現代ビジネス 20200708
中世に託して現代を描く
6月末から、スタジオジブリの旧作の「劇場での再上映」が始まりました。公式なアナウンスには入っていませんが、おそらくはコロナ禍で最大の損害を被った業種である映画館に足を運ぶ体験を、もういちど広く知ってほしいという趣旨もあるのではと思います。
どの作品も懐かしいですが、とりわけこのタイミングで『もののけ姫』が久しぶりにスクリーンに映ることは、私にとってひとしおの感慨をそそります。
解説は不要かもしれませんが、『もののけ姫』は1997年公開。宮崎駿監督の「引退作」だとPRされたこともあって、爆発的なヒットとなり、日本映画の興収記録を更新。しかし引退宣言は後に撤回され、以降も新作ごとに「今度こそ最後」と報じられては覆る、いわば宮崎監督が「いつまでも引退できない時代」が今日まで続いています。
もっとも、私がこの作品をとりわけ懐かしく思うのは、また別の個人的な事情によるものです。
2008~2014年にかけて、大学で日本通史を教えていたころ、冬学期の初回は必ず『もののけ姫』を教材にしていました。そのときの講義録は『中国化する日本』(文春文庫)として刊行していますが、この回については字数の関係で割愛したので、入っていません。
ストーリーをざっくり要約すれば、『もののけ姫』は中世の日本を舞台とする、四者四様の「マイノリティ」がぶつかりあう活劇です。
(1)主人公のアシタカは(アイヌのようにも思われる)少数民族の出身で、しかも呪いのために生地を追われてしまう。(2)ヒロインのサン(もののけ姫)は山で狼に育てられた少女で、人間社会を憎悪している。(3)もう一人のヒロインと言えるエボシ御前は、森の中のたたら場(製鉄所)を一種のコミューンにして、女性や病人たちを庇護している。(4)狂言回しにあたる山伏のジコ坊は、正体不明の移動民の一団を率いており、おいしい儲け話を狙っている。
このうち物語の軸をなすのは、女性2人の争いです。エボシは自分のたたら場で弱者を保護し、活躍の場を与えるひとかどの人物ですが、しかし彼女が営む製鉄業は周囲の自然を傷つけている。そのことにサンは怒っている。今日風に言うと、いかに「福利厚生が充実した、従業員に優しい企業」を経営していても、事業内容が地球環境にとってマイナスなら、エコロジストには許せないということですね。
これは牽強付会ではなく、前作にあたる『紅の豚』の公開を受けた1992年の取材では、宮崎監督自身が労使協調的な「会社社会主義」への幻滅を口にし、構想中の時代劇(=『もののけ姫』)について「企業戦士の代わりに侍が出てくるようなのにしたってしょうがない」と述べていました(『風の帰る場所』文春ジブリ文庫)。その点で一見すると中世史に素材を採りながら、きわめて現代的なテーマを扱った作品だといえます。
冷戦下のユートピアの残像
こうした『もののけ姫』の世界像に影響を与えた人として、よく名前が挙がる歴史学者に網野善彦(1928~2004年)がいます。若い世代の方には、宗教学者の中沢新一氏の叔父さんと言った方が、親近感が湧くでしょうか。
網野には膨大な著作がありますが、特に映画の内容を連想させるのは、1978年にベストセラーとなった『無縁・公界・楽』。宮崎駿さんがTVで『未来少年コナン』を作っていたころの、古い本ですね(宮崎氏の映画監督デビュー作として有名な、『ルパン三世 カリオストロの城』が翌79年)。
中世日本に実在したコミューン的な共同体を描く同書について、網野は生前、甥の中沢さんから「それは結局、資本主義になるね」と批判されたと、しばしば回想していました(興味のある方は拙著『荒れ野の六十年』勉誠出版、を参照)。『もののけ姫』でいえば、たしかにエボシは立派な存在だけれども、彼女の事業の行き着くところは資本主義的な「開発」であり、むしろ自然との共存関係を壊すという意味での「近代化」の第一歩でもあった、ということです。
網野史学とジブリ作品の影響関係は、お互い「公認」ともいえるもので、『もののけ姫』の公開時に行われた網野と宮崎監督の対談が『歴史と出会う』に入っています。興味深いのは、そこで宮崎さんが「エボシという女性は二十世紀の理想の人物」で、「タタラ場の溶鉱炉のイメージは、子供のときに写真で見た中国の大躍進時代のもの」だと証言していることです。
