌ)は、捕えられて南京に送られたあと、琉球に追放されたと『明実録』にあるそうだ。本書では、1368年、明建国直後の北伐で捕えられたように読めるが、Wikiを見ると、1388年(洪武帝の晩年)藍玉の北征軍に敗れている。どっちでもよさそうだが、中国史好きとして、念のため。
※標題の本の画像は、ボーダーインク社のサイトから借りてます。
※気になる関連本。写真だけでも眺めたい。
○井上寿一『山県有朋と明治国家』(NHKブックス) 日本放送出版協会 2010.12
根があまのじゃくなので、歴史上、人気のない人物ほど気になる。伊藤博文への肩入れも、そんな気持ちから始まった。しかし、NHKドラマ『坂の上の雲』では、加藤剛演ずる伊藤博文がカッコ良すぎて、リアル伊藤公ファンとしては、ちょっと気恥ずかしい感じがする。さて、山県有朋は誰が演じていたか、思い出せなくてチェックしたら、江守徹だった。うーん。本書を読んだ印象だと、もう少し深謀遠慮の似合うタイプがいいと思う。
本書は、政治家・山県有朋を主題とするため、生い立ち~幕末の青年期はさらりと済ませ、明治維新政府における手腕の振い方から、本格的な記述に入る。徴兵制度による国軍の創設。悪名高い統帥権(参謀本部)の独立。しかし、本書の描く山県は、頑迷な軍人至上主義者でも、狂信的な国家主義者でもない。つねに柔軟な判断のできるリアリストである。
基本的には、山県は「非選出勢力」を中心とする立憲君主制の確立と護持に力を注いだ。選出勢力(政党、その背後の大衆)の拡大は避けねばならなかった。そのためには、国民生活を圧迫し、民心の離反を招くことは望ましくないので、ときには軍事費を削減し、「強兵」よりも「富国」を優先した。危険な社会主義を根絶するために、むしろ労働者保護や疾病養老保険などの社会政策を整備し、地方自治を推進した。いまの日本に、こういうリアルな洞察力の働く政治家はいないものだろうか、と思う。右でも左でもいいから。
外交においては、列国とのパワーの差に自覚的であったがゆえに、協調外交を重視し、日清・日露の二つの戦争でも開戦回避を主張した。特に私は、日清戦争前夜の「朝鮮永世中立国化構想」を初めて本気で読んだ。ずっと口先だけの空論だろうと思っていたのだ。山県は、この構想のカウンターパートナーとして清国の李鴻章に期待していたという。しかし、国内の対外強硬論に乗じた陸奥外相は、枢密院議長の山県、首相の伊藤を押し切って、開戦を決定する。
いざ開戦となれば、「一介の武弁」を名乗った山県は、誰よりも積極的に戦争を推進する。著者は「それが山県の矜持だった」と書いているけど、やっぱり私には分かりにくい点である。繰り返すが、本書は、政治家・山県有朋を主題とするため、二つの戦争それ自体の経過には、ほとんどページを割かない。日露戦争もアッサリ終わって、その後に山県が果たした役割について詳述する。
本書を読んで再認識したのは、山県有朋(1838-1922)が、大正11年、83歳まで生きていたこと。長寿だなー。陸奥宗光(1844-1897)、伊藤博文(1841-1909)、桂太郎(1848-1913)、井上馨(1836-1915)など、明治国家の成長を支えてきた政治家たちが次々に没する中、山県は、大衆消費社会と対峙し、政党政治家の大隈重信、原敬などを巧みに操って「ポスト明治国家」の軟着陸に腐心し続ける。この時期(大正~昭和初頭)の政治史も、多少読んだことがあるのだが、あまり山県の影響力を考えたことはなかった。
山県の国葬に際して、ジャーナリスト石橋湛山(1884-1973)は「死もまた社会奉仕」という挑発的なタイトルの一文を寄せ、山県の死は、社会の健全な発達に必要な「新陳代謝」でなくてはならない、と論じているという。権力者として近代日本の(明治日本の)国家秩序を維持し続けた山県は、もはや去るべき時に来ていた。しかし「敵ながらあっぱれ」という評価を石橋は示した、と著者は書いている。
