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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

北京・天津・河北省の旅2009【第3日】承徳(外八廟)

2009-09-17 00:13:28 | ■中国・台湾旅行
 承徳は旧名・熱河。清代には夏の離宮「避暑山荘」が営まれ、その外周を「外八廟」と呼ばれる寺廟が囲んでいる。「山荘」というのだから、どんな山の中かと想像していたら、「避暑山荘」の正門は繁華街の只中にあった。皇居の大手門みたいなものだ。外八廟へもホテルから車で15分くらい。銀座から上野の寛永寺に出るくらいのイメージか。

 この日の観光は、普寧寺→普陀宗乗之廟→須弥福寿之廟→普楽寺→安遠廟。いずれもチベット式の寺院である。今回のスルーガイドの杜さん(漢民族の男性)は、チベット仏教に心酔しており、仕事とは無関係に真剣に礼拝していた。

 ところで、私は安井曽太郎の『承徳の喇嘛(ラマ)廟』という油彩画が大好きなのである。同じ題名の作品が2点あって、左は1938年作、愛知県美樹館蔵。右は1937年作、永青文庫蔵。(※サムネイルに無断ダウンロードの画像を使っていますが、何卒お見逃しを…)



 この旅行で分かったことだが、左は普陀宗乗之廟(小ポタラ宮)を描いたものらしい。チベットのポタラ宮を3分の1サイズで再現したもの。赤い建物の中心を縦に貫く緑色のリボンのような装飾が特徴的。この縦ラインには6つの仏龕が並んでいる。





 また、右は須弥福寿之廟であるらしい。こちらはチベットのタシルンボ寺を模したもの。赤い建物をよく見ると、窓のひとつひとつに瑠璃瓦の庇が取り付けられている。チベット式の廟堂の前に建てられた中国式の門が、面白い対照を見せる(普陀宗乗之廟にも中国式の門があるが、もっと建物から遠い)。





 それにしても、これらのチベット様式の廟堂、要塞のような壁の内側に入り込むと、あっと驚くほど中国ふうの内装が待っていた。まったく、清朝の皇帝の考えることって、よく分からない…。

(9/26記)
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北京・天津・河北省の旅2009【第2日】北京→長城→承徳

2009-09-16 00:12:14 | ■中国・台湾旅行
 2日目は、河北省西北部の承徳に向けて出発。途中、司馬台と金水嶺の2ヵ所で万里の長城を見学。北京近郊の長城観光ポイントとしては、最も遠方に位置する(※地図)。北京からの日帰りツアー客の多い八達嶺や慕田峪と異なり、のんびりした雰囲気。日本人はひとりも見かけなかった。

 司馬台。ロープウェイで上がったあと、さらに徒歩で長い石段を登る。



 ところどころに「萬暦伍年石塘営造」と刻されたレンガがはめ込まれている。明の万暦5年(1577)、浙江省の石塘鎮の軍隊が造ったということだろうか。



 金水嶺。ここもロープウェイを利用。そのあとは、すぐ長城に達する。



 金水嶺のロープウェイ駅付近の望楼は「大金山」「小金山」と呼ばれていて、これも中国南方の江蘇省鎮江出身の軍隊が営造したため、鎮江の金山寺にちなんでつけられたそうだ。写真は、たぶん大金山楼。

 この先は、楼、東方台、西方台、庫房楼、東方台、西方台、西五眼楼と続く(ネット上の情報)。庫房楼を挟むどちらかの東方台が、中国中央電視台の長寿ニュース番組「新聞聯播」のタイトルバックに使われていた長城の撮影地点らしい(現在は別映像)。

(9/26記)
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北京・天津・河北省の旅2009【第1日】出発→北京

2009-09-15 00:06:57 | ■中国・台湾旅行
 7月以来、何度も延期を余儀なくされた中国旅行だったが(私が原因)、9月の大型連休を利用して、なんとか出発にこぎつけた。行き先も当初の計画から二転三転、最後に選んだのが河北省。東は渤海湾に臨み、北京市、天津市という2つの直轄市を三方から包み込むような形をしている(※地図)。