大躍進とは毛沢東が1958年、中国農村部の強引な工業化と大増産を命じたもので、今日では破滅的な飢饉に帰結したことが明らかになっていますが、同時代には「輝かしい社会主義建設の道」として期待を集めました。戦後の初期、朝鮮戦争下(1950~53年)で挫折を体験するまでの網野も、熱心な共産主義の運動家だったことで知られます(なお高校・大学と網野の級友で、保守派に転向したのち日本テレビのトップに立った氏家齊一郎は、『魔女の宅急便』以来のジブリ作品の後援者でもありました)。
意欲に燃える「同志」を集め、お互いの同胞愛に基づく「搾取のない」関係性を確立し、そこから生まれる情熱をもって生産に突貫することで、働くよろこびの溢れる地上の楽園を作る――。しかしその理想は、現実に実践するとなぜか必ずダメになってしまい、むしろ資本主義以上の人間と環境の破壊をもたらす。そうした冷戦下の体験の反省もまた、『もののけ姫』には込められています。
映画から見える「日中」の違い
もっとも『もののけ姫』の世界観には、歴史の研究者の眼で見たとき、いかにも「日本的」なバイアスを感じる側面があります。実は、私が日本史の授業で教材に採り上げたのも、そのことを学生に考えてもらうためでした。
同作の物語を織りなす4名のマイノリティのうち、サンとエボシとは、アシタカが仲立ちする形で一定の和解を達成します。逆に最後まで、ちょっとかわいそうな位置づけなのがジコ坊ですね。「悪役」というわけではないのですが、描かれ方もどこかうさん臭くて、いかがわしい存在。見終わった後で他の3人ではなく、彼のファンになる観客はあまりいないでしょう。
それはおそらく、ジコ坊だけが「故郷」を持たない移動民であるところから来ています。サンは狩猟採集民のように暮らしてはいても、自分が生まれ育った森を愛しているし、呪いが解けた後のアシタカも、そこに加わるだろうことが示唆されている。城塞のようなたたら場のコミュニティを築いていたエボシは、言わずもがなですね。
ラフに喩えるなら、日本人はみな、地元の生活圏と一体化した「里山」が大好き。逆に峻厳な山々を渡り歩くガチンコの修験道にあこがれる人となると、ごく少数。そうした感覚が、キャラクターの造形にも反映しているというところでしょうか。
しかし故郷を持ち、そこに定住することに人間らしさや幸せがあるとする発想は、世界のどこでも自明のことだろうか? それを考えるために私の授業では、むしろ中国の伝統社会を描いた古い映画と、『もののけ姫』を見比べてもらっていました。1937年、初期のハリウッドで撮られたモノクロ作品である『大地』です。
『大地』は後にノーベル文学賞を受ける女性作家パール・S・バックが、1931年に発表した大河小説です。彼女はアメリカ人ですが、両親が宣教師だったために幼少期を中国で過ごし、同地の近代化に向けた苦闘に共感を抱いていました。映画版でとくに印象に残るのは、作品の半ばで起こる干ばつと大飢饉の描写です。
『大地』の主人公は働き者の農民で、努力の甲斐あって地元にいくつもの畑を所有しており、当初は「これだけ貯えがあれば、災害くらい余裕だ」と豪語します。ところがその奥さんは、表情を曇らせる。中国では基本的に地形が平坦なため、天災に襲われると周辺の地域一帯が、まるごと全部ダメになる。結局一家はいったん耕作を放棄して、難民のように流浪の旅に出ることになります。
生まれた場所を愛して「故郷を守ろう」としても、そもそも守りようがなく、移動しなければ全滅してしまう。つまり『もののけ姫』とは逆に、ジコ坊のようなキャラクターしか生き延びられず、主人公たり得ない社会。そうした過酷な環境こそが中国では常態であり、かつそれが近代化を阻害する最大の要因であることを、原作者のバックは見抜いていました。
「移動してこそ生き延びられる」とは、逆にいうと「危機に際して結束せず、バラバラに逃げ出して、立ち向かわない」ことと同義だからです。こうしたメンタリティが染みとおった社会では、ジコ坊めいた「行商」なら営めるのですが、エボシ御前のような「工場経営」は難しいし、みんなが逃げてしまうので外国との戦争にも弱い。
