武将ジャパン2024/04/16
漫画『ゴールデンカムイ』で重要な役割を果たすアイヌ人のキロランケ。
彼はかつて第七師団に所属し、日露戦争を戦った経歴の持ち主でした。さらに第七師団の兵士として、イポプテ(煮立たせる、有古力松)も登場します。
と、そこで一つ疑問は湧いてきませんでしたか。
当時のアイヌは、誰しも戦地へ向かった?
そうでなければ、彼ら以外にも、戦地へ向かうアイヌはいた?
もちろん実際に戦場へ出向いたアイヌ人は少なくありません。
明治間もない戸籍法(1871年~)で日本人に組み込まれ、戦地へも駆り出された彼らの、勇敢な行動はたびたび讃えられたりもしました。
しかしそこには「勇敢なアイヌもいる」という差別の扱いもあったのです。
何をしようにも不当な圧力のもとで虐げられがちなアイヌの兵士たち。
本稿では、戦前の日本軍における彼等の活躍を見ていきたいと思います。
※本記事には、現代では差別的とされる表現が数カ所出てきます。当時の世相を正しく表現するため、敢えてそのままとしました。ご理解いただけますようお願い申し上げます
八甲田山に駆けつけた辨開凧次郎(イカシパ)
『ゴールデンカムイ』の舞台、直前の明治35年(1902年)。
雪深い青森県の山中で行われた「八甲田山雪中行軍訓練」で、当時の陸軍は、史上稀に見る規模の犠牲者を出しました。
訓練の参加者210名中、実に199名が遭難で死亡したのです。
このとき歩兵第五師団が、難航する救難と捜索のため、協力を求めたのがアイヌ民族。
寒冷な冬の山を捜索するのであれば、彼らこそ頼りになると考えたのです。
早速、要請を受けた茅部郡落部村(かやべぐんおとしべむら)のアイヌ・イカシパ(和名:辨開凧次郎/べんかい たこじろう)は、仲間10人を引き連れ、八甲田山へ向かいました。
『ゴールデンカムイ』ではこの中に、イポプテもいたという設定がなされています。
現場に到着した辨開らは、67日間、探索に参加しました。
が、もとよりほぼ全員が亡くなった事件ですから、彼等も生存者を発見することは出来ません。
その代りと言ってはなんですが、遺体と遺品の発見については優れた探索能力を発揮し、計11名の遺体と、多数の遺品を持ち帰ってきました。
遺族にとっては大きな慰みとなったことでしょう。
もともとイカシパは、弘化4年(1847年)にオトシベツ・コタン(八雲町)に生まれました。
彼には「偉大であり何でもできる」というアイヌ名が付けられており、大変、知勇に富む青年に成長。若くしてコタン(集落)を率いるようになります。
そして1876年(明治9年)から辨開凧次郎と和名を名乗るようになりました。
辨開は、日本軍の行軍を見て思うところがあったのでしょう。
寒冷地の行軍に長けたアイヌ部隊を組織すべきだと、陸軍大臣宛に陳情書を提出します。
我々は野蛮だと卑下しつつも、経験によって身につけた寒冷地を生き延びる能力がある――しかもそのための給金すら求めず、適切な戦闘を行いたいという願いを込めての陳情でした。
ところが、です。
陸軍省は現在の編成で充分であり、アイヌ部隊は必要ないという判断を下したのでした。イポプテの経歴は彼のものを辿るとわかりやすくなります。
第七師団と上川アイヌ
北海道における徴兵は、始めは旧松前藩領を対象としたものでした。
この当時の入営先は、第二師団(仙台)です。
例えば日清戦争のまっ最中、明治28年(1895年)には、屯田兵約4千名が組織され、第七師団が臨時構成されています。
初代師団長は、薩摩出身で屯田兵本部長である永山武四郎でした。
第七師団は、日清戦争では小樽から出征するものの、東京待機のまま終戦。
戦後、日露間の緊張が高まると、陸軍は軍備拡張に着手し、結果、第七師団は、対ロシア防衛の要として、月寒(のちに旭川)に設置されることとなります。
