○小森陽一『レイシズム』(思考のフロンティア) 岩波書店 2006.5
はじめて本書を見たときは、なぜ、いまさらレイシズム(人種差別主義)? なにゆえ小森陽一さん?という驚きと違和感を感じた。しかし、読んでいくうちに、ああ、これは著者でなければ語れないテーマだ、と納得した。
広義の人種差別とは、必ずしも、頭蓋の形や肌の色などの生物学的特徴に拠らず、「現実の、あるいは架空の差異に、決定的な価値づけをすること」と定義される。
著者は、子どもの発達過程(言語習得過程)を追いながら、「差別のメカニズム」が発動する契機を解き明していく。生まれたばかりの子どもは、大人たちの慈愛に満ちたやさしい声に包まれて成長する。しかし、自力で動き回れるようになると、あっちに行ってはダメ!これに触ってはダメ!という、叱責や禁止を受けるようになる。つまり、子どもには「善/悪」のうち、「悪(やってはいけないこと)」の方が、より強烈で抑圧的な記憶として残る。
さらにオムツが取れる時期になると、昨日まで「やってよいこと」であった垂れ流しの排泄が、一転して「やってはいけないこと」に転換する。子どもたちは、この不条理に直面し、自分が、いつ、いかなる理由で排除されるか分からないという恐怖を学ぶ。この時期の子どもたちが、神話や昔話を聴きたがるのは、大人の社会を構成する「意味の体系」を理解し、そこに「同化」したいという(排除の恐怖と裏腹の)欲望があるからである。
我々は、時に特定の個人を排除の対象とすることによって、共同体の安定を図ろうとする。これは、本書に参考文献として挙げられている赤坂憲雄(懐かしい!!)や佐藤裕が既に論じているところであるが、著者自身が、少年時代をチェコで過ごし、その後も「帰国子女」という異端者として日本の学校で過ごした実体験(詳しくは『小森陽一、ニホン語に出会う』大修館書店, 2000)に基づいているのではないかと想像する。
このように「差別と排除」は人間の心性に深く根ざすものであり、「人種差別主義」は、新しい衣装をまとって今日の社会にも入り込んでいる。「ニート」や「ワーキング・プア」も、あからさまな弱肉強食の実態を押し隠すために生み出された差別語である。その言葉で、ある集団を「一括り」にして名指すとき、語っている「われわれ」は「ニート」でも「ワーキング・プア」でもない、という共犯関係に結ばれている。あたかも、語る主体「オリエンタリスト」と、語られる客体「オリエンタル(東洋人)」の間に、決定的な非対称性があったように。
後半は、人種差別主義に抵抗する言語的実践の例として、永井荷風の『悪寒』を分析する。そこには、ほとんど自傷的なアイロニーによって、大日本帝国の「植民地的無意識」が暴き出されている。
さて、以下は、全くの蛇足だが――私は、来月、アメリカに短期出張に行くことになっている。なので、英会話も練習しなければならないし、出張目的に関連して、グーグル社について調べておきたいし、ニューヨークに寄るのだから、永井荷風の「あめりか物語」はぜひ読んでいこう(末延芳晴『荷風のあめりか』以来の宿題)なんてことも考えている。しかし、この週末は、どれも棚上げして、だらだら本書を読んでいた。
そうしたら、後半で、荷風の『悪寒』が出てきたのには、びっくりした。さらに「あとがき」において、いまの政治指導者は、表向き国益を主張しながら、実のところ、グローバルな資本から得られる「自らの利益」を追求しているだけで、「自国の大多数の国民の利益を、グローバルな資本に売り渡しつづけている」という、厳しい告発の一文を読んだときは、ハッと胸に応える思いがした。――こういうとき、私が本を選んでいるのではなくて、本が私を選んでいるのではないかと思う。読書の醍醐味の一種である。
はじめて本書を見たときは、なぜ、いまさらレイシズム(人種差別主義)? なにゆえ小森陽一さん?という驚きと違和感を感じた。しかし、読んでいくうちに、ああ、これは著者でなければ語れないテーマだ、と納得した。
広義の人種差別とは、必ずしも、頭蓋の形や肌の色などの生物学的特徴に拠らず、「現実の、あるいは架空の差異に、決定的な価値づけをすること」と定義される。
著者は、子どもの発達過程(言語習得過程)を追いながら、「差別のメカニズム」が発動する契機を解き明していく。生まれたばかりの子どもは、大人たちの慈愛に満ちたやさしい声に包まれて成長する。しかし、自力で動き回れるようになると、あっちに行ってはダメ!これに触ってはダメ!という、叱責や禁止を受けるようになる。つまり、子どもには「善/悪」のうち、「悪(やってはいけないこと)」の方が、より強烈で抑圧的な記憶として残る。
さらにオムツが取れる時期になると、昨日まで「やってよいこと」であった垂れ流しの排泄が、一転して「やってはいけないこと」に転換する。子どもたちは、この不条理に直面し、自分が、いつ、いかなる理由で排除されるか分からないという恐怖を学ぶ。この時期の子どもたちが、神話や昔話を聴きたがるのは、大人の社会を構成する「意味の体系」を理解し、そこに「同化」したいという(排除の恐怖と裏腹の)欲望があるからである。
我々は、時に特定の個人を排除の対象とすることによって、共同体の安定を図ろうとする。これは、本書に参考文献として挙げられている赤坂憲雄(懐かしい!!)や佐藤裕が既に論じているところであるが、著者自身が、少年時代をチェコで過ごし、その後も「帰国子女」という異端者として日本の学校で過ごした実体験(詳しくは『小森陽一、ニホン語に出会う』大修館書店, 2000)に基づいているのではないかと想像する。
このように「差別と排除」は人間の心性に深く根ざすものであり、「人種差別主義」は、新しい衣装をまとって今日の社会にも入り込んでいる。「ニート」や「ワーキング・プア」も、あからさまな弱肉強食の実態を押し隠すために生み出された差別語である。その言葉で、ある集団を「一括り」にして名指すとき、語っている「われわれ」は「ニート」でも「ワーキング・プア」でもない、という共犯関係に結ばれている。あたかも、語る主体「オリエンタリスト」と、語られる客体「オリエンタル(東洋人)」の間に、決定的な非対称性があったように。
後半は、人種差別主義に抵抗する言語的実践の例として、永井荷風の『悪寒』を分析する。そこには、ほとんど自傷的なアイロニーによって、大日本帝国の「植民地的無意識」が暴き出されている。
さて、以下は、全くの蛇足だが――私は、来月、アメリカに短期出張に行くことになっている。なので、英会話も練習しなければならないし、出張目的に関連して、グーグル社について調べておきたいし、ニューヨークに寄るのだから、永井荷風の「あめりか物語」はぜひ読んでいこう(末延芳晴『荷風のあめりか』以来の宿題)なんてことも考えている。しかし、この週末は、どれも棚上げして、だらだら本書を読んでいた。
そうしたら、後半で、荷風の『悪寒』が出てきたのには、びっくりした。さらに「あとがき」において、いまの政治指導者は、表向き国益を主張しながら、実のところ、グローバルな資本から得られる「自らの利益」を追求しているだけで、「自国の大多数の国民の利益を、グローバルな資本に売り渡しつづけている」という、厳しい告発の一文を読んだときは、ハッと胸に応える思いがした。――こういうとき、私が本を選んでいるのではなくて、本が私を選んでいるのではないかと思う。読書の醍醐味の一種である。