映画『大地』の最後では、学校に通い近代的な思考法を身につけた、いかにも情熱的なインテリという感じの息子が登場します。今度はイナゴの大集団が来襲するとの報に接し、主人公夫妻はもはやこれまでと観念しますが、その子息に「地元で団結して戦う」ことの意義を説かれ、ついに危機を克服する。あたかも映画と同年に勃発した日中戦争の顛末を予見したような、鬼気迫る結末になっています。
ポストコロナに得られる示唆とは
ジコ坊の道か、エボシ御前の道か――。この選択は今春のコロナ危機を経たいま、ふたたび私たちの世界に突きつけられています。ウィルスの感染拡大を止めようとして、欧米諸国を含む多くの地域で国境の遮断や都市封鎖が行われ、「移動」自体をあたかも悪であるかのように見なす風潮が生まれました。
しかしそれは――私が授業で教えていたのは、あくまで『中国化する日本』でしたが――ひょっとすると「中国化する世界」への一里塚かもしれない。ウィルスが最初に流行した武漢を強権的にロックダウンした中国共産党の絶対権力は、そもそもは「ジコ坊しかいない社会」を力づくで重工業化するために、エボシのたたら場のモデルとなった毛沢東の統制下で形成されたものでした。
周知のとおりそれはいま、中国大陸でもっとも「移動」と親和性の高い都市に育った香港の市民社会をも、飲み込もうとしています。コロナ問題の初期、人権の軽視ゆえに可能となる「中国モデル」の行動規制が「有効だ」という教訓が流布することで、西洋近代の達成が崩壊してゆくことへの危惧を何人かの有識者が語りましたが、それはもはや、杞憂だと笑って見過ごせない域に入りつつあります。
こうしたとき、ついついジコ坊を退け、エボシ御前に共感しがちな日本人だからこそ特に、気をつけなければならない。たとえば、「中国人観光客に依存したインバウンド政策こそが元凶だった。むしろ日本はポストコロナでも国境を閉ざし、グローバリズムと縁を切るべきだ」といった論説は、これから右派系の論壇誌で隆盛を極めるでしょう。しかし、それは本当でしょうか。
私自身も緊急事態宣言下ですでに指摘しましたが、日本人のコロナでの死亡率は(東アジア・東南アジアの多くの国と同様に)欧米と比較して圧倒的に低い。この現象は山中伸弥氏による「ファクターX」の造語で広く知られましたが、同氏はその要因たり得るものの一つに「2020年1月までの、何らかのウイルス感染の影響」を挙げています。
これは交差免疫説(いわゆるSARS-X仮説)を指すものと思われますが、つまりは、国境を開放して多数の中国からの来日者(と彼らが運ぶウィルス)を受け入れていたことが、結果的に、今回のコロナウィルスに対する免疫を事前に獲得することに貢献したという趣旨になります。もし今後それが立証されるなら、エボシの城塞のような「籠城」ではなく、むしろジコ坊が自在に動き回る世界に適応することの方が、防疫上も有効だということになる。
コロナウィルスの流行のような同一の現象を見ても、いかなる考察上の参照軸を持つかで、結論は正反対のものにさえなり得るのです。かような思考の多様性を保つための豊饒な素材を提供してくれるところに、もともとは歴史――自国や他の世界の過去をふり返る営みの意義がありました。
日本人は「民度の高さ」で感染拡大を抑えたといった、ある意味では「南京大虐殺はなかった」以上に危険な「歴史修正主義」の蔓延が放置されるいま、史実どおりに過去を復元することの価値は大きく揺らいでいます。しかし、仮にすべてがフィクションと――あえて言えば「フェイク」と化す時代が来てもなお、人類がこれまで辿ってきた軌跡とその教訓は、さまざまな痕跡の形で私たちに訴え続ける。
その手がかりが、知らぬ人のない平成のアニメ映画の名作にも秘められています。今回の再上映を機に、そうした感覚を甦らせる人が一人でも増えるなら、長らく歴史を研究してきた者として、これ以上の歓びはありません。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73842
