「ウンベルト・エーコ」(1932~2016)ってご存じですか?
「イタリアの小説家、エッセイスト、文芸評論家、哲学者、記号学者。イタリア共和国功労勲章受章者。
1980年に発表された画期的歴史小説『薔薇の名前』の著者として最もよく知られる。同作品はフィクションの記号論的分析、聖書分析、中世研究、文学理論の要素を盛り込んだ知的ミステリーである。」
いずれそのうち「薔薇の名前」をぜひ読んでみたいと思っているが、映画の方は「ショーン・コネリー」主演のもとにメチャ刺激的だったのでずっと記憶に残っている。
「閉ざされた中世の厳粛な修道院の中で行われた連続殺人とその犯行の謎を解き明かすストーリー」
で、このほど図書館の新刊コーナーで見かけたのがこれで、「薔薇の名前」の解説本である。
19頁にこんなことが書いてあった。
「エーコは書き上げた原稿を読んでもらった出版社の友人から最初の100頁が非常に難解であるため縮めるようアドバイスを受けたが、ためらうことなくこれを断ったという。
修道院の中に入り込み、そこで七日間を過ごそうという読者は修道院のペースを受け入れなければならないというのがエーコの主張であった。
「ある小説に入り込むのは山登りにとりかかるようなものである。呼吸のリズムを学び、ペースを整えなければならない。さもなくば、やがて息を切らし、取り残されるであろう」
プロローグに続いて、修道院の外観に始まり敷地内の建物の配置や様子、聖堂の彫刻群などの克明な描写は、中世という舞台に入り込むための「苦行ないしイニシエーション」のような機能を果たしていて、そこをくぐり抜けた者だけが「薔薇の名前」の深みへと降り立っていくことができるというのだ。
ブログ主(註)
これまで新刊を借りてくる都度、初めの数ページを見てこれは退屈で面白くなさそうだと放り投げていたが、厳に慎まねばと思いましたぞ!(笑)。
そして「202頁」には「書物は 何を伝えるか」という小題があった。
「私たちにとって書物とはいったい何だろうか。現在電子書籍の利用が拡大する中、紙の本は絶滅するかもしれないとも指摘されている。しかし、エーコは私たちが紙の本を読まなくなることはないだろうと言う。
グーテンベルクが活版印刷術を発明し、印刷本の利用が拡大した15世紀半ば以降、羊皮紙の冊子本がなくなったわけではなく、引き続き売り買いの対象となっていた。
これまで新たな実用的なメディアが登場するたびに、習慣的に用いられてきたメディアは変化を強いられながらもそれと併存してきた。絵画は写真によって滅びはせず、写真は映画によって滅ばなかった。
映画はテレビの普及の後も続いている。つまり、選択肢が広がったということなのだ。
エーコは言う。「書物は車輪と同じような発明品です。発明された時点で進化しきってしまっているんです。」「物としての本のバリエーションは機能の点でも構造の点でも、500年前と何ら変わっていません。本はスプーンやハンマー、鋏と同じようなものです。」
アルファベットなど文字の発明も同じである。一度完成してしまったら、それい以上なかなか進化のしようがない。本とはそれに勝るものをもはや想像できないほどの完成された発明品なのだ。
スマホやタブレットの途方もない便利さは言うまでもない。だが、もしも何らかの事態で電気が失われてしまったら・・?
紙の本は昼なら太陽の下で、夜であってもろうそくを灯せば、読むことができる。」
そして、エーコは続ける。(204頁)
「インターネットに対する批評感覚を鍛え、何でもかんでも鵜呑みにしないことを覚える鍛錬が必要だ。つまり、真偽をたしかめられない情報をチェックする方法を学ぶことだ」(204頁)
このブログだって「盲信しないようにね」と言いたいところだが(笑)、個人的な考えを言わせてもらえば「幹」の部分と「枝葉末節」とを大胆に切り分ける感覚が求められると思っている。
つまり、「枝葉末節」に少々のミスや誇張があっても大勢に影響はないんだから、気にしない、気にしない・・。
このところ、やたらに「重箱の隅を突っつく」ような人が多くなった気がする(笑)。
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