昨日(24日)の午前中、NTTの光テレビで録画していた黒沢明監督の往年の名作「七人の侍」を鑑賞した。
過去、何度でも観た映画だが今回もつい惹きつけられてしまい、3時間半もの大作を一気に見終った。いやあ、実に面白い!
映画に求められるあらゆる要素がびっしり詰まっていて、改めて黒沢監督の偉大さに思いを馳せたが、それはいいとして、ここで話題にしたいのは芸術家にも二つのタイプがあるということ。
一つは年齢を重ねるにつれて才能をますます開花させる「才能昂進型」、一方では才能がますます朽ち果てていく「才能枯渇型」。
たとえば、後者の例として挙げられるのが冒頭の「七人の侍」だ。見終ったときに「こんな完璧な作品を若い頃に作ったら後が大変だろうなあ」というのが正直な感想だった。
事実、黒沢監督は以後、この作品を越える映画を作れなかった。後年の映画にはいずれも緊張感の持続性というのか、根気が続かない印象を受けてしまう。
晩年には「自殺未遂」騒ぎまで起こしているが、理由はいろいろあろうが、この才能の枯渇現象が一因であったことは想像に難くない。
芸術家にとって命ともいえる閃きや才能が加齢とともに失われていく苦しさと悲しみは自分のような凡人にはとても想像もつかないが、一方では加齢とともにますます才能を開花させていく芸術家だっている。
まずは江戸時代の浮世絵師「葛飾北斎」が有名だ。
88歳という当時ではたいへんな長生きの生涯だったが「死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天があと10年の間、命長らえることを私に許されたなら』と言い、しばらくしてさらに、『天があと5年の間、命保つことを私に許されたなら、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう』と言いどもって死んだ」とある。その意気たるや凄い!
作曲家モーツァルトも35年の短い生涯だったが、わずか10代の頃にあれほど優れた作品を残しておきながら益々才能を開花させていき、とうとう亡くなる年に作曲したオペラ「魔笛」が彼の生涯の集大成となる最高傑作となった。
意見がいろいろあろうが、楽聖「ベートーヴェン」そして文豪「ゲーテ」が最高傑作だと言ってるのだからそう決めつけてもおかしくはないだろう。
その一方、作曲家でも「才能枯渇型」が居ることはいる。それは北欧フィンランドが生んだ国民的作曲家「シベリウス」(1865~1957)。
とても長い生涯だったが、40歳ごろを境にプツンと才能が切れてしまった。ご本人の慟哭たるやいかばかりかと思うところだが、92歳まで生きたのだから意外と苦にしないで、のんびり余生を送ったのかもしれない(笑)。
そういうわけで、ふとシベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」を聴いてみたくなった。彼が37歳の時の絶頂期の作品である。
上段左から順に「ジネット・ヌヴー」盤、「カミラ・ウィックス」盤、「ダヴィド・オイストラフ」盤、下段左から「ヤッシャ・ハイフェッツ」盤、「サルヴァトーレ・アッカルド」盤、「ヒラリー・ハーン」盤の6枚。
昨日(24日)は梅雨のせいで朝から雨がしとしと降って出かける気にもならず一日中巣ごもりだったのでちょうどいい機会。
日課となっている「運動ジム」(市営)通いは隣接する室内競技場がワクチン接種会場となっているため生憎の休館中なので、行く当てもなく午後からの試聴となった。
この曲の聴きどころは、
「北欧フィンランドのリリシズム、透明な抒情とほのかな暖かみ、強奏するときのオーエストラが常に保持する暗い、激しい響き。これらはシベリウスの音楽を愛する者を直ちにとらえる要素である」(小林利之氏)
この中で一番感銘を受けたのは「アッカルド」盤。オケの指揮がコリン・デーヴィスだが、シベリウスには定評のあるところでたしかに申し分のない演奏として安心して聴ける。
ヌヴー盤もさすがでとてもいい。第二楽章はダントツといっていいくらいで、録音とオケさえ良ければ言うことなし。
カミラ・ウィックス盤は、シベリウスが存命中の録音だが「これが一番私の作曲の意図を再現している」と作曲家ご本人が推奨した曰くつきの演奏だが「老いては駄馬」(失礼!)だった作曲家の言うことにしばられる必要はないと思うが・・(笑)。ただし、この演奏は五味康祐さんの好きな演奏のベスト20位に入っているので無視できない。
オイストラフ盤とハイフェッツ盤は巨匠同士だが何だか新鮮味に乏しい。
最後のヒラリー・ハーン盤だが「プレイズ バッハ」でたいへんなテクニックを披露したものの、同時に若さを露呈したハーンだが、この盤でもまだまだの感がある。
しかし、この人、ますます「大化け」しそうな雰囲気を漂わせる未完の大器であることは間違いない。
以上、いかにも梅雨の時期に相応しい北欧のリリシズムに覆われた沈鬱で暗いヴァイオリン協奏曲に、しばし耳を傾けるのも一興ですよ。
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