中世に託して現代を描く
6月末から、スタジオジブリの旧作の「劇場での再上映」が始まりました。公式なアナウンスには入っていませんが、おそらくはコロナ禍で最大の損害を被った業種である映画館に足を運ぶ体験を、もういちど広く知ってほしいという趣旨もあるのではと思います。
どの作品も懐かしいですが、とりわけこのタイミングで『もののけ姫』が久しぶりにスクリーンに映ることは、私にとってひとしおの感慨をそそります。
解説は不要かもしれませんが、『もののけ姫』は1997年公開。宮崎駿監督の「引退作」だとPRされたこともあって、爆発的なヒットとなり、日本映画の興収記録を更新。しかし引退宣言は後に撤回され、以降も新作ごとに「今度こそ最後」と報じられては覆る、いわば宮崎監督が「いつまでも引退できない時代」が今日まで続いています。
もっとも、私がこの作品をとりわけ懐かしく思うのは、また別の個人的な事情によるものです。
2008~2014年にかけて、大学で日本通史を教えていたころ、冬学期の初回は必ず『もののけ姫』を教材にしていました。そのときの講義録は『中国化する日本』(文春文庫)として刊行していますが、この回については字数の関係で割愛したので、入っていません。
ストーリーをざっくり要約すれば、『もののけ姫』は中世の日本を舞台とする、四者四様の「マイノリティ」がぶつかりあう活劇です。
(1)主人公のアシタカは(アイヌのようにも思われる)少数民族の出身で、しかも呪いのために生地を追われてしまう。(2)ヒロインのサン(もののけ姫)は山で狼に育てられた少女で、人間社会を憎悪している。(3)もう一人のヒロインと言えるエボシ御前は、森の中のたたら場(製鉄所)を一種のコミューンにして、女性や病人たちを庇護している。(4)狂言回しにあたる山伏のジコ坊は、正体不明の移動民の一団を率いており、おいしい儲け話を狙っている。
このうち物語の軸をなすのは、女性2人の争いです。エボシは自分のたたら場で弱者を保護し、活躍の場を与えるひとかどの人物ですが、しかし彼女が営む製鉄業は周囲の自然を傷つけている。そのことにサンは怒っている。今日風に言うと、いかに「福利厚生が充実した、従業員に優しい企業」を経営していても、事業内容が地球環境にとってマイナスなら、エコロジストには許せないということですね。
これは牽強付会ではなく、前作にあたる『紅の豚』の公開を受けた1992年の取材では、宮崎監督自身が労使協調的な「会社社会主義」への幻滅を口にし、構想中の時代劇(=『もののけ姫』)について「企業戦士の代わりに侍が出てくるようなのにしたってしょうがない」と述べていました(『風の帰る場所』文春ジブリ文庫)。その点で一見すると中世史に素材を採りながら、きわめて現代的なテーマを扱った作品だといえます。
冷戦下のユートピアの残像
こうした『もののけ姫』の世界像に影響を与えた人として、よく名前が挙がる歴史学者に網野善彦(1928~2004年)がいます。若い世代の方には、宗教学者の中沢新一氏の叔父さんと言った方が、親近感が湧くでしょうか。
網野には膨大な著作がありますが、特に映画の内容を連想させるのは、1978年にベストセラーとなった『無縁・公界・楽』。宮崎駿さんがTVで『未来少年コナン』を作っていたころの、古い本ですね(宮崎氏の映画監督デビュー作として有名な、『ルパン三世 カリオストロの城』が翌79年)。
中世日本に実在したコミューン的な共同体を描く同書について、網野は生前、甥の中沢さんから「それは結局、資本主義になるね」と批判されたと、しばしば回想していました(興味のある方は拙著『荒れ野の六十年』勉誠出版、を参照)。『もののけ姫』でいえば、たしかにエボシは立派な存在だけれども、彼女の事業の行き着くところは資本主義的な「開発」であり、むしろ自然との共存関係を壊すという意味での「近代化」の第一歩でもあった、ということです。
網野史学とジブリ作品の影響関係は、お互い「公認」ともいえるもので、『もののけ姫』の公開時に行われた網野と宮崎監督の対談が『歴史と出会う』に入っています。興味深いのは、そこで宮崎さんが「エボシという女性は二十世紀の理想の人物」で、「タタラ場の溶鉱炉のイメージは、子供のときに写真で見た中国の大躍進時代のもの」だと証言していることです。
