見もの・読みもの日記

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政権交代の今こそ/近代日本の国家構想(坂野潤治)

2009-09-13 23:08:18 | 読んだもの(書籍)
○坂野潤治『近代日本の国家構想:1871-1936』(岩波現代文庫) 岩波書店 2009.8

 この夏、自民党から民主党への政権交代がほぼ確実と言われ始めた頃から、私は坂野先生のコメントが聞いてみたくてしかたなかった。選挙の結果が出たら、どこか、気の利いた記者のいるマスコミが、インタビューに行ってくれるかと思っていたが、今のところ、それらしいものは見つけていない。

 著者は、旧著『明治デモクラシー』(岩波新書、2005)の中で、福沢諭吉が理想とした二大政党制が、今日なお獲得されていない状況に対して、思わず「日本人は二大政党制が嫌いなのではないだろうか」とつぶやいている。それが、120年前の「明治デモクラシー」の夢が、ようやく実現の1歩を踏み出したのだ。近代政治史の研究者として、感慨は如何ばかりかと推察している。

 本書は、1871年の廃藩置県から1936年の二・二六事件まで約65年間の政治史を、政治体制構想の相剋の過程として描いたもの。1985年から1994年の間に書かれた6本の論文が下敷きになっている。保守・中道・革新の三極構造に留意し、特に中道派の分析に重点を置いている点が特色である。中道派というのは、右からも左からも批判を浴びがちで、歴史研究でも人気がない。しかし、実際の政治というのは、妥協なしには進んでいかないものである。

 本書を読んでいると、現在の日本の政治状況に通ずる、と感じる点がいくつも出てくる。たとえば、一貫して健全財政主義者だった井上馨が、政府以上に急進的な「文明開化」熱に浮かされた民衆を見て、「元来国力を計らず事業創立するは日本人の弊風にて」と苦り切っているところ。全くなあ。

 それから、福沢諭吉がイギリス立憲政体を論じた『民情一新』。電信、郵便、印刷などが未発達の時代には、政府は、新しい知識や情報が民衆に行き渡るまでの「緩慢なる時間を利して」簡単に民衆を支配することができた。しかし、情報革命の利器を味方につけた19世紀の民衆は、もはや専制で圧することはできない。国会を設け、二大政党間の政権交代を頻繁に行う以外には、彼らの「民情」に対応する方法はない、と福沢は説く。ただし保革二党の立場は、それほど離れている必要はない。「守旧必ずしも頑陋ならず、改進必ずしも粗暴ならず(略)其相互に背馳して争ふ所の点は誠に些細のみ」なんて、鋭い観察だなあ、と思う。これから日本人が育てていく二大政党制も、基本的に、そういうものでなければならないだろう。

 あと、議会制への移行後も、政治の実権を独占し続けようとした薩長藩閥政府は「超然主義」の立場を表明したが、この政治上の説得性としては、一地域の利害を代表する代議士よりも、専門知識を持ち、地域代表性を持たない国家官僚に任せたほうが、合理的な国家運営ができる、ということが言われた。著者の表現を借りれば、「19世紀末の官僚の政党政治家に対する不満と軽蔑は、20世紀末の今日においてもかなり共有されているように思われる」。確かに。政党政治家と官僚の確執も、ずいぶん歴史が長いのだな。

 対外政策については、簡単にしか論じられていないが、明治初年の征韓論と言い、台湾出兵と言い、「新攘夷派」(対外強硬派)の念頭にあったのは、初めから日清戦争だった、という指摘には、あっと思った。それから(昭和初期の歴史は、どうも不案内なのだが)、1932年1月の総選挙で争点となったのは、景気回復政策で、前年に起きた満州事変の是非は、ほとんど国民の興味を引かなかった、というのも、最近の政治を思い出すと、さもありなん、という感じがした。

 2009年の今、ようやく訪れた政権交代に何を期待すべきかを考えるために、熟読したい1冊である。

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