 初日は午後の飛行機で北京入り。2008年2月にオープンした、北京首都空港のターミナル3に初めて降り立つ。イギリス人の建築家の作品だそうだ。飛行場近くのホテルで宿泊。

(9/26記)
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【ただいま夏休み中】今年は中国10日間

2009-09-14 22:09:58 | なごみ写真帖
明日から夏休み。そのまま、大型連休に突入して、10日間、中国を旅行してくる。「恒例の」と言いたいところだが、昨年の行き先は韓国だったので、2年ぶりである。ちなみに、一昨年は寧波+天台山+普陀山ツアーだった。2年後に奈良博の特別展のおかげで、「寧波」がこんなに話題になるなんて、思いもよらなかった。

今年の行き先は、北京+承徳+秦皇島など。まあ、当分、日本人の話題にはなりそうにないが。

旅のお守りは、宇治の黄檗山万福寺でいただいた交通安全守。



9/24まで、ブログの更新はありません。
では、行ってきます!
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政権交代の今こそ/近代日本の国家構想(坂野潤治)

2009-09-13 23:08:18 | 読んだもの(書籍)
○坂野潤治『近代日本の国家構想:1871-1936』(岩波現代文庫) 岩波書店 2009.8

 この夏、自民党から民主党への政権交代がほぼ確実と言われ始めた頃から、私は坂野先生のコメントが聞いてみたくてしかたなかった。選挙の結果が出たら、どこか、気の利いた記者のいるマスコミが、インタビューに行ってくれるかと思っていたが、今のところ、それらしいものは見つけていない。

 著者は、旧著『明治デモクラシー』(岩波新書、2005)の中で、福沢諭吉が理想とした二大政党制が、今日なお獲得されていない状況に対して、思わず「日本人は二大政党制が嫌いなのではないだろうか」とつぶやいている。それが、120年前の「明治デモクラシー」の夢が、ようやく実現の1歩を踏み出したのだ。近代政治史の研究者として、感慨は如何ばかりかと推察している。

 本書は、1871年の廃藩置県から1936年の二・二六事件まで約65年間の政治史を、政治体制構想の相剋の過程として描いたもの。1985年から1994年の間に書かれた6本の論文が下敷きになっている。保守・中道・革新の三極構造に留意し、特に中道派の分析に重点を置いている点が特色である。中道派というのは、右からも左からも批判を浴びがちで、歴史研究でも人気がない。しかし、実際の政治というのは、妥協なしには進んでいかないものである。

 本書を読んでいると、現在の日本の政治状況に通ずる、と感じる点がいくつも出てくる。たとえば、一貫して健全財政主義者だった井上馨が、政府以上に急進的な「文明開化」熱に浮かされた民衆を見て、「元来国力を計らず事業創立するは日本人の弊風にて」と苦り切っているところ。全くなあ。

 それから、福沢諭吉がイギリス立憲政体を論じた『民情一新』。電信、郵便、印刷などが未発達の時代には、政府は、新しい知識や情報が民衆に行き渡るまでの「緩慢なる時間を利して」簡単に民衆を支配することができた。しかし、情報革命の利器を味方につけた19世紀の民衆は、もはや専制で圧することはできない。国会を設け、二大政党間の政権交代を頻繁に行う以外には、彼らの「民情」に対応する方法はない、と福沢は説く。ただし保革二党の立場は、それほど離れている必要はない。「守旧必ずしも頑陋ならず、改進必ずしも粗暴ならず(略)其相互に背馳して争ふ所の点は誠に些細のみ」なんて、鋭い観察だなあ、と思う。これから日本人が育てていく二大政党制も、基本的に、そういうものでなければならないだろう。

 あと、議会制への移行後も、政治の実権を独占し続けようとした薩長藩閥政府は「超然主義」の立場を表明したが、この政治上の説得性としては、一地域の利害を代表する代議士よりも、専門知識を持ち、地域代表性を持たない国家官僚に任せたほうが、合理的な国家運営ができる、ということが言われた。著者の表現を借りれば、「19世紀末の官僚の政党政治家に対する不満と軽蔑は、20世紀末の今日においてもかなり共有されているように思われる」。確かに。政党政治家と官僚の確執も、ずいぶん歴史が長いのだな。

