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フィリピンのジャングルでの皇軍兵士のおぞましい「人肉食行為」…「日本赤十字社」の従軍看護婦にも”玉砕”の時が

2024-07-01 | 先住民族関連

現代ビジネス2024年6月30日 12時0分 

中編『死体をトロッコに乗せて運び大きな穴に…植民地から召集された「日本赤十字社」従軍看護婦が明かす「地獄のような戦場」』から続く

「処置」された傷病兵たち

1945年1月にマニラを撤退してバギオへ移り、さらに北部のジャングルへと逃げ込んだ日本軍。「日本赤十字社(日赤)」と陸軍の看護婦たちは、その劣悪な状況の中で傷病兵の看護をした。

4月23日、米軍が接近したために金鉱山に設けた“病院”からも撤退する事になった。朝鮮からの日赤看護婦・潘姫静(パン・ヒジョン)さんは、日赤の制服では動きにくいので、もらった布で服とリュックを作り髪も切った。最小限の荷物だけを持ったが、それでも 20キログラムあった。

そしてジャングルでの逃避行という大変な事態を前に、鬼畜の所業が行なわれた。「衛生兵が患者たちを処置したと何度か聞きました」と潘さんは言う。潘さんと一緒に朝鮮で召集された蔡然福(チェ・ヨンボク)さんは次のように述べた。

「鉱山を撤収してジャングルへ逃げる際、動く事のできない数百人の患者がいました。その人たちは仲間の兵隊によって、クレゾールの注射で殺されたそうです」

こうしたことは、ジャングルでの逃避行の中でもあったという。動くことのできない傷病兵を、自分たちの撤退の足手まといになるとして殺害するということは他の戦場でもあった。「日本人女性である看護婦に殺してもらうことがせめてもの供養」という理屈で、兵士ではなく看護婦に殺害させることがあったという。中国東北部の「関東軍」の病院では、衛生兵ではなく看護婦が青酸カリを注射したという。

「ジュネーブ条約」では、退却に際して負傷兵を前線から後送することができない場合には、衛生要員をつけてその場に残置し、敵の保護にゆだねることができるとしている。だが日本軍は、動くことができない兵であっても、敵の捕虜になることを一切許さなかった。それは「生きて虜囚の辱めを受けず」とした「戦陣訓」があったからだ。これによって、どれほど多くの将兵や民間人までもが自決や殺害されなければならなかったことか。

ジャングルの中での、兵士と看護婦らの絶望的な逃避行が始まった。兵士たちは、眠りながら歩く。カルシウム不足で、歩いているだけで骨折する兵士もいる。木の上からは、人間の血を吸うためにヒルが次々と落ちて来る。大量に吸われて死んだ人さえいる。力尽きた兵士たちの死体が路上に積み重なっていても、誰も気にしない……。

こうした死と隣り合わせの逃避行が行なわれたルソン島北部のジャングルへは、看護婦だけでも約500人が逃げ込んでいたという。

人肉を食べる兵士たち

ルソン島北部のジャングルには、食べ物がなかった。私はこのルソン島北部やニューギニアの熱帯林を歩いたことがあるが、食料となるようなものはほとんど見当たらなかった。兵士たちはバナナの木の皮や芯、アザミの根、そしてネズミやゴキブリなど何でも口にした。履いている革製の軍靴まで食べた。そして、ここで暮らす先住民族が植えたイネやイモを畑から奪った。

「人肉を食べている者がいる」という噂が看護婦たちに伝わる。このルソン島でも、日本兵による人肉食が頻繁に行なわれていたようだ。山の中には、大腿部や頬などがえぐり取られた日本兵の死体が転がっていた。

日本兵は先住民族を襲っただけでなく、仲間の兵士まで殺して食べたのだ。この地域でも先住民族の抗日武装組織による日本軍への襲撃があったが、味方の兵士からも襲われないように警戒したというのだ。

たくさんの日本兵がジャングルの中で飢餓状態に置かれるといった事は、フィリピンだけでなくニューギニアでもあった。私は、ニューギニアで住民を殺してその肉を食べたという元軍属から話を聞く事が出来た。