全く政治思想の異なる側から、これだけの"評価"を贈られるのは、ある意味、権力者として名誉なことであろうと私も思う。ただ、のちに石橋が政界入りして首相にまでなったことを括弧に括って読むと、敵も何も、ずいぶんアレじゃないの?と思うところもある。今なら、上杉隆が中曽根康弘を評するようなものか。これは蛇足。

本書は、政治家・山県有朋を主題とするため、生い立ち~幕末の青年期はさらりと済ませ、明治維新政府における手腕の振い方から、本格的な記述に入る。徴兵制度による国軍の創設。悪名高い統帥権(参謀本部)の独立。しかし、本書の描く山県は、頑迷な軍人至上主義者でも、狂信的な国家主義者でもない。つねに柔軟な判断のできるリアリストである。
基本的には、山県は「非選出勢力」を中心とする立憲君主制の確立と護持に力を注いだ。選出勢力(政党、その背後の大衆)の拡大は避けねばならなかった。そのためには、国民生活を圧迫し、民心の離反を招くことは望ましくないので、ときには軍事費を削減し、「強兵」よりも「富国」を優先した。危険な社会主義を根絶するために、むしろ労働者保護や疾病養老保険などの社会政策を整備し、地方自治を推進した。いまの日本に、こういうリアルな洞察力の働く政治家はいないものだろうか、と思う。右でも左でもいいから。
外交においては、列国とのパワーの差に自覚的であったがゆえに、協調外交を重視し、日清・日露の二つの戦争でも開戦回避を主張した。特に私は、日清戦争前夜の「朝鮮永世中立国化構想」を初めて本気で読んだ。ずっと口先だけの空論だろうと思っていたのだ。山県は、この構想のカウンターパートナーとして清国の李鴻章に期待していたという。しかし、国内の対外強硬論に乗じた陸奥外相は、枢密院議長の山県、首相の伊藤を押し切って、開戦を決定する。
いざ開戦となれば、「一介の武弁」を名乗った山県は、誰よりも積極的に戦争を推進する。著者は「それが山県の矜持だった」と書いているけど、やっぱり私には分かりにくい点である。繰り返すが、本書は、政治家・山県有朋を主題とするため、二つの戦争それ自体の経過には、ほとんどページを割かない。日露戦争もアッサリ終わって、その後に山県が果たした役割について詳述する。
本書を読んで再認識したのは、山県有朋(1838-1922)が、大正11年、83歳まで生きていたこと。長寿だなー。陸奥宗光(1844-1897)、伊藤博文(1841-1909)、桂太郎(1848-1913)、井上馨(1836-1915)など、明治国家の成長を支えてきた政治家たちが次々に没する中、山県は、大衆消費社会と対峙し、政党政治家の大隈重信、原敬などを巧みに操って「ポスト明治国家」の軟着陸に腐心し続ける。この時期(大正~昭和初頭)の政治史も、多少読んだことがあるのだが、あまり山県の影響力を考えたことはなかった。
山県の国葬に際して、ジャーナリスト石橋湛山(1884-1973)は「死もまた社会奉仕」という挑発的なタイトルの一文を寄せ、山県の死は、社会の健全な発達に必要な「新陳代謝」でなくてはならない、と論じているという。権力者として近代日本の(明治日本の)国家秩序を維持し続けた山県は、もはや去るべき時に来ていた。しかし「敵ながらあっぱれ」という評価を石橋は示した、と著者は書いている。
全く政治思想の異なる側から、これだけの"評価"を贈られるのは、ある意味、権力者として名誉なことであろうと私も思う。ただ、のちに石橋が政界入りして首相にまでなったことを括弧に括って読むと、敵も何も、ずいぶんアレじゃないの?と思うところもある。今なら、上杉隆が中曽根康弘を評するようなものか。これは蛇足。