 対外政策については、簡単にしか論じられていないが、明治初年の征韓論と言い、台湾出兵と言い、「新攘夷派」(対外強硬派)の念頭にあったのは、初めから日清戦争だった、という指摘には、あっと思った。それから(昭和初期の歴史は、どうも不案内なのだが)、1932年1月の総選挙で争点となったのは、景気回復政策で、前年に起きた満州事変の是非は、ほとんど国民の興味を引かなかった、というのも、最近の政治を思い出すと、さもありなん、という感じがした。

 2009年の今、ようやく訪れた政権交代に何を期待すべきかを考えるために、熟読したい1冊である。

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文系も理系も楽し/大蔵経と東アジア、ほか(東大総合博物館)

2009-09-10 21:55:56 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京大学総合研究博物館 『大蔵経と東アジア-東京大学総合図書館所蔵嘉興蔵の世界』展(2009年8月25日~9月15日)

 この展示会を取り上げる物好きはあまりいないだろう、と思いながら書く。東京大学総合図書館は、明の万暦版大蔵経を所蔵している。貴重なものらしい…とは聞いていたが、詳しいことは知らないので、今回の展示を楽しみにしていた。

 万暦版大蔵経は「嘉興蔵」とも呼ばれ、万暦年間の末(1573-1620)、嘉興府楞厳寺で開版されたものである(別名「径山蔵」とも呼ばれるそうだが、この「径山」は、調べたけれどよく分からず)。「それまでの巻子本や折本と異なり、はじめて冊子体で刊行されたものであり、そのため比較的広く普及した」と言われている。

 東大のコレクションは、「いわゆる鉄眼版大蔵経の普及に尽力した江戸時代前期の黄檗宗の禅僧了翁道覚(1630-1707)が明から取り寄せ、延宝8年(1680)に江戸白金の瑞聖寺に寄進したもの」であり、「明治以後に重野安繹・田健治などの興味深い所蔵者の手を経ながら、最終的に田氏により大正13年(1924)に東京大学総合図書館へ寄付されたこと」が分かっているそうだ。→展示HP

 展示品は20点余り。まず比較資料として宋版大蔵経が2点。甲州の素封家、渡辺青洲の旧蔵品だ。なるほど、これは折本である。そして、嘉興蔵大蔵経の現状を示すため、正編第1秩12冊がまるごと展示されている。濃紺の布張り秩に関しては「東大で制作か?」と疑問形で書かれていたが、まあ発注はそうだろう。「原装は確認できず」という解説の口ぶりに無念さがにじむ。図書館は、あまり装丁を大事にしないからなあ。どこかに転がって残ってないかなあ。

 嘉興蔵は扉絵は多いが、巻末絵はほとんど見られないのだそうだ。その中で、めずらしく巻末絵のあるものが展示されていた(逆に、嘉興蔵をもとにした黄檗版は、ほとんどに巻末絵=護法童子の絵があるという)。これは韋駄天じゃないのか…と思ったけど、護法童子と同一視されているのだろうか。

 同コレクションに見られる印影(蔵書印)も面白かったので、ここにメモしておく。東大の蔵書印のほか、①「臨済三十四世(※補記あり)」②「鉄牛機印」は、瑞聖寺2代住持の鉄牛道機のこと。③「了翁上座…鉄牛機謹誌」という長文の印は、この大蔵経が了翁道覚の寄進であることを示す。④「大教院蔵」は、同書が大教院(明治初年に設置された、神仏合同の教導職を養成するための政府機関)の所蔵だったことを示すが、経緯は明らかでない。⑤「田氏図書之印」は、台湾総督や農商務大臣をつとめた田健治の蔵書印。大正12年(1923)12月4日付けの「時事新報」に、東大の震災復興を支援するため、蔵書を寄贈することに決めた「古本の中に埋まる田農相」の記事がある。よく見つけたなー。