日本統治下の台湾では、先住民族による「高砂義勇隊」が組織された。戦闘に参加しないはずの軍属だったが、フィリピンやニューギニアの陸軍部隊に配属。山仕事で使う大きな「蕃刀(ばんとう)」だけで米軍陣地への“斬り込み”の先頭に立たされ、多くの戦死者を出した。

「ニューギニアには、弾だけでなく食べ物もありませんでした。私が持って行った蕃刀は長さが75センチあり、人間の首でも落とせるほどでした。それでイノシシを捕まえただけでなく、住民を殺してその肉を夜中に煮て食べたんです。ただ戦友が死んでも、そうすることはありませんでした」

「人肉食があった」と話す元兵士はいるが、自ら人を殺して食べたと語った人はほとんどいないのではないか。その事を明らかにしたならば、社会から排除される可能性が高いからだ。台湾人の元軍属が語ってくれたのは、高砂義勇隊の取材で何度も訪れた私を信頼してくれたからだろう。

看護婦にも“玉砕”の時が

話はルソン島のジャングルへ戻る。口にできそうな物はすべて食べ尽くし、看護婦たちにも死が迫っていた。「玉砕するのは近い」という話が伝わってきた。埼玉県からの日赤救護班には、3人に1個の手榴弾が渡された。大分県の救護班では、仲間の負担を減らすために自ら麻薬を注射して自決した看護婦がいたという。

黄玉緞さんら台湾からの陸軍看護婦は、6月9日にキアンガンへたどり着いた。ここは敗戦後の9月2日に、山下奉文・第14方面軍司令官が米軍に降伏した場所だ。この地で全員が自決することになった。

整列して皇居の方向へ「東方遥拝」をし、「君が代」と「海ゆかば」を歌った。そして、まず患者たちが注射によって「処置」された。ところが、である。玉砕は突然、中止になったのだ。「命じられて患者たちを殺した兵士はその後、精神に異常をきたしたんです」と黄さんは言う。

フィリピンでの日本軍の軍人・軍属の死者は約50万人。その「名誉の戦死」の実態は、多くは餓死と無意味な玉砕によるものだった。フィリピンで戦死した従軍看護婦は、日赤救護班の114人、陸軍看護婦の16人だという。

激しい爆撃を繰り返していた米軍機が突然来なくなった。日本が「ポツダム宣言」を受諾したのだ。潘さんは、天皇とマッカーサーが並んだ写真が入ったビラで日本の敗戦を知る。

看護婦たちは武装解除された将兵たちと共に、米軍のトラックに乗せられた。輸送される途中ではフィリピン人たちから「ジャパン、ドロボウ(日本語)」との罵声を浴び、手当たり次第に石を投げつけられた。日本軍の占領によって肉親を失ったフィリピン人にとって、戦闘に参加していない看護婦であっても増悪の対象だったのだ。

看護婦たちも、マニラ郊外モンテンルパの捕虜収容所へ入れられた。ここには大勢の朝鮮人「慰安婦」もいた。最初の引き揚げ船には、朝鮮人たちが乗る事になった。「343救護班」にいた3人の看護婦や軍人・軍属など、数百人の朝鮮人が日本の軍艦で帰国した。

「親日派と言われるので、日赤看護婦だった事は人には話せなかったんです。夫は、私が従軍した時の話をするのを嫌がっていました」と潘さんは言う。蔡さんは「人のためになるような生き方をしたいと思って日赤看護婦になったのですが、その事で人生が変わってしまいました。今でも看護婦になった事を後悔しています」と何度も繰り返した。

朝鮮戦争でも看護婦を動員

日赤から戦争での傷病兵看護のために看護婦を出したのは、アジア太平洋戦争が最後ではなかった。

1950年6月25日、朝鮮戦争が始まる。この戦争で北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)・中国・ソ連と戦ったのは、韓国・米国など16ヵ国の「国連軍」。日本はそれに入っていないが、さまざまな形での多大な支援をした。分かっているだけでも、「海上保安庁」職員や米軍雇用の船員など60人近くの日本人が死亡している。日本は事実上の“参戦国”だった。

「国連軍総司令官」のダグラス・マッカーサーは、日本を戦争遂行のための巨大な兵站基地にしようとし、吉田茂首相はそれを積極的に受け入れる。日本国内で大量の物資調達が行なわれ、港湾・鉄道などが使用された。米軍に雇用された労働者は最大時には約30万人にもなり、米軍が集めた日本人の港湾労働者数千人が韓国の港で働いた。

