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厚岸に残るアイヌ民族伝説

2019-05-14 | アイヌ民族関連
北海道新聞 05/13 16:00
町海事記念館の元学芸員解説
 【厚岸】町内にはアイヌ民族の伝説がいくつも残されている。弟子屈町出身のアイヌ文化研究家、更科源蔵らが残した記録を、3月末まで町海事記念館の学芸員として研究してきた車塚洋・町教委管理課長補佐の解説で読み解き、紹介する。(村岡健一)
■カキはパシクル沼から 太刀沈め神にもらう
 厚岸のカキの起源は釧路市音別と白糠町の境にあるパシクル沼であるという伝説が残されている。
 旧市立釧路図書館の初代館長で郷土史家の故佐藤直太郎による「続・佐藤直太郎郷土研究論文集」では、「その頃、厚岸には牡蠣(かき)がなかった。ある飢饉(ききん)の年、厚岸の長は立派なタンネップ(太刀)を持って来て、沼の神に牡蠣を分けてくださるようお願いして、太刀を沈め、牡蠣をもらって帰った。それから厚岸湖に牡蠣ができるようになったが、パシクル沼の方はだんだん減ってなくなった」などと記述がある。
 その他にも、厚岸のカキはパシクル沼から来て、そのパシクル沼には十勝から一人の若者が稚貝を船に積んできて放した、という伝説もある。なお、現在の厚岸のカキの大部分は、宮城県産の種苗を厚岸で育てたものだ。
■山がけんか 負けて国後まで逃亡
 このほかにもカキにまつわる伝説がある。更科源蔵らの「北海道の伝説」によると、「厚岸湖の中のカキ島のところに切り立つような高い山があった。その山が阿寒の山と仲が悪く、よくけんかをしていたが、阿寒の山には兄弟が多いので、カキ島の山はついにけんかに負けて、ここを逃げ出すことになったが、その時厚岸(コタン)の人たちに形見としてカキ貝を残していったのが今のカキ島」。
 「逃げ出した山は途中、霧多布の琵琶瀬(びわせ)(ピパシエイ=貝殻のある所)で一休みして振り返ってみたところ、相変わらず阿寒の山々がこっちをにらんでいるので、ついに千島の国後の島まで逃げていった。それが現在の爺爺山(ちゃちゃやま)(国後島の爺々岳《ちゃちゃだけ》)で、爺爺山の麓の海岸にカキのあるのはその証拠。途中で休んだ琵琶瀬にも貝殻が残っている」などと記されている。
 車塚課長補佐によると、厚岸のアイヌ民族は国後島に交易に訪れていたといい、広い交易圏がスケールの大きな伝説の形成に影響した可能性がある。
■巨木・逆水松(さかさおんこ) 老婆が刺して根付く
 厚岸のアイヌ民族は、十勝管内浦幌や陸別のアイヌ民族と攻防を繰り返したり、冬の食糧難で釧路市の春採湖の魚を狙って遠征したりした―など、広範囲に活動していたことをうかがい知ることができる。
 厚岸湖を見下ろす「お供山(そなえやま)」の山頂に立つイチイの巨木は、枝が根のように広がり、逆さまに生えているようにみえることから「逆水松」の名前がついた。高さ7.7メートル、幹の回りが4.42メートルある町指定天然記念物。この木にまつわる伝説もいくつかある。
 道庁の「北海道の口碑伝説」によると、厚岸のアイヌ民族の長が不在の時、飢饉にあった阿寒や網走などのアイヌ民族が食料を求めて攻め寄せてきた。男勝りの老婆ツクニが一族を引き連れてチャシに立てこもったが、敵の毒矢に当たって倒れた。無念の形相で手にしていたオンコを地面に突き刺し「われは死すともこの地を敵に渡さじ。神様なにとぞ守りたまえ」などと言い残して死んだ。その後、オンコは根を下ろし枝を張ったという。
 一方、更科源蔵らの「北海道の伝説」では、アイヌ民族の老婆が、アイヌ民族の反乱の際、和人の子供を隠して助け、松前藩主から褒美をもらった。それを知ったアイヌ民族が老婆を憎んで殺気立ったので、老婆は1本のつえをつきながら逃げて大きな岩穴に隠れた。恐ろしくて穴から出ることができず、つえを穴の口に立てたまま死んでしまった。そのつえに根が生えて成長したのが逆水松だという。
 車塚課長補佐は「伝説は史実かどうかは分からず、荒唐無稽に思えるものもある」としながらも、「アイヌ民族の生活の指針や歴史認識が含まれており、秘められた意図を読み解くことが大切だ」と強調している。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/304568
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