 このほか、天海蔵一切経(天海和尚が徳川家康の援助を受けて刊行した古活字版)(南葵文庫)、鉄眼版一切経(黄檗版とも。万福寺塔頭の宝蔵院に版木が現存する)、さらに近代以降の活字版は、日本・韓国・中国で出版されたものを展示。出品数は多くないが、大蔵経をとりまく歴史的・空間的広がりが実感できて、面白かった。

 なお、並行開催中の『キュラトリアル・グラフィティ―学術標本の表現』『鉄―137億年の宇宙誌』も、ついでに見てきた(全て無料)。ほかの展示を見るためには、積み上げられた人骨の部屋を通らないとならないのが、けっこうホラーである。ずらりと並んだ頭蓋骨から黒い眼窩の注目を浴びる感じ。

 奥の展示ホールは「鉄」がテーマで、あちこちに設置された小さなスクリーンから、東大の研究者たちが「僕らの研究室にようこそ!」みたいなフレンドリーな解説をしてくれる。ざわざわした展示空間のつくりが面白い。また、周囲の展示とは全く無関係に、大きい冷蔵庫のような箱型の機器が設置(放置?)されていて、何かと思ったら、人工気象器だという。「ご自由に開けてみてください」とあるので、こわごわ扉を開けたら、青々したイネの苗が育てられていた。民話「見るなの座敷」みたいだ…。大学って、面白いなあ。

Wiki経典:大蔵経刊本系列の樹形図が分かりやすい。

※関連書籍『東京大学総合図書館所蔵万暦版大蔵経(嘉興蔵)正編目録稿
この展示会も、科研費プロジェクト「東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成-寧波を焦点とする学際的創生」(にんぷろ)の活動成果(仏道交渉班)である。

※早稲田大学図書館:古典籍総合データベース:新【ケツ】纂輯皇明一統紀要. 巻之1-15(全丁画像あり)
鉄牛道機の印あり。印影を画像で確認できる。

※[9/12補記]早稲田大学図書館は、鉄牛道機の印を「臨済三十六世」と読んでいるが、友人に篆刻辞典で確認してもらったところ、「四」が正しいだろうとのこと。臨済正宗では「道」は三十四代目の通字だそうだ(→参考:最下段の注)。
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草原を渡る文化/ユーラシアの風、新羅へ(古代オリエント博物館)

2009-09-09 22:38:23 | 行ったもの(美術館・見仏)
古代オリエント博物館 日韓共同企画展『ユーラシアの風、新羅へ』(2009年8月1日~9月6日)

 今年の春、MIHOミュージアムで開催されていたときは、見たい見たいと思いながら、結局、行き逃してしまった。それが池袋の古代オリエント博物館に巡回してきていたとは、最終日直前まで全く気づいていなかった。私は東武東上線の沿線住人なのに!

 本展は、韓国の国立慶州博物館、国立中央博物館の協力により、朝鮮半島(会場の説明では”韓半島”)の古代国家「新羅」を紹介するもの。同時代の東アジアにおいて、新羅文化を強く特徴づける「ユーラシア西方の香り」に注目する点が新機軸である。私は、新羅の古都・慶州には2回行った。古墳の深い緑と質素な黒瓦に彩られ、奈良を思わせるのんびりした地方都市だったが、博物館では、ため息の出るような黄金の装身具をいくつも見て、古代国家の華やかさに思いを巡らせた。確かに新羅の「黄金好き」には、西域の騎馬民族文化との類似性を感じさせるところがある。

 見ものは、やはり冒頭に展示されている『装飾宝剣』(宝物635号)と、MIHOミュージアムのポスターにも使われていた、鹿の角のような『金製冠飾』だろう(首飾りかと思っていた)。どちらも黄金製。このほか、「金銀器」「唐草文様」「角杯」「ガラス器」などのテーマで、新羅の文物と関連品(西アジア、あるいは日本や中国の出土品)が並べられていた。

 初めて知ったこともいろいろあって、5~6世紀の出土品だというガラス製の勾玉(大1個、小4個)には、へえ~朝鮮半島にも勾玉があったのか、と驚いた。調べてみたら、日本から朝鮮に伝播したという説が有力のようだ。→邪馬台国の会 講演会『謎の四世紀 成務天皇の時代 勾玉の起源

