図書館に行って手当たり次第に本を借りてくるものの、読んでみて面白いという「当たり」の確率はおよそ「1/4」くらい。
また、作家などのプロが薦める本にしても当たりの確率はせいぜい「1/3」ぐらいで百発百中は望むべくもないとはなからあきらめている。
音楽やオーディオにしても「好きな曲目」や「好きな音質」が他人となかなか一致しないのと同じことですね、これは~(笑)。
そういう中、このほど珍しく「当たり!」の本があったので紹介してみよう。
☆ 「無罪を見抜く」~裁判官・木谷 明の生き方~(岩波書店)
「裁判官・木谷 明」氏と言っても大半の方が「Who?」だろうが、囲碁界の名門で知られる「木谷一門」を率いた「木谷 實」氏のご次男と言えば「ほう!」という方もいるかもしれない。
長兄が東大医学部卒、ご本人は東大法学部卒という秀才兄弟である。
「碁は別智」という言葉も聞くが、父親譲りの智能なのだろうか(笑)。
本書の表紙の裏に次のような解説文がある。
「30件に及ぶ無罪判決をすべて確定させたことで知られる元裁判官が自らの人生をふり返る。囲碁棋士の父親の下で育った少年期から、札幌地裁に遭遇した平賀書簡問題、白鳥事件の思い出、最高裁調査官として憲法判例にかかわった日々、裁判官に求められるものは何かまで、すべてを語り尽くした決定版。」
世の中にはいろんな職業が無数にある。「職業に貴賤なし」の戦後教育を受けて育ってきた人間だが、ある程度人生経験を積むとどういうレベルの人たちがどういう仕事をやっているかはおおかた想像がつく。
たとえば世間では政治家、大学教授、医師、高級官僚などの一応“権威ある”とされている職業にしても、一皮めくってみると意外にもそれほど“粒ぞろい”でもなく、人間性も含めて玉石混交の状態にあるといえばちょっと言い過ぎかな(笑)。
しかし、「裁判官」という職業ばかりは犯罪の当事者にでもならない限り一般人にとっては縁遠い存在であり仕事の内情だってとても窺い知れないし、いわば孤高の存在だといえるのではあるまいか。
間違いなく言えることは、「人を裁く」という崇高な使命のもとで最難関の「司法試験」に合格した秀才たちが携わっている職業であり間違っても「過ち」を起こす確率の少ない人たちの集まりだと、ずっと思ってきたわけだが本書によって見事にその幻想が打ち砕かれた。
ありていに言わせてもらうと「よくぞ、ここまで裁判所の内情を思う存分に語ってくれたものです。裁判官だって所詮は人の子、法曹の世界も意外と一般の社会的組織と似たようなもんですねえ!」これが本書を読んでの正直な感想である。
本書は著者が質問に答える形式で構成されている。印象に残った“めぼしい点”を列挙してみよう。
☆ 裁判官のタイプの色分けはどうなっているのですか(289頁:要旨)
これまで多くの裁判官と付き合ってきましたが、私は3分類しています。
一つは「迷信型」です。「捜査官はウソをつかない」「被告人はウソをつく」という考えに凝り固まっているタイプ。これが3割ぐらいいます。
二つ目はその対極で「熟慮断行型」です。「疑わしきは罰せず」の原則に忠実なタイプで大目に見積もって1割いるかいないかです。
三つ目は中間層の「優柔不断・右顧左眄(うこさべん)型」です。「判決」に対する周囲の評価ばかりを気にして決断できないタイプで最後は検事のいうとおりにしてしまう。これが6割くらいです。
☆ 無罪判決についての意義について(290頁)
「無実の人を処罰してはいけない」に尽きます。そのためにはグレーゾーンに当たる人たちを出来るだけ無罪に持っていく方向にしないといけません。また、裁判所は捜査官の増長を防止するために捜査を厳しく批判するべきだと思います。そうしないと捜査自体が良くなりません。
☆ グレーゾーンに該当する被告がたまたま審理に当たる裁判官次第で主張を聞きいれてもらったり、そうでなかったり、不公平だと思いますがその辺はどうお考えですか(291頁)
だからその点が問題なのです。困った問題ですが「熟慮断行型」の裁判官を増やすように努力するしかありません。私は、冤罪は本当に数限りなくある、と思います。私は弁護士として事件を扱うようになってますます痛感しますが「なぜ、こんな証拠で有罪になるのだ」と怒りたくなる判決が沢山あります。本当に驚いています。「後輩たちよ、君たちはこんな判決をしているのか」と一喝したくなります。刑務所の中には冤罪者が一杯いると思わないといけません。
☆ 死刑制度について先生のお考えを聞かせてください(179頁)
私は今、完全に「死刑廃止論」を言っています。最大の論拠は団藤重光先生(故人:刑法の権威)と同じで、間違ったときに取り返しがつかないということです。「誤審の可能性」はどんな事件にもあります。ほかにも、死刑と無期刑とを区別する絶対的な基準を見つけることは不可能です。被告人にとって、当たった裁判官次第で死刑になったりならなかったりする、それでいいのでしょうか。
また、刑罰の目的というのは、応報と、最終的にはその人を更生させて元の社会に戻す、それで一緒にやっていく、というためにあるのではないでしょうか。死刑の場合は後の方の目的を完全に捨ててしまっています。
本書にはほかにも、裁判官の人事異動の内情などについても記載されており、上役の心証次第であちこちの地方に飛ばされたりして、まるで官僚組織とそっくりなのには驚いた。
最後に、まことに勝手な個人的意見を言わせてもらおう。
本書の中で印象に残った言葉が「グレーゾーンにある被告人を出来るだけ白の方向で考える」。
基本的に「疑わしきは罰せず」になるのだろうが、そもそもグレーゾーンに至ったこと自体が本人の不徳のいたす所であり、はたしてそんな甘っちょろい考えでいいのかという気がする。
証拠がいくら薄弱でも、捜査官の長年によるカンで「こいつはクロだ!」という心証もあながち無視できないのではあるまいか。
したがって「本当は有罪の人間が証拠薄弱のおかげで無罪になる」ことだって十分あり得るわけで、被害者側の心情を考え合わせるとはたして許されることだろうか。
つまり、状況次第で「疑わしきは罰せよ」も有りだと思うわけだが、こんなことを書くと「お前はまったく分かってない!」と、お叱りを受けそうでちょっと気が引けるが(笑)。
さて、皆様のお考えはいかがでしょう。
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