当時はまだ村であった旭川が町となり、明治33年(1900年)には、第七師団の建設請負工事が着工されました。
アイヌにとっては災難以外の何物でもありません。
明治20年頃まで、このあたりには彼らの集落がありました。
それが旭川に上川道路が開通し、屯田兵が入植してくるに従い、徐々に住処を奪われていったのです。
そして明治33年(1900年)。
旭川に師団司令部の設置が決まると、政府はアイヌとの約束を反故にしました。
当初、アイヌに「給与」される予定であった旭川周辺の土地が「給与予定」とされてしまったのです(近文アイヌ給与地問題)。
軍都・旭川は、アイヌの土地収奪を元に成立したものでした。
白襷隊の北風磯吉
そして1904年、ついに日露戦争を迎えます。
この戦いには、和人だけではなくキロランケのようなアイヌも兵士として応召、参戦することとなります。
明治33年(1900年)、第七師団に甲種合格した北風磯吉も、その一人です。
『ゴールデンカムイ』での杉元佐一も参加した斬り込み部隊「白襷隊」に志願。
二百三高地の激戦を生き抜きました。
映画「二百三高地」劇場予告https://www.youtube.com/watch?v=UdTze_0gXb4&t=15s
『あんな状況で杉元、よく生きていたな……』と思った読者の方もおられるでしょうが、他ならぬ北風磯吉も生存。
奉天会戦では、敵軍内に孤立した味方へ援軍を求めるため、決死の覚悟で伝令をかって出て、武名を挙げております。
そしてそれらの功績により、北風は功七級金鵄勲章が授与されました。
正確に申しますと、彼のみならず、戦闘に参加した63名のアイヌのうち実に58名が叙勲されたのです。
こうした奮戦と功績がアイヌの地位向上につながったのでしょうか?
確かに彼らは「勇敢なる旧土人」と賞賛されはしました。
ただ、その結果を受けて、アイヌの地位が向上する、差別がなくなるということは、ありませんでした。
むしろ、「アイヌですら功七級となるのだ、天皇陛下のために戦おう」と、政府の政策や忠誠心を煽るために利用されたのです。
北風は後にアイヌ語伝承者として、
『分類アイヌ語辞典』
『アイヌ語方言辞典』
の成立に貢献しています。
南極探検隊の山辺安之助と花守信吉
幕末から明治初期にかけ、日本とロシアでたびたび揉めた国境制定問題。
先住民族たちはこれに苦しめられました。
明治8年(1875年)、「樺太・千島交換条約」が制定されると、日本と縁の深い樺太アイヌたちは、ロシア領から日本領へと移住せねばならなかったのです。
こうして強制移住させられた中に、当時9才のヤヨマネクフもいました。
移住した樺太アイヌは、辛酸をなめました。
明治19年(1887年)には、コレラと天然痘(疱瘡)により、人口の4割が死滅するという悲劇に遭遇。
コレラは幕末期にもパンデミックを引き起こしています。
本州から和人が持ち込んだコレラや天然痘に対し、北海道の先住民は抵抗力がなく、多数の犠牲者が出てしまったのです。
こうした現象は、アメリカ大陸でも発生してたのは比較的有名な話でもありますね。
それでも成長したヤヨマネクフは、和名・山辺安之助(やまべ やすのすけ)を名乗り、成長してゆきます。
学校でも成績優秀で、リーダーシップにあふれる青年へと育っていったのです。
山辺安之助/wikipediaより引用
明治37年(1904年)、日露戦争が勃発すると、山辺が当時働いていた樺太の漁場は戦火によって失われました。
そこで彼は日本軍に協力し、偵察等の危険任務をこなします。
そして明治43年(1910年)になると、白瀬矗(しらせ のぶ)率いる探検隊が南極を目指すと知った山辺は、樺太犬20匹を引き連れての同行を決意しました。
同じく樺太アイヌの花守信吉(アイヌ名:シシラトカ)も、この探険に参加します。
「大和雪原」が一時的に日本領となる!