 獣角でつくった(またはそれを模した)角杯(かくはい、リュトン)は、いかにも西アジアの遊牧民族的な器形だが、新羅文化圏にも出土例があり、さらに「日本列島においても、近年角杯の出土が増加している」(ただし6世紀前半の一時期のみ)という説明には、びっくりしてしまった。→読売オンライン:上久津呂中屋遺跡C地区(富山県氷見市)角杯形須恵器を発掘(2004/9/1)

 宝相華文の瓦当や花文磚は、新羅らしい貴族的な優美さを感じさせたが、興味深かったのは、中国南朝時代(5~6世紀)の獣面文瓦当10点(個人蔵って…誰のものなんだ?)。また、ギリシャ古典期の建築の軒瓦にも、サテュロスの顔面意匠が取り付けられたという説明を読んで、そうかーギリシャ建築にも瓦が載っていたのかーと妙に感心した。

 写真紹介だったが、新羅第38代元聖王の墓といわれる掛陵(けりょう、クェヌン)には、参道に獅子や文人、武人の石像が並んでおり、ハチマキをして棍棒を携えた武人が、ソグド人をあらわしているのではないか、という説も面白かった。文献資料では、朝鮮半島にソグド人が大規模に定着していた痕跡はないそうで、こういう造形遺物が、どの程度、確実な証拠になるのかは分からない。しかし、慶州博物館から出陳の、小さな『文官像』はソグド人かなあ…。私には、鼻があぐらをかいた東アジア人の爺さんにしか見えないのだが。こうなると、無理にも異民族が定着していたと言い張って、小中華ぶりたいんじゃないかと、ちょっと勘ぐりたくなる。→韓国からの主な出陳品は、岡山市立オリエント美術館のサイトで。

 ちなみに私は、2003年、初めての韓国旅行で掛陵にも立ち寄ったが、当時の記録を読み返したら、見学の途中で雨が強くなってきて、近所の焼き物工場に退避したのだった。懐かしい。慶州、去年も行ったけど、また行きたいなあ。
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リアリティに抗して/戦後日本スタディーズ1:40・50年代

2009-09-08 22:18:16 | 読んだもの(書籍)
岩崎稔ほか編著『戦後日本スタディーズ1:40・50年代』 紀伊国屋書店 2009.9

 ③80・90年代→②60・70年代→①40・50年代と、”逆時代順”に刊行されてきた本シリーズの完結巻。当初、広告を見たときは、いちばん面白くなさそうだと思った本巻が、読んでみたら、いちばん面白かった。その理由は、冒頭の「ガイドマップ」で成田龍一氏が提唱している、1950年代の見直しにあるらしい。近年、マーケティングの世界では、50年代後半と60年代前半をくっつけた「昭和30年代」を、ノスタルジーの空間として語ることが流行している。しかし、本書は敢えて流行に逆らって、「50年代前半」の可能性を語り直すことにつとめている。

 「50年代前半」とはどのような時代だったのか。乱暴にまとめれば、終戦直後の平和と連帯の理想が、現実の壁に突き当たって、頓挫していった時代ではないかと思う。そして、50年代後半、本格的な経済成長が始まると、右派も左派も、挫折と混乱の50年代前半について、タブーのように口を閉ざしてしまう。小森陽一氏は、これを「忘却の五五年体制」と呼ぶ。

 岩崎稔氏は、1949年後半の下山、三鷹、松川事件→50年のレッド・パージ→55年の六全協決議を取り上げ、労働運動の激化と弾圧、フレームアップ、党内対立と分裂、なし崩しの回収の過程を語っている。内海愛子氏は、51年のサンフランシスコ講和条約調印において、韓国の参加が見送られたことの背景に在日朝鮮人問題があったこと、在日朝鮮人の大部分が「共産系」と見られており、日米の「共産主義」に対する強い拒絶があったことを論じている。