この戦争で「国連軍」は、約36万人の死傷者を出したという。そのため膨大な数の傷病兵が、日本へ次々と移送されてきた。日本各地の14都市には、「国連軍」の野戦病院が設置。そして日赤本社は、マッカーサーからの看護婦の派遣要求に対し全面的に協力することを決めた。

朝鮮戦争が始まって半年後、日赤は看護婦を再び「赤紙」を使って召集したのだ。アジア太平洋戦争が終わってからも、日赤の看護婦養成のための学校を卒業した看護婦には召集に応じる義務があったからだ。その根拠となる「日本赤十字社戦時救護規則」が廃止されたのは、1965年6月になってからの事だ。

日赤本社は九州の支部に対し、救護班派遣を要請。佐賀県では、その要請を受けたのが12月8日午後8時だったが、11日午前11時には佐賀市役所で出発式が行われることになった。

急なことなので、日赤支部の病院で勤務している看護婦が召集された。その看護婦16人は濃紺の制服姿で、飯ごうと水筒をけさ掛けていたという。まさしく、アジア太平洋戦争で戦場へ送られた救護班と同じ姿なのだ。

派遣先は、福岡県の「国連軍第141兵站病院」。九州の各支部から、第1次54人・第2次25人・第3次17人を派遣したのである。この病院には傷病兵約1500人が収容されていて、看護婦は約1000人もいたという。

ところが日赤本社は、この「国連軍病院」への看護婦派遣という事実を隠し、病院内での服務内容などを機密扱いにして看護婦に守秘義務を課すことまでしたのだ。また日赤は、「国連軍」兵士への献血や慰問の金品を送る運動を全国で精力的に展開。

「敵味方なく救う」という赤十字の基本精神からすれば、朝鮮戦争の当事国でもない日本の赤十字社は、北朝鮮の「朝鮮赤十字会」へも医薬品などを送るべきだったのではないか。

再び日赤看護婦は戦争へ動員されるのか

「赤十字は戦争を前提とした組織であったし、今もそうである。(中略)兵士が安心して戦うための後方支援、ついには戦争の歯車となってしまうこともある」(『戦争のある場所には看護師がいる』「戦時下に日本のナースたちが体験したこと」川原由佳里)

そのように日赤は、日中戦争からアジア太平洋戦争に至るまで軍部に命じられるまま看護婦を戦場へ派遣し、戦争を底辺で支えてきた。そのことに対する反省がなかったために、朝鮮戦争でも看護婦派遣などで協力することになった。そうしたことは、再び起こらないのだろうか。

2004年6月、「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律(国民保護法)」が成立。日赤はこの法律で、日本銀行・日本放送協会(NHK)などと共に「指定公共機関」となった。「指定公共機関は、武力攻撃事態等においてはその業務について、国民の保護のための措置を実施する責務を有する」としており、日赤の自主性が大きく制限される事が危惧される。

日赤は国民保護法の成立を受け、翌年に「日本赤十字社国民保護業務計画」を策定。「本社、支部並びに医療施設、血液センター及び社会福祉施設等の施設が一体となって、必要な措置を実施する」とし、武力攻撃を受けた際には組織を上げて政府に協力することを明確にした。

「朝鮮半島有事」や「台湾有事」は実際には米国が当事者であるため、その同盟国・日本へは朝鮮戦争の時よりも多い傷病兵が運ばれて来るだろう。そのための体制をすでに整えているという自衛隊は、昨年6月からは「自衛隊中央病院」でウクライナ軍の負傷兵の受け入れをしている。予行演習である。

自衛隊には、自衛隊中央病院と10ヵ所の地区病院がある。そこで働く「自衛隊看護師」は約1000人だという。敗戦前の「陸軍看護婦」は約2万500人、「日赤看護婦」は約1万1500人との事なので、比較すれば圧倒的に少ない。「有事」になれば、自衛隊看護師だけでなく日赤看護師も動員されるのは確かだろう。

(撮影日記載の写真は筆者撮影)

https://news.livedoor.com/article/detail/26698644/

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