多くの樺太犬を失いながら、幾度かの挑戦を重ねて進む山辺たち。
艱難辛苦を乗り越えて、ついに白瀬隊は南極圏に到達します。
南極点には及ばなかったものの、1912年、ついに「大和雪原」と呼ばれる地帯を日本領としたのです。
しかしその後、
・後続の探検隊が送られなかったこと
・第二次世界大戦の敗戦
によって、日本領としての権利を放棄させられてしまいます。
歴史的な地名として正式に登録されたのは、発見から実に百年後、2012年のことでした。
山辺は樺太アイヌの指導者としてその後も活躍。金田一京助と協力し、『あいぬ物語』等の著書を残しています。
「天皇の赤子」とされるも
アイヌモシリが北海道とされ、そこに住むアイヌたちは日本国民とされました。ここまで見てきたように、成年男子は「天皇の赤子」として徴兵されたのです。
ただ、生きていたい。アイヌとか、和人とか、どうでもいいじゃないか。イポプテはそう振り返っています。それができなかったことは、当時の証言からも伺えます。
日本の臣民となるためには、書き言葉を覚え、知能試験を受け、兵士としての適性を調べられねばなりません。
言語の時点でアイヌはどうしたって不利になります。はなから不利な条件でランクをつけ、差別を正当化してきた歴史がそこにはあるのです。
徴兵検査で差別的な扱いを受ける。戦友から侮蔑的なことを言われる。自分はただ生きているだけなのに、どうしてそう扱ってくれないのか?
と、否が応でも向き合わねばならなかった苦悩が語り残されています。
イポプテは、そんな戸惑いがよくあらわれていた人物像でした。
金塊争奪戦にも巻き込まれていったイポプテ。彼の命を救い、最終回でも登場するキーアイテムは、マキリでした。
イポプテの物語には、「天皇の赤子」として扱われた兵士としての一面と、父から受け継いだマキリを掘り続ける、アイヌとしての本質が含まれています。
彼のような人が日本の近代史にいたことを、忘れてはならないのです。
「大東亜戦争」のなかで
『ゴールデンカムイ』は、満洲が大きな役割を果たします。
鶴見の陰謀は、満洲が大きく絡んでいたのです。
日本が建国した満洲国という国家は、「五族共和」を掲げていました。この満洲国にわたった日本人の中にはアイヌもおり、彼らはかの地で苦い思いを噛み締めることになります。
アイヌは模範的な日本人になることを目指す人も多いものでした。
しかし、満洲国は「五族共和」を掲げつつ、平然と中国人や朝鮮人を下に見る体制を取ります。
平等とは何か――そう改めて突きつけられる人も多くいたのです。
さらに満洲国は、日本を戦争に向かわせてゆきます。中国、そしてアメリカとイギリスまで敵対するアジア太平洋戦争へと向かっていったのです。
日本はアジアを解放する「大東亜戦争」であると掲げましたが、それはあくまで大義名分でしかありません。
この中で第七師団も南北に展開し、厳しい戦いが続いてゆきます。
昭和17年(1942年8月7日)〜昭和18年(1943年2月7日)にかけて、フィリピン・ガダルカナル島の戦い。
第七師団の一木清直支隊長率いる「一木支隊」は、全滅に近い損害を受けました。
この戦いで、一木支隊長も戦死。
さらに第七師団「北海支隊」は、アリューシャン列島のアッツ島・キスカ島の攻略へ。
昭和18年(1943年)5月12日〜 5月29日にかけての激戦で、日本軍は初の「玉砕」(全滅)となり、厳しい報道規制の最中でもこの敗報は国民へ知らされました。
第七師団はジリジリと後退する防衛戦の中、千島列島にまで戻ることとなりました。
沖縄戦6万4千人中、北海道出身者が1万人
昭和19年(1944年)2月。
留守第七師団を基幹に第七十七師団が再編成されました。
そんな大東亜戦争の最中、アイヌのコタン(集落)からも次々と兵士が応召されてゆきます。
兵士が多く出征するコタンは「模範的」とされたのです。
そんな中でも、彼らには彼らなりの祈りがありました。
コタンでは、アイヌがアイヌプリ(アイヌ式)の「カムイノミ」を行いました。敵に対する必勝よりも、仲間の無事を祈る儀式です。
昭和20年(1945年)、沖縄戦に参戦した日本軍兵士の出身地は、6万4千人のうち1万人が北海道出身者でした。
この中には、アイヌも43人含まれています。