 朝鮮戦争と日本国内の平和運動、女性運動の関係も興味深い。敗戦直後、目覚ましい進展を遂げていた日本の女性運動は、左右の対立を超えて、婦人団体協議会の設立に至るが、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、藤目ゆき氏の表現を借りれば、「戦争はイヤです」という共同声明を残して、無期休会してしまう。本書だけでは詳しい事情は分からないけれど、厳しい現実の前に理想が挫折した姿ではないかと思う。

 そのように理想が挫折し、後退していく中で、一般の生活者・労働者たちは、なぜか、ひたすら書いた。職場や地域の仲間と集まり、批評し合いながら、無数の「サークル詩」が生み出された(当時の「サークル誌」は、かなり残っているらしい)。生活記録や、無着成恭氏(インタビューに登場)の「山びこ学校」も同時代の試みである。

 編者のひとり、岩崎稔氏は、本書が「戦後史」ではなく、あえて「戦後日本スタディーズ」という生硬な言い方をしたのは、「戦後にある未発の可能性、実現しなかった夢を、すこしく自由に、いまのわたしたちのリアリティに抗しながら、考える」ためであるという趣旨のことを述べている。その編集意図が、いちばんよく出ていたのが、この40・50年代の巻ではないかと思った。

※『戦後日本スタディーズ2:60・70年代』(2009.5)

※『戦後日本スタディーズ3:80・90年代』(2008.12)
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沙翁に捧ぐ/文楽・天変斯止嵐后晴(てんぺすとあらしのちはれ)

2009-09-06 22:13:02 | 行ったもの2(講演・公演)
国立劇場 9月文楽公演『天変斯止嵐后晴(てんぺすとあらしのちはれ)』

 たまたま、公演初日を見に行った。会場に漲る、そこはかとない緊張感に、いつもに増して胸が高鳴る。本作は、シェイクスピアの戯曲に題材を取り、坪内逍遥の翻訳『颶風(テムペスト)』を基礎に、山田庄一氏が脚本・演出、鶴澤清治氏が作曲を手がけた新作文楽。平成3年(1991)日英協会百周年を記念し、ロンドンで上演されるはずだったが、諸般の理由で間に合わず、翌年、東京と大阪で各2日間試演されたに留まったという。それが、この夏、大阪の文楽劇場開場25周年を記念して再演され、さらに国立劇場での初演を迎えた。

 公演プログラムの冊子に、脚本・演出の山田庄一氏が「雑感」を寄稿されているが、「(再演は)些か面映い」「本来なら全面的に手直ししたい」「不本意な本作」という調子で、控え目を通り越して、あまりにトーンが低調なので、ええ~そんな失敗作なの…?と、幕前は強い不安に駆られた。しかし、幕が上がってしまえばなんのことはない、これはこれで、よくできた作品だと思う。

 お奨めの随一は音楽。冒頭の荒れ狂う大海原の表現をはじめとし、和楽器(三味線、琴)の幅広い表現力に驚かされる。でも、立役の”物語”や女役の”口説き”の場面は、きっちりセオリー(型)どおりの伴奏で、新作を聴いているという感じがしなかった。

 主役を語る千歳大夫さんは、遠目にも分かるくらい、ノリノリ。作曲の鶴澤清治さんも、途中で床に上がられたが、静かな闘志みたいなものがピシピシと感じられた。人形は、出遣いが全くないので気づかなかったが、主役の阿蘇左衛門は吉田玉女さんが遣っていらしたのね。

 詞章に無理がなかったのは、坪内逍遥の翻訳をうまく取り入れているせいだろうか。ただ、私が違和感を感じたのは、山田庄一氏が気にされていた、魔法、魔女、妖精の登場ではなくて、復讐の鬼たるべき阿蘇左衛門藤則(=プロスペロー)が、あまりにも簡単に仇敵を赦し、一人娘と仇敵の嫡男の結婚を許してしまうことだ。だいたい文楽の登場人物は、こってりと執念深くて、一人か二人の犠牲者を出さなければ、愛する者どうしも結ばれないのが定石である。ここまで能天気にハッピーエンドの作品だと、カタルシスが感じられないのだが、シェイクスピアの原作や坪内逍遥の訳は、どうなっているんだろう?