大躍進とは毛沢東が1958年、中国農村部の強引な工業化と大増産を命じたもので、今日では破滅的な飢饉に帰結したことが明らかになっていますが、同時代には「輝かしい社会主義建設の道」として期待を集めました。戦後の初期、朝鮮戦争下(1950~53年)で挫折を体験するまでの網野も、熱心な共産主義の運動家だったことで知られます(なお高校・大学と網野の級友で、保守派に転向したのち日本テレビのトップに立った氏家齊一郎は、『魔女の宅急便』以来のジブリ作品の後援者でもありました)。
意欲に燃える「同志」を集め、お互いの同胞愛に基づく「搾取のない」関係性を確立し、そこから生まれる情熱をもって生産に突貫することで、働くよろこびの溢れる地上の楽園を作る――。しかしその理想は、現実に実践するとなぜか必ずダメになってしまい、むしろ資本主義以上の人間と環境の破壊をもたらす。そうした冷戦下の体験の反省もまた、『もののけ姫』には込められています。
映画から見える「日中」の違い
もっとも『もののけ姫』の世界観には、歴史の研究者の眼で見たとき、いかにも「日本的」なバイアスを感じる側面があります。実は、私が日本史の授業で教材に採り上げたのも、そのことを学生に考えてもらうためでした。
同作の物語を織りなす4名のマイノリティのうち、サンとエボシとは、アシタカが仲立ちする形で一定の和解を達成します。逆に最後まで、ちょっとかわいそうな位置づけなのがジコ坊ですね。「悪役」というわけではないのですが、描かれ方もどこかうさん臭くて、いかがわしい存在。見終わった後で他の3人ではなく、彼のファンになる観客はあまりいないでしょう。
それはおそらく、ジコ坊だけが「故郷」を持たない移動民であるところから来ています。サンは狩猟採集民のように暮らしてはいても、自分が生まれ育った森を愛しているし、呪いが解けた後のアシタカも、そこに加わるだろうことが示唆されている。城塞のようなたたら場のコミュニティを築いていたエボシは、言わずもがなですね。
ラフに喩えるなら、日本人はみな、地元の生活圏と一体化した「里山」が大好き。逆に峻厳な山々を渡り歩くガチンコの修験道にあこがれる人となると、ごく少数。そうした感覚が、キャラクターの造形にも反映しているというところでしょうか。
しかし故郷を持ち、そこに定住することに人間らしさや幸せがあるとする発想は、世界のどこでも自明のことだろうか? それを考えるために私の授業では、むしろ中国の伝統社会を描いた古い映画と、『もののけ姫』を見比べてもらっていました。1937年、初期のハリウッドで撮られたモノクロ作品である『大地』です。
『大地』は後にノーベル文学賞を受ける女性作家パール・S・バックが、1931年に発表した大河小説です。彼女はアメリカ人ですが、両親が宣教師だったために幼少期を中国で過ごし、同地の近代化に向けた苦闘に共感を抱いていました。映画版でとくに印象に残るのは、作品の半ばで起こる干ばつと大飢饉の描写です。
『大地』の主人公は働き者の農民で、努力の甲斐あって地元にいくつもの畑を所有しており、当初は「これだけ貯えがあれば、災害くらい余裕だ」と豪語します。ところがその奥さんは、表情を曇らせる。中国では基本的に地形が平坦なため、天災に襲われると周辺の地域一帯が、まるごと全部ダメになる。結局一家はいったん耕作を放棄して、難民のように流浪の旅に出ることになります。
生まれた場所を愛して「故郷を守ろう」としても、そもそも守りようがなく、移動しなければ全滅してしまう。つまり『もののけ姫』とは逆に、ジコ坊のようなキャラクターしか生き延びられず、主人公たり得ない社会。そうした過酷な環境こそが中国では常態であり、かつそれが近代化を阻害する最大の要因であることを、原作者のバックは見抜いていました。
「移動してこそ生き延びられる」とは、逆にいうと「危機に際して結束せず、バラバラに逃げ出して、立ち向かわない」ことと同義だからです。こうしたメンタリティが染みとおった社会では、ジコ坊めいた「行商」なら営めるのですが、エボシ御前のような「工場経営」は難しいし、みんなが逃げてしまうので外国との戦争にも弱い。