徹底した皇民化政策の中で、もはや日露戦争のようにことさらアイヌであることは強調されません。同化したものとされていたのです。
沖縄県糸満市真栄平にある「南北之塔」は、南の地で戦った北の人々を供養する慰霊碑です。
ここでは、戦死したアイヌを悼む「イチャルパ」(供養祭)が何度も行われています(糸満市HP)。
沖縄戦のあとは、米軍が北海道の根室・釧路にまで空襲を行いました。
工業都市である室蘭は、空襲に加えて艦砲射撃まで実施され、甚大な被害を受けています。
このころには青函連絡船も全滅しており、北海道と本州の交通は一時断絶していたほどです。
そして昭和20年(1945年)8月9日。
日ソ不可侵条約を破ったソ連軍が、日本領へ向けて進軍を始め、満州、南樺太、千島列島が戦場となりました。
少数ではありますが、樺太や千島にいたアイヌ・ウィルタ・ニヴフ(ギリヤーク)も、北海道を目指して逃げ、そのまま移住することがありました。
彼らの逃避行は、大変なものでした。
逃げ惑う人々の上に、容赦なく降り注ぐ爆弾や砲弾。
とにかく逃げるために、断腸の思いで我が子を捨てる親もいたほどです。
あるいは捕縛され、シベリアの抑留所まで連行されてしまう男性もいました。
混乱の最中、真岡郵便局(現ホルムスク)では、9人の電信係の女性たちがいました。彼女らは最後となる通信を終えると、青酸カリを口に含み、自決。
この事件以外にも、各地で自決が相次いでゆきます。
一家心中。病院での看護婦の自決。逃亡の中、足手まといになると置き去りにされる老人や子どもたち。赤ん坊を断崖絶壁に投げ捨てるしかない親。その赤子を追うようにして飛び降りる母……樺太は地獄と化しました。
8月22日には、引き揚げ者を乗せた船(小笠原丸・第二号新興丸・泰東丸)が、ソ連の潜水艦により撃沈させられています。
日増しに緊張度の高まる環境のもと、第七十七師団はソ連軍のさらなる侵攻に備えて警戒を怠りませんでした。
しかし、ついにその日は訪れないまま、最後の師団長・鯉登行一(こいと ぎょういち)のもとで、終焉の日を迎えるのです。
GHQへの期待は肩透かし そして戦後も……
終戦後、日本がGHQの支配下に置かれると、アイヌは期待を寄せました。
変わりゆく時代。
古い権力が駆逐される中、民主化政策が行われる。
その中でアイヌの地位向上が実現するのではないか、と考えたのです。
しかし、GHQは冷淡でした。
戦争が終わってからも、アイヌの受ける差別や蔑視は続きます。
儀式を観光の目玉にされる。
間違ったイメージを流布される、等々……。
教育。就職。結婚。就職。アイヌはアイヌというだけで、ライフステージにおいてさまざまな差別を受けてしまうのです。
近年定義された「マイクロアグレッション」も考えたいところです。
アイヌだから感受性が豊かであるとか。家でも民族衣装を着ているのだろうとか。踊りが上手だろうとか。
発する側は悪意があろうとなかろうが、決めつけは有害です。そのたびに「そんなことねえべ」と軽く笑って言うだけでも、心は疲弊します。
『ゴールデンカムイ』のブームに湧く中、私たちも真剣に考えねばならないことがあります。
このコンテンツに乗っかっていると言われても仕方ない和人の一人として、私もそこは真剣に考えたいのです。
アイヌの問題はアイヌの人々だけではなく、彼らと関わった和人の問題でもある。
和人の私は当事者ではございません、なんて言えるはずもない。
差別は、歴史の中からそこにいた人の姿を消してしまいます。
そういうことは、いい加減やめるべきだし、うるさいことを言ったら楽しくないとか、そんな無責任なこともできないはずです。
ちょっと真面目な主張でのシメとなりましたが、これからもっと真剣に取り組んでいきたいと、私は思うのです。
『ゴールデンカムイ』の読者には、セットで薦めたい一冊があります。
『アイヌもやもや: 見えない化されている「わたしたち」と、そこにふれてはいけない気がしてしまう「わたしたち」の。』です。
野田先生とは違う、ほのぼのとした田房永子先生のタッチで、アイヌの直面するもやもやした違和感がそこにはあります。
是非ともセットで読んで、今を生きる人々の苦難に思いを馳せていきましょう。
https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2024/04/16/114247