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なぜ「あってはならない悪所」吉原遊廓は日本人を魅了したのか…その「驚きの理由」

2025-01-18 | アイヌ民族関連

現代ビジネス 2025年1月17日 田中 優子

2025年大河ドラマ『べらぼう』の主人公・蔦屋重三郎は、遊廓で栄えた街として有名な吉原で生まれました。吉原遊廓では、華やかな遊女たちが手招き、夜も眠らない「不夜城」と呼ばれていました。

はたして、日本人にとって「遊廓」とは何だったのでしょうか。『遊廓と日本人』の著者・田中優子さんが、「あってはならない悪所」遊廓の世界をわかりやすく解説します。

遊廓の成立と江戸時代の「ガバンナス体制」

年代を追っていくと、あることに気づきます。それは、遊廓の成立と芝居町の成立が、海外との交易体制の整備(いわゆる「鎖国」)と参勤交代の確立の時期と重なっていることです。

1633年に奉書船以外の日本船の渡航、帰国が禁じられました。同じ年にオランダ商館長の江戸参府と、アイヌのウイマム(御目見得)が始まります。

1634年には、琉球国王の謝恩使(使節)の制度が始まりました。長崎の町役人による出島の構築も着手されます。1635年には、すべての船の海外渡航と帰国を禁じました。そして「参勤交代」が始まったのです。

1636年には、出島の構築が終わり、ポルトガル人が集められます。そして正式な朝鮮通信使が来日するようになりました。

このように、江戸幕府は開かれてから約30年後に、江戸時代独特のガバナンス体制を整え、江戸の町は参勤交代によってその後は急速に人口が増加し、世界でもっとも大きな都市になるわけです。

遊女については、もっと長い歴史の中で見ていくことができますが、遊廓はこの江戸時代に、幕府公認のもとで庄司甚右衛門が土地を与えられて成立し、遊廓としての文化と様式を整えたのです。そのような理由で、江戸時代の遊廓について述べることは、「廓」の文化を伝える上で必須と考えています。

なぜ「吉原遊廓」が重要なのか

なお、すでに述べたように江戸時代には全国に25ヵ所以上の公認の遊廓がありました。もっとも早く発達した遊廓は京都と大坂の遊廓でした。しかし本書では主に、江戸の吉原遊廓について書きます。

なぜなら、吉原が芝居町と互いに補い合い均衡を保った唯一の遊廓であり、もっとも遊女の人数も客の人数も多かったからです。また全国から遊女が集まることで、多様な言語を標準言語にまとめるための「遊廓言葉」が発達したのも、吉原遊廓においてでした。

京都と大坂の遊廓は江戸時代初期の著述の主な舞台になりましたので、『色道大鏡』や『好色一代男』『好色二代男』などは当然、参照しますが、18~19世紀を通じて文芸ともっとも深く関わったのは、吉原遊廓でした。

京都・大坂の遊女に比べても吉原の遊女は贅を尽くし、それが日本橋を中心とする呉服業界の大きな収入源にもなって、経済をまわしていました。

さらに言えば、吉原遊廓があったからこそ、日本でもっとも優れていた吉原の芸者衆が、明治以降の日本文化に大きな影響を与えたのです。以上の理由で、多くの遊廓の中で江戸吉原を中心に見ていきたいと思います。

さらにこちらの記事<「高額の借金返済」に「梅毒のリスク」…遊廓が「二度と出現してはいけない悪所」だと言える「ヤバすぎる真実」>では、「あってはならない悪所」遊廓の魅力と「知られざる真実」をわかりやすく解説します。ぜひお読みください。

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/なぜ-あってはならない悪所-吉原遊廓は日本人を魅了したのか-その-驚きの理由/ar-AA1xoGcw?ocid=BingNewsVerp

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