映画『大地』の最後では、学校に通い近代的な思考法を身につけた、いかにも情熱的なインテリという感じの息子が登場します。今度はイナゴの大集団が来襲するとの報に接し、主人公夫妻はもはやこれまでと観念しますが、その子息に「地元で団結して戦う」ことの意義を説かれ、ついに危機を克服する。あたかも映画と同年に勃発した日中戦争の顛末を予見したような、鬼気迫る結末になっています。
ポストコロナに得られる示唆とは
ジコ坊の道か、エボシ御前の道か――。この選択は今春のコロナ危機を経たいま、ふたたび私たちの世界に突きつけられています。ウィルスの感染拡大を止めようとして、欧米諸国を含む多くの地域で国境の遮断や都市封鎖が行われ、「移動」自体をあたかも悪であるかのように見なす風潮が生まれました。
しかしそれは――私が授業で教えていたのは、あくまで『中国化する日本』でしたが――ひょっとすると「中国化する世界」への一里塚かもしれない。ウィルスが最初に流行した武漢を強権的にロックダウンした中国共産党の絶対権力は、そもそもは「ジコ坊しかいない社会」を力づくで重工業化するために、エボシのたたら場のモデルとなった毛沢東の統制下で形成されたものでした。
周知のとおりそれはいま、中国大陸でもっとも「移動」と親和性の高い都市に育った香港の市民社会をも、飲み込もうとしています。コロナ問題の初期、人権の軽視ゆえに可能となる「中国モデル」の行動規制が「有効だ」という教訓が流布することで、西洋近代の達成が崩壊してゆくことへの危惧を何人かの有識者が語りましたが、それはもはや、杞憂だと笑って見過ごせない域に入りつつあります。
こうしたとき、ついついジコ坊を退け、エボシ御前に共感しがちな日本人だからこそ特に、気をつけなければならない。たとえば、「中国人観光客に依存したインバウンド政策こそが元凶だった。むしろ日本はポストコロナでも国境を閉ざし、グローバリズムと縁を切るべきだ」といった論説は、これから右派系の論壇誌で隆盛を極めるでしょう。しかし、それは本当でしょうか。
私自身も緊急事態宣言下ですでに指摘しましたが、日本人のコロナでの死亡率は(東アジア・東南アジアの多くの国と同様に)欧米と比較して圧倒的に低い。この現象は山中伸弥氏による「ファクターX」の造語で広く知られましたが、同氏はその要因たり得るものの一つに「2020年1月までの、何らかのウイルス感染の影響」を挙げています。
これは交差免疫説(いわゆるSARS-X仮説)を指すものと思われますが、つまりは、国境を開放して多数の中国からの来日者(と彼らが運ぶウィルス)を受け入れていたことが、結果的に、今回のコロナウィルスに対する免疫を事前に獲得することに貢献したという趣旨になります。もし今後それが立証されるなら、エボシの城塞のような「籠城」ではなく、むしろジコ坊が自在に動き回る世界に適応することの方が、防疫上も有効だということになる。
コロナウィルスの流行のような同一の現象を見ても、いかなる考察上の参照軸を持つかで、結論は正反対のものにさえなり得るのです。かような思考の多様性を保つための豊饒な素材を提供してくれるところに、もともとは歴史――自国や他の世界の過去をふり返る営みの意義がありました。
日本人は「民度の高さ」で感染拡大を抑えたといった、ある意味では「南京大虐殺はなかった」以上に危険な「歴史修正主義」の蔓延が放置されるいま、史実どおりに過去を復元することの価値は大きく揺らいでいます。しかし、仮にすべてがフィクションと――あえて言えば「フェイク」と化す時代が来てもなお、人類がこれまで辿ってきた軌跡とその教訓は、さまざまな痕跡の形で私たちに訴え続ける。
その手がかりが、知らぬ人のない平成のアニメ映画の名作にも秘められています。今回の再上映を機に、そうした感覚を甦らせる人が一人でも増えるなら、長らく歴史を研究してきた者として、これ以上の歓びはありません。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73842