あぜくら会Web通信:シェイクスピア原作『テンペスト』を文楽として上演!
 山田庄一さんインタビュー、鶴澤清治さんインタビューなどあり。

Wiki「テンペスト(シェイクスピア)」
 「我々は夢と同じ物で作られており、我々の儚い命は眠りと共に終わる」(We are such stuff as dreams are made on, and our little life is rounded with a sleep.)は、原作の名文句なのか。本作の訳は「目前に在りと思う物も、例えば砂上の高楼(たかどの)にて、一切空と悟るべし。人間本来無一物、眠りに始まり眠りに終わる。ただ一時々々を大切に生きる事こそ肝要ぞ」。老荘っぽいので、オリジナルの詞章だと思って聴いていた。
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さまざまな「あの日」/東アジアの終戦記念日(佐藤卓己、孫安石)

2009-09-05 16:56:27 | 読んだもの(書籍)
○佐藤卓己、孫安石編『東アジアの終戦記念日:敗北と勝利のあいだ』(ちくま新書) 筑摩書房 2007.10

 7月30日、佐藤卓己さんと川島真さんのトークセッションを聞きに行き、引き続き、『1945年の歴史認識:「終戦」をめぐる日中対話の試み』(東京大学出版会、2009)を読んだ。その過程で、そうだ、この本をまだ読んでいなかった、と思い出した。いや、そのうち読もうとは思っていたのだが、私は複数の著者をそろえたアンソロジーは、あまり好きでないので、つい先延ばしにしていたのである。佐藤卓己さんの単著『八月十五日の神話』はもちろん読んでいる。

 本書は、編者を加えて9人の著者が、東アジアの各国・各地域における、さきの戦争の「終戦」の迎え方と、その後の継承のされ方(記憶と忘却)を検証している。たとえば、北海道(および千島・樺太)、沖縄、北朝鮮、韓国(南朝鮮)、台湾、中国。驚いたのは、上海では、すでに8月10日頃から「日本の敗北」が多くの人々に公然と伝わっていたことだ(堀田善衛、山口淑子の証言)。

 樺太はラジオ普及率が高く、全島で「玉音放送」を聴くことができたが、前線の兵士は必ずしもそうでなかったようだ。ある回想録によれば、15日夜、無線機調整中に偶然ラジオニュースを受信して終戦を知ってしまうが、「師団命令がない以上、停戦交渉を行うわけにはいかず」16日以降も戦闘が継続された。私はこの、8月16日以降のソ連軍の侵攻については、同軍の非道として習った(高校の授業で)覚えがあるのだが、本書を読むと、軍隊というのは因果なものだなあ、と思った。停戦命令が前線に届いたのは18日の夕方だという。「天皇の詔書のみでは戦闘を終わらせるわけにはいかない」のが日本軍の軍規だった。

 沖縄では、6月23日、沖縄守備軍司令官牛島満の自決によって組織的戦闘は終結し、多くの住民はすでに「敗北」を受け入れていたが、戦闘は続いていた。そして、沖縄放送局が爆破されて、ラジオ放送が中断してたため、そもそも沖縄では「玉音放送」は物理的に不可能だった。このことは、私たちが「玉音放送=8月15日=終戦」という図式を、無批判に国民の神話として取り上げようとするとき、こぼれ落ちていくものが何か、再考する糸口を与えてくれるように思う。

 日本の植民地であった台湾、朝鮮の8月15日も興味深い。特に、元容鎮氏が、京城放送局における終戦の迎え方を検証して、「朝鮮は日本という他者を失ってしまった」と書いている点に注目したい。長い間、朝鮮にとって、植民者・日本は「憎悪の対象であり、克服の対象であり、そして、生き延びるための協力対象」であった。むしろ、単に憎悪の対象であったなら、戦後の「手打ち」はもっと簡単だったろうと思う。やっぱり、植民地支配が残す傷って複雑で深い。

 また、沖縄、北朝鮮、台湾など、戦後、激しい政治体制の変化を経験した地域では、歴史(体制)の曲がり角ごとに「終戦」の公的な記憶がつくり直されていく姿も興味深く思った。
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