紀伊民報 12月11日(火)16時54分配信
和歌山県田辺市のノンフィクション作家、佐山和夫さん(76)の講演会が10日、串本町串本の町文化センターであった。「わが名はケンドリック」を著した佐山さんは、さまざまな史料を示しながら、ペリー来航より62年前に同町の紀伊大島を訪れた米国船レイディ・ワシントン号とジョン・ケンドリック船長の航跡をたどった。
「ケンドリックが串本へ来るまで―そして、そのあと」と題して町と町教育委員会が主催し、約500人が聞いた。
1791年4月、同町の紀伊大島にレ号とグレイス号の2隻が寄港した。日本の教科書などでは、日米の最初の交流は1853年のペリーの黒船来航だと言われているが、レ号はその62年前に日本に来ていた。当時日本は鎖国中で、レ号来航の理由は日本の歴史では長い間「漂着」だとされていたが、米国に残るさまざまな文献から実際は交易を望んでの来航だったことが明らかになっている。同町樫野には1975年、レ号の来航を記念して日米修交記念館が建設された。
佐山さんは「日米の関係は一般的に言われるよりも長い歴史がある。ペリー来航から数えても62年前からすでに、より友好的な始まり方をしている。日本でアメリカの船が最初に着いたのはここ串本の1カ所しかない。それを理解してほしい」と訴えた。
佐山さんは、レ号が1787年10月に米国ボストンを出港、アメリカ太平洋岸北西部で先住民と交易し、ラッコの皮などを積んで太平洋を横断したことを説明。レ号が毛皮商船と言われているが、船員は1~5等の航海士や水夫の他、大工、鉄工、洋服の仕立屋、絵描きなどさまざまな職人がおり、ケンドリック船長が「司令官」という肩書でサインしていることなどから、軍艦、探検隊としての働きもしていたといい「毛皮商船と一言で言うのは間違い」と指摘した。
日本を訪れた米国の船はレ号が最初で、ペリーの黒船は27隻目であることを訪日米国船のリストで示し「黒船から日米関係が始まったというのはとんでもないことだ」と強調。船主からケンドリック船長に宛てた要望書には「相手の無知につけこまず、正直な行為により友情を深めること」と書かれていることを説明し「友情と礼を尽くして交易するようにと史料にはっきりと書かれている。日本への来航理由が漂着とは言えない」と述べた。
さらに「紀伊大島の人は(レ号の来航に)拒否反応を示さなかったのでは。樫野には浜に漂着した神様を迎えに行くことが由来になった雷公神社の火祭りがあり、そういった意識がどこかにあったのではないか」と話した。
佐山さんは、米国でレ号のレプリカが建造されたことや、マサチューセッツ州にあるケンドリック船長の家が記念館になっていることなども写真付きで紹介した。
http://www.agara.co.jp/modules/dailynews/article.php?storyid=243783
和歌山県田辺市のノンフィクション作家、佐山和夫さん(76)の講演会が10日、串本町串本の町文化センターであった。「わが名はケンドリック」を著した佐山さんは、さまざまな史料を示しながら、ペリー来航より62年前に同町の紀伊大島を訪れた米国船レイディ・ワシントン号とジョン・ケンドリック船長の航跡をたどった。
「ケンドリックが串本へ来るまで―そして、そのあと」と題して町と町教育委員会が主催し、約500人が聞いた。
1791年4月、同町の紀伊大島にレ号とグレイス号の2隻が寄港した。日本の教科書などでは、日米の最初の交流は1853年のペリーの黒船来航だと言われているが、レ号はその62年前に日本に来ていた。当時日本は鎖国中で、レ号来航の理由は日本の歴史では長い間「漂着」だとされていたが、米国に残るさまざまな文献から実際は交易を望んでの来航だったことが明らかになっている。同町樫野には1975年、レ号の来航を記念して日米修交記念館が建設された。
佐山さんは「日米の関係は一般的に言われるよりも長い歴史がある。ペリー来航から数えても62年前からすでに、より友好的な始まり方をしている。日本でアメリカの船が最初に着いたのはここ串本の1カ所しかない。それを理解してほしい」と訴えた。
佐山さんは、レ号が1787年10月に米国ボストンを出港、アメリカ太平洋岸北西部で先住民と交易し、ラッコの皮などを積んで太平洋を横断したことを説明。レ号が毛皮商船と言われているが、船員は1~5等の航海士や水夫の他、大工、鉄工、洋服の仕立屋、絵描きなどさまざまな職人がおり、ケンドリック船長が「司令官」という肩書でサインしていることなどから、軍艦、探検隊としての働きもしていたといい「毛皮商船と一言で言うのは間違い」と指摘した。
日本を訪れた米国の船はレ号が最初で、ペリーの黒船は27隻目であることを訪日米国船のリストで示し「黒船から日米関係が始まったというのはとんでもないことだ」と強調。船主からケンドリック船長に宛てた要望書には「相手の無知につけこまず、正直な行為により友情を深めること」と書かれていることを説明し「友情と礼を尽くして交易するようにと史料にはっきりと書かれている。日本への来航理由が漂着とは言えない」と述べた。
さらに「紀伊大島の人は(レ号の来航に)拒否反応を示さなかったのでは。樫野には浜に漂着した神様を迎えに行くことが由来になった雷公神社の火祭りがあり、そういった意識がどこかにあったのではないか」と話した。
佐山さんは、米国でレ号のレプリカが建造されたことや、マサチューセッツ州にあるケンドリック船長の家が記念館になっていることなども写真付きで紹介した。
http://www.agara.co.jp/modules/dailynews/article.php?storyid=243783