見もの・読みもの日記

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多文化帝国の終わり/清帝国とチベット問題(平野聡)

2006-10-03 08:48:03 | 読んだもの(書籍)
○平野聡『清帝国とチベット問題:多民族統合の成立と瓦解』 名古屋大学出版会 2004.7

 「中国政府とチベット」が、シリアスでデリケートな問題であることくらいは知っている。ただし、正直なところ、きちんと事実を見極めようと思ったことはない。面倒がって、いつも棚上げにしてきた。中国製の武侠ドラマを見ていると、チベット僧は悪役や笑われ役が多いので、やっぱり、中国人とチベット人は仲が悪いのかしら?というのが、この問題に関する、私のせいぜいの認識だった。

 しかし、この夏の中国旅行で、乾隆帝の地下宮殿を見たことで、この中途半端な認識は崩壊してしまった。乾隆帝は、清の最盛期に君臨した、中華帝国最後の大皇帝である。その乾隆帝の墓室の壁面をびっしりと埋めたチベット文字は、あまりにも意外で衝撃的だったのだ(私には)。喩えてみれば、明治天皇の墓室がハングル文字だらけだったとか。そんな感じである。

 清とチベットは、比較的良好な関係を保ってきた。しかし、清は女真族の王朝であるから、チベットは、いまの中国(漢民族国家)に服属するいわれはない、という意見がある。だが、私の見るところ、多くの中国人にとって清朝は、日本人にとっての江戸時代みたいなものだ。近代的な「国家」の概念を無意識のレベルで下支えしているような時代である。とりわけ、康熙・雍正・乾隆の「三世之春」は、共産党のドグマなんぞよりずっと深いところで、中国人の国民的統合の象徴として機能していると思う。その乾隆帝の墓室がチベット文字だらけというのは、中華文明とチベット仏教が、実は、相当深い結びつきにあることを示しているのではあるまいか。そんな予感がした。

 本書は、まず、雍正帝・乾隆帝の2代にわたって、清帝国の対チベット政策、および、その根底となった皇帝の統治思想を検証する。特に興味深いのは、著書『大義覚迷録』が伝える雍正帝の思想である。雍正帝は、儒学知識人の惰弱を嫌い、儒学イデオロギーによって順位づけられた「華夷秩序」に反発した。そして、多様な文化的価値を相対化し、平等に再配置する「中外一体」の帝国を目指した。しかし、この体制は、帝国の中心に位置する皇帝が「諸思想の基本精神を理解し、社会的公正の実現に責任を持つことができる人物」であって、初めて成り立つものである。

 雍正・乾隆という偉大な個性を失い、西洋との本格的な接触が始まり、清帝国が「近代」に適応していく過程において、「中外一体」という曖昧な領域主権概念は、見直しを迫られる(→岡本隆司『属国と自主のあいだ』が論ずる朝鮮半島のケースと同じ)。チベットは「藩部自治」を失い、「清帝国の一部」に転落する。

 東アジアの朝貢国が近代中国を離脱したにもかかわらず、モンゴル・新疆・チベットが残されたのは、列強諸国がその地域を「清帝国の内部」と認めたことが大きい。そして、いったん近代中国の領域が確定してしまうと、国力を高め、グローバルな主導権争いに勝ち抜くため、国境線の内側は「中」と「外」の和ではなく、単一の「中国」で満たされなければいけない、と考えられるようになった。これに対する反発と対立が、今日に至る、中国政府と民族問題の根幹になっている。

 最後まで読んで、しみじみ感じたのは、多文化・多民族国家の近代化の難しさである。とりあえず、20世紀のトレンドは「国民国家」であった。「単一民族(または、それに代わる緊密な単一文化)を以って形成されるのが”正しい”国家である」という強迫観念が、あるところでは同化の圧力を、あるところでは排除の圧力を生んできたのではないかと思う。

 21世紀中には、多文化国家の利点が生きる時代が、再びめぐってくるのではないかと思う。ただし、それは、偉大な皇帝の個性に期待する、「一君万民」の帝国であってはならない。調整者のいない、フラットな関係の中で、多様な文化を平等に認め合うことが、果たしてできるのだろうか。もうちょっと